『できちゃった結婚』…論文風に書いてみた
最近TVなどで『できちゃった結婚』という言葉をよく耳にする。そこで私は、『できちゃった結婚』について、同時に『命の重さ』について、書こうと思う。 まず、法律では『できちゃった結婚』をどうとらえているのだろうか?日本国憲法第二条第二項では「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚ならびに婚姻お呼び家族に関するそのたの事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」とある。法律では、『できちゃった結婚』は両性の意志を尊重しているようである。 しかし、法律で認められているとしても、私は『できちゃった結婚』は反対である。本来結婚とは「この人と一生涯一緒にいたい。」という気持ちが「結婚したい。」という気持ちに変わって、お互いの気持ちを確認しあった上で始めて成り立つものではないだろうか。『できちゃった結婚』の場合、「いつかは結婚しようかなって思ってた所に赤ちゃんができたから」とか、結局自分達の気持ちじゃなく赤ちゃん出来ちゃった事がきっかけなのではないだろうか。つまり、子供は「ついで」になってしまうのだ。そんな中途半端な気持ちでの結婚が、幼児虐待や育児放棄の一因になっているとおもう。だいたい、『できちゃった』なんていう表現事態が間違っている。子供は「できる」ものではなく「さずかる」もの。子供が「できる」、なんて表現をしている人は『一つの命の重さ』に関する意識が欠如しているのだと想う。もし、未婚のときに子供をさずかってしまったとしたら、両性はそのことと、『命の重さ』について、深く考え、悩み、反省することが大切だとおもう。 「こどもできちゃった。」「じゃあ結婚しようか。」なんてことを簡単にしてしまうような人たちの結婚を、私は心から祝福しようとは思わない。