2007/01/14(日)11:50
意外と知られていない、芥川賞受賞の在日作家、今は亡き李良枝
意外と知られていない、芥川賞受賞の在日作家、今は亡き李良枝
年始の慌しさに11日の父の法要と、相変わらずバタバタと時間だけが過ぎてしまいました。
時間の合間に、一息と思い、出張や移動の最中、久しぶりに在日韓国人作家で、今は亡き李良枝の本を読みました。
処女作《ナビタリョン》と、記念すべき第100の芥川賞受賞作品《由熙》は、1992年、37歳で亡くなった・イ ヤンジャ(李良枝・Lee Yangji)、在日韓国人(二世)の作品です。
在りし日の李良枝 『由熙/ナビタリョン』講談社
著者の李良枝のことは、芥川賞を受賞したころから知ってましたが、発表した頃は、自分自身が、興味を抱くほどで無かった気がします。10年以上前に買った《由熙》は、本棚に鎮座?ホコリをかぶっています。38歳の若さで亡くなったことは知っていましたが、その人柄や内容にはあまり関心が無かったのも事実です。
何気なく、図書館に週末出入りし、韓国語の詩集を読んでる時に、ふと思い立って全集を借りて読んで見ました。
若い頃、在日作家の芥川賞第一号受賞作家の《李恢成のうすを打つ女》も、同じく、芥川賞受賞作家、玄 月も在日、2世、3世の世代の違いがあると論評されますが、私は"同じ視点”としか見れない、それが私には(文学を語るレベルに無い)どうしても同じにしか、見えてこない分、新鮮に思えないのは事実です。
先ほどの《李恢成》は、『時代と人間の運命-エッセー編』(同時代社、1996)の中で、在日同胞文学者の若い世代の作家たち(第三世代の作家)の一人として、李良枝を紹介していました。
「第三世代の作家たちが何よりも切実さを感じて書く作品世界とは、おまえとわたしの次元、、主に個人的な精神世界を反映したもの」「こうした潮流は何よりも在日同胞生活の変化からくる構造的矛盾の反映」「何年か前に夭折した李良枝がそうです」と。 (私には言語明瞭、意味不明。もっと目線を下げて批評して欲しいと思います・・・。)
《由熙》は韓国に留学した在日韓国人の由熙が大学を中退して日本に帰るところから話が始まり、回想で
話が組み立てられます。視点が由熙の下宿先のオンニ(お姉さん)にあるため、全体に客観的で抑制の利
いた文章になっています。由熙は韓国社会に馴染むことが出来ずに、下宿先を転々とし、舞台となるこの
下宿で初めてオンニとアジュモニ(おばさん)という信頼できる韓国人に出会い心が交流するのですが、
結局は韓国を去ることになってしまいます。
《由熙》では由熙の日本での生活が語られることはありません。だからどうしても《ナビ・タリョン》の延長として読んでしまいます。
由熙は韓国を愛そうとし、ハングルを愛そうと努力します。もちろんそれがウリナラであり、ウリマルであるからです。しかし彼女はどうしてもそれが出来ない。
多分日本でハングルを勉強してたときはそうでもなかったのでしょうが、韓国ではそこにいる人とつきあわなければならない。雑踏と騒音の中でも足が竦んでしまう由熙。
書くことは完璧なのに、発音が一向に上達しない、努力さえ出来ない由熙。カセットでテグム(大琴)を聴きながら448枚もの日本語の文章を書き綴り、ハングル文字を読むことも書くこともせず、ある時は、日本語の朗読をしていた由熙。
夜中に独りで人事不省になるまで酔い、涙と洟にまみれながらノートに書いたハングル文字。
オンニ
私は 偽善者です
私は 嘘つきです
ウリナラ
愛することができません
テグム 好きです
テグムの音はウリマル(韓国言葉)です
試験でウリナラ(わが国)と書かなければならなかったのに、どうしてもそれが書けなかった。
手が凍り付き、どうしても前に進むことができない。
時間があれば、”由熙”を、是非一度、ご一読ください。
著者・李良枝のプロフィール
1955年、在日韓国人二世として静岡県に生まれる。
9歳のとき、父母が日本に帰化したため、こどもの自分も帰化していたことを15歳にして始めて知る。
韓国語を学び、伽や琴併唱(カヤグムピョンチャン)の第一人者朴貴姫(パククィヒ)先生に師事するものの、韓国語の発音をうまく歌にのせることができず伽や琴を断念するが、韓国巫俗伝統舞踊を踊る金淑子(キムスクチャ)先生の舞踊に魅せられ師事。
1964年両親が日本に帰化。田中淑枝(たなかよしえ)が本名となるが、良枝の字を使う。未成年のため、自動的に日本国籍を取得(当時、16歳の長兄は日本帰化に反対していた)。両親の不仲は、別居から離婚裁判へと進む。何度か家出を繰り返し、京都へ。観光旅館にフロント兼小間使いとして住み込む。旅館の主人のはからいで、京都の高校に編入、日本史の教師との出会いを通じて自分の血である民族のことを考え始める。
上京後、韓国の伽椰琴、巫俗伝統舞踊に魅了され、20歳で伽椰琴(カヤグム)と出会い、25歳のとき韓国に留学。
そのころ、「冤罪事件」として知られる丸正事件の主犯とされた李得賢氏の釈放要求運動へ参加し、ハンガーストライキを行う。
27歳のとき、ソウル大学に入学、このころから小説を書き始める。
27歳ではじめての小説「ナビタリョン」を発表。
両親の離婚成立。小説「由煕」で第百回芥川賞受賞。出雲市や富士吉田市にて韓国巫俗伝統舞踊発表会開催。
1988年,34歳で発表した「由熙」で芥川賞を受賞。
ソウル大学卒業後、梨花女子大学舞踊学科大学院へ入学。
出雲、富士吉田、ソウル等での踊りの公演を行う。
大学院単位取得後、日本で小説執筆等に専念。1992年5月22日、急性心筋炎のため、逝去。享年37歳。
著書目録
【単行本】
かずきめ 1983年講談社
刻 1985年講談社
由熙 1989年講談社
石の聲 1992年講談社
【全集】
李良枝全集 1993年講談社
【文庫】
ナビ・タリョン 1989年講談社文庫
由熙/ナビ・タリョン 1997年講談社文芸文庫