ファピーの風の花

2006/12/25(月)20:33

.“神風”はモスクワに吹いた -世界初の特攻戦 タラーンー

平和=Peace news(32)

"神風”はモスクワに吹いた -世界初の特攻戦 タラーンー 【アメリカ カルフォルニア州の航空博物館所蔵のソビエト軍戦闘機 ポリカルポフ I-16。 1939年 日ソの間に起こったノモンハン事件では、日本の戦闘機相手に優勢でしたが、1941年の独ソ戦時には、旧式化し、バタバタ撃墜されました。タラーン攻撃では、最も多く使用された機体と言われています。】 神風(しんぷう)特別攻撃隊。 通称“カミカゼ”。 航空機を利用した自爆攻撃として、有名なのは、皆さんよくご存知でしょう。 しかし、この特別攻撃(以下:特攻)は、日本が世界初ではありません。 実は、世界初の航空機による体当たり攻撃は、1941年の秋、ソビエトで行なわれたのでした。 (筆者注:海外の文献を読むと、ドイツ軍侵攻直後の1941年7月にソビエト機が体当たり攻撃を行なった記録があります。これに関しては、あまり資料がないため、突発的な物と判断し、1941年の秋を最初としました。) 1941年6月、ドイツは、ソビエト侵攻作戦“バルバロッサ”を発動し、怒涛の進撃を開始します。 独ソ戦(ロシアでは、大祖国戦争と呼びます。)の始まりです。 戦車などを中心に急速に突進するドイツ軍得意の電撃戦に加え、ソビエト軍指導部の稚拙な作戦指導も災いして、わずか半年後には、首都モスクワが陥落寸前になります。 近代戦争の常として、まず攻撃は、敵の反撃が及びにくい空爆や砲撃から始まります。 そして、相手にダメージを与えた後、戦車や歩兵などの地上軍が突入し、占領となります。 独ソ戦もその例に漏れず、10月からは、ドイツ軍爆撃機が、地上軍侵攻の露払いとばかりにモスクワに爆撃を行ないました。 この時期、ソビエトの航空機は、新型機への転換期で、持てる航空機の多くは、旧式機でした。 そのため、当時、世界最先端を誇っていたドイツ機に勝るものはわずかで、まともに空中戦で勝つことは難しい状況でした。 そこで、生まれたのが、タラーンと呼ばれる戦法です。 ドイツ軍の爆撃機に主に旧式機で近づき、その後、体当たりすると言うものでした。 特攻と聞くと、一般的には、戦艦や航空母艦などの艦船に体当たりすると言うイメージがありますが、それだけではありません。 日本では、陸軍の戦闘機が、性能的に段違いのアメリカ爆撃機B-29に激突するための特攻隊が組織され、本土上空で死闘を演じました。 ですから、ソビエトのタラーンは、日本陸軍型特攻の先駆けと言えます。 タラーンは、日本軍の様に組織的に運用されたわけではなかったようで、特攻専用部隊は存在しなかった様です。それでも、1000件近い例が記録されています。 ソビエト軍の作戦指導は苛烈で、人命軽視の最たるものでした。 ですから、もしかすると、タラーンを組織的に運用した部隊もあったかもしれません。 その後、史実通り、モスクワは、記録的な寒波に襲われます。 冬将軍とシベリアからの増援で盛り返すソビエト軍の反撃を受け、モスクワまでわずか10数キロまで肉薄したドイツ軍は、後退を余儀なくされます。 結局、この敗戦は、ドイツに大きなダメージを与え、以降は、ソビエト軍の反撃にドイツ軍は、次第にジリジリと後退をしていきます。 戦況が好転したため、タラーン攻撃は、潮が引くように終わりました。 祖国防衛のため、命を散らせたソビエト版特攻部隊。 しかし、組織的に運用されていなかったためか、あまり、知られることもなく、歴史の片隅にわずかな記録が残る程度です。 また、特攻作戦の常で、彼らの遺体は、激突し、四散したのでしょう。大多数が発見されることはありませんでした。 モスクワを守った知られざる英雄たち、その亡骸は、今もロシアの冷たい大地の下に眠っているのかもしれません。 転載元: シルクロードから嫁が来た!!

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