ファピーの風の花

2006/12/12(火)11:30

反骨の在日詩人 金 時鐘/ 詩人は「魂の技士」

一昨日、書いた李政美のコンサートで偶然、前の席に詩人の金 時鐘先生がおられました。77歳、3年ぶりにお会いしましたが、元気そのものでした。 先生は在日社会だけではなく、日本の文学界でも有名な方です。 その波乱万丈の半生と反骨精神は人間として尊敬するに値する方です。 以下の文は、2年前のある講演会で重い口を開いて語った講演内容を抜粋したものです。 時代背景や、組織の部分で、理解できない部分があるでしょうが、詩人、金時鐘の”人なりきを”垣間見てください。 詩人は「魂の技士」だ。芸術は政治に優先するという決まりがあった。 ・・・・結婚式のスピーチも決まっていた。 反米、反日の言説だ。偉大なる首領様と同じになるのが主体である。民戦時代(昭和20年終戦後)はマルクスレーニンに忠実であるのが主体だった。総聯は金日成が主体。 馬鹿みたいに同じことを書いたビラを書かされた。いやになる。ヂンダレ(山つつじ=同人雑誌)もちゃんと書くようになった。今読んでもその時書いていることは的確だ。入院生活が終わるころ、金時鐘ヂンダレ一派を排除せよ!という命令が出る。 組織(総聯)からの圧力で消された詩集もある。印刷寸前まで行っていたが消された。 70年に「新潟」という詩集を出した。原稿は59年までに出来上がっていたが圧力で出せなかった。朝鮮総聯の圏外へ出た。62年にも作家同盟をつくろうとしたが圧力で消された。 ものを書いて発表するときには総聯の査閲のもと発表しなくてはいけなかった。一切書いてはいけないに等しい。大阪外大の非常勤にも呼ばれたが、それも止められた。よう発狂せずに生きたと思う。 第2世文学論も総聯により組織回収された。文書で自己批判ができないなら口頭で自己批判をしろと本国からも人が来た。 「詩をするものに得心のいかないものに負いってはいけないのです」と答えた。 帰国事業の「地上の楽園」宣伝も批判をやらかしてしまった。「地上の楽園への渇望が風船のように膨らまして見るのではなく現実的に生きろ!日本と同じ苦労を北でもしろ」と小さく書いた。 1平方メートルあたりに1トン以上の爆弾が落ちて何も無いところに「地上の楽園はありえん」と書いたのだが、「帰国事業阻害の策謀」といわれた。 ヂンダレも終わり、「カリオン」という雑誌をつくった。4人で始めたが始まる直前に一人が抜けた。カリオンでは梁石日が勇ましかった。その分私がひやひやした。 梁石日(北野たけし主演の”夜を駆けて”の原作者)がたまたま空手をやっていて飲み屋でよく喧嘩をした。梁石日がケンカを起こして私が捕まるというケースもあった。 私は、17歳で朝鮮人になり、皇国少年から火がついたように国語の勉強をはじめた。「(ハングルの)あ」すら書けない状況だった。2年で国語を呼び戻した。 梁石日らは朝鮮語を一切知らない(生まれが日本)。日本に来ると大知識人になった。みんなが知らないから。関西の花形活動家になる。 ヂンダレ批判が厳しくなり、しんどくなり、朝鮮民報に反論を書きたいと言ったが、「社会民主主義新聞ではなない」と断られた。東京の中央の文学界のメンバーと公開討論会をさせてもらえることになった。 2時ごろからはじめてずいぶん遅くまでやった。東京のメンバーも潜水艦組み(不法入国)。東京か大阪に闇舟がついたかの違いだ!と言ったら「本当にそうや」と言われた。そうゆう形の思想統制だった。 金日成パルチザン記が出回る前に韓雪野の「歴史」という本が大ヒットになった。 15年ほど前までは朝鮮学校の副教材にも使われていた。その中の金日成の伝記がナポレオン物語とまったく同じだった。そして金日成の写真が昭和天皇の写真とまったく同じだった。 2つの嫌疑書に組織部はふるえあがってヂンダレをたたくことになる。しかしそのようなことがなければ私は一番に北へ帰っていただろう。北へ帰ることが夢であった。もし帰っていれば3回くらい処刑されていたかもしれない。そのことがあってまだ命を長らえている。 在日という意識は国の意識を持っているのだからすぐれた活動家になる。たくさんの若い世代に出会う。 感性や思考の対象が私と違う。知らない祖国への憧れは持っていても言葉も文化も知らない。私の仕事は日本語訳だった。読ませたいものを訳した。ものを考える感触は日本と本国では違う。 80年代までも総聯は「日本に住むことは一過性だ」と言っていた。しかし一度住めば動けないことは理の当然。45年の時も60万人が日本に残った。さっと動かせるものではない。朝鮮語だけで書けということは、在日を抹殺することだ。 本国と隔絶をしえなかった世代に「2世文学論」を書いた。在日の特殊性は本国と同じでは語れない。54年には「在日を生きる」という言葉を用いた。 日本で住むということは南北を同視野における。 日本では立場が違っても『ひとつどころを同じく生きる』ことができる。 思想や立場が違うからといっても同じ家で暮らす。南でも北でもありえない状況が日本ではある。日本では対立していても同じ屋根の人なのだ。 在日の実存を生きるを、「在日を生きる」と表現した。 拉致の悲劇が お互いを見つめなおす契機ともなれば  金時鐘 「もともと捨てられるだけの『国』にありついたことのない種族」の原・祖国ではないのだ。58年に早くも「在日を生きる」(「在日の実存を生きる」と言いたかったとのこと)と言った金時鐘のまなざしがあった。玄界灘に漂う魂の原点から、原・祖国への想いを押し上げ、搾り出した「私が日本で朝鮮人でありつづける限り、『朝鮮』は必ず私の祖国となってくれよう」との言葉は、「在日を生きる」彼の精神の核だ。 そこに、彼の詩作の日本語にこだわるべき「日本語の根拠」があり、努力して獲得した朝鮮語を教壇に立って日本人生徒に伝え教える「朝鮮語の意味」がある。「わたしの日本語は日本への報復でもある」がかかえる、歴史と時間と「恨(ハン)」と愛がある。「在日こそ、南北を等距離に見られる位置にいる。」 「強制連行に見られるような民族受難を強いられた私たちは、拉致家族の悲嘆が骨身にしみてわかる。その悲嘆に誠実に向き合えば、必ず日本人も、何百倍もの悲嘆が朝鮮人にもあることに思い致してくれる。拉致の悲劇は互いを見つめ直すきっかけになる。そう信じた。」(02.11.22「朝日新聞」) うちの国はずっと中国の一省のような弱小国だった。今でも超大国の同意なしに統一することは有り得ない。会ってはいけない人と会い、言ってはいけないことを言える関係が実質な統一だ。 在日で一緒に動くことが大事。ワンこコリアンフェスティバルも私の提言が含まれる。おまつりばかりでさびしいが言葉が寝付いていかないといけない。15年くらい前に若い人と語った。「8.15、3.1には全国からキャンプをしに若い人がリュックを背負ってやってきて飲んで語ろう」という夢を語った。 そのワンコリアンフェスティバルも大きい動きになった通じ合うことを重ねれば南北統一の前に統一ができるんだ。言葉の問題ひとつにしても努力が足りない。中国人は中国語を守っている。 在日ならではの言葉の感覚もあり、日本語で最初に濁音が来る単語はうまく発音できない。その言葉の差異を感じているのが在日だ。自分の国にないものをかかえている。在日は本国に似せているわけじゃなく本国に持ち込めるものを生産するのも在日である、と50年ほど前に書いた。 金時鐘の半生 街に万歳(マンセー)!の歓喜の声渦巻く、1945年8月15日・十六才の夏、日本の敗戦と故国の解放を、虚脱の中「皇国少年」の自己解体として迎え、突然「与えられた」祖国にとまどいながらもやがて学生として光州で南労党と出会い、十九才の時「四・三事件」に関与して死線をさまよい殺戮の済州島を脱出、49年6月兵庫県須磨に密航した元・南労党予備党員のあの詩人。「日帝統治」「分断」「在日」の、その幾重もの痛切を一身に刻み込んで「在日」を生きる詩人、金時鐘(キム・シジョン)その人だ。 「クレメンタインの歌」こそは、母国語を棄てた少年期の彼と朝鮮語とを繋ぐ歌であった。日本敗戦のあと「海行かば」や「児島高徳の歌」を歌っては何日も涙を流したという彼…。やがて、ひとりでに口を衝いて出た歌、かつて父が口ずさんでいた歌によって「かようにも完成をみていた皇国臣民の私が、朝鮮人に立ち返るきっかけを持ったのはたったひと筋の歌からであった」という。それがこの「クレメンタインの歌」なのだった。 (金時鐘「クレメンタインの歌」1979)    ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)    ナエサラン クレメンタイン(わがいとしのクレメンタインよ)      ヌルグンエビ ホンジャトゴ(老いた父ひとりにして)      ヨンヨン アジョ カッヌニャ(おまえは本当に去ったのか)'''   釣り糸を垂れる父の膝で、小さいときから父とともに唄って覚えた朝鮮の歌だった。父も母も、つかえた言葉で、振る舞いで、歌に託した心の声で、私に残す生理の言葉を与えてくれていたのだ。ようやく分かりだした父の悲しみが、溢れるように私を洗って行った。言葉には、抱えたままの伝達があることも、このときようやく知ったのだ。乾上がった土に沁む慈雨のように、言葉は私に朝鮮を蘇らせた。 「ひとりっ子の安全を、恨み多い日本に託さねばならなかった父の思いこそ、在日する私の祈りの核だ。」「後ほどアメリカの民謡だということを知って、少々がっかりしました」 「誰が唄いだして、誰がこの歌詞を書いて私にまで伝わって来た歌なのかはしりませんが・・・」  「どうであろうとこれは私の“朝鮮”の歌だ。父が私にくれた歌であり、私が父に返す祈りの歌なのだ。私の歌。私の言葉。この抱えきれない愛憎のリフレイン」(金時鐘「クレメンタインの歌」1979) 日帝支配末期、使ってはならない「朝鮮語」だけの生活を貫き通し、民族服禁止に従わず悠然と町を出歩き、そのくせ「朝日」「毎日」を黙って読み、ぎっしり日本の本のつまっている部屋を持ち、無職の釣り人を通した父。解放されるまでついぞ日本語を使わなかった父。その父が「四・三事件」で彼が追われるようになると、あるだけのコネと、なけなしの財をはたいて日本へ密航させる。「ひとりっ子の安全を、恨み多い日本に託さねばならなかった」 父に、金時鐘は当然その後会っていない。永く反共軍事独裁国家であった父の住む地に戻ることは死を意味した。「金大中が大統領になったおかげで数年前、韓国を訪れることができ、親の墓を死後四十年数年ぶりで探すことができた。全くの特別配慮であり、朝鮮籍のままでは来年からは難しいかもしれない。せめて年一回ぐらいの草刈と墓参りは続けたいが・・・」

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