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明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water    ケン高倉☆彡

明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water ケン高倉☆彡

六章

昭和21年子供を産んだイキ子は、「源一郎」に任されていた映画館が、戦争でなくなってしまったので子供の為に手に職を付けなければと生まれた子供を連れ合いの男性にまかせ、神奈川の美容室に美容師の勉強に行きました。

「源一郎」は、敗戦し、映画館も焼けてしまい、敗戦した日本と資力もなくなって呆然としてしまい半分諦めてヤケクソになっていました。その頃の建物と言ったなら焼け野原で新しい木材などは無く、人家などは、焼け焦げた木炭のような木材で家を建てていたのです。
そんな時、「源一郎」のところに市や県当局から「戦後の娯楽という物が無いので、もう一度映画館を建てて欲しい。戦後、暗くなってしまったこの日立にもう一度娯楽施設を再建するよう」にと要請があったのです。
「源一郎」は、迷いました。でも祖父は暗くなった人々を黙って見ていられず最初映画館を始めた頃と言うのは、資力が無かったので大きい映画館を建てる事は出来ませんでした。
「相賀館が再開されると、娯楽に飢えていた市民がどっとつめかけた。客席の腰掛は腰の痛くなる代物で、四人掛けだが、詰めれば五人ぐらいは坐れる木製の長椅子である。椅子なんか上等でなくていいじゃないか、戦争は終ったのだ。空襲のサイレンにおびえる事も無く、ゆっくり映画を見られるのだから―テレビのなかった時代、唯一の娯楽として大人も子供も映画を楽しみにしていた。やっとささやかな庶民の幸せを手にしたわけだ。」(『日立街史』 P71)

「源一郎」は、新しく映画館を建て直したかったのですが、資力が有りません。
「源一郎」が、思い悩んでいると、日立で名の知れている鈴昇組の頭領・鈴木昇氏に「月賦払いでやろう」と言われたのです。祖父は、興行師の意地を見せるように、戦争が終わった一年後の昭和21年に月払いで二階造りの建坪二百余坪の劇場を建てたのです。昭和22年、日立の桐木田に桜の木が植えた年、もう一度、新道(現・銀座通り)からちょっと路地を入った所で、映画館をはじめました。この時代、「源一郎」と言う人は何と思い切った事をしたのでしょう。鈴木昇氏に言われるまで月払いなど人の思いつきもしませんでした。それを即実行したのですからすごい行動力のあった人でした。
「建物南側の正面入り口を入ると、下足番が居り、下駄を預けて下足札を受け取って上がると、舞台正面が平席になって居り、左手は花道で、その向こうが桟敷席、右手も同じ桟敷席になっていた。二階は右手階段を上がって左、右正面と階段席であった。」
(『旭町の今昔』から)
「戦後、日立で新材で建てられた建物の最大のものといえば、昭和二十二年に再建された映画劇場『相賀館』である。全市の七割が無惨な焼け野原となり、荒涼たる焼け跡には、拾い集めた木材と焼けトタンにコールタールを染ったトタンかこいの黒いバラック、粗末な板切れを打ち付けた掘建小屋が多かった」
         (『日立街史』 娯楽の殿堂から)

祖父は、その頃の日立が暗くなってしまったのを見ていられなかったのだと思います。「暗くなってしまった人々を明るくしたい、みんなに笑顔を」ただそれだけの為、「やってみなければわからない」と心機一転し、もう一度、「多くの人に明るさをそして笑顔を取り戻して欲しい。」大きな賭けでしたが、ただそれだけの思いが「源一郎」を動かしたのです。皆心に余裕が持てず暗くなっているそんな時だったからこそ、祭り好きの陽気な祖父の出番でもあったのだろう・・・

その相賀館の裏に吉田正の生家がありました。祖父と吉田正は顔見知りで、後、作曲家の道を進めたのは、吉田正が学生の頃、良く顔を出していた旅館「海洋館」の女将だったそうです。

その頃、戦争を免れた「京樂館」は、芝居小屋を再開し、戦後、映画全盛の一時期で、第一映画劇場・日立東宝映画劇場・日立キネマが出来、「源一郎」は、もう、ひとつ、商店街の協力を受け、洋画専門の映画館を建てました。その後、松竹映画劇場が出来、相賀館を含む六つの映画館が競い合いました。
そして、その1年後の昭和23年相賀館が起動に乗り始めた頃、福島で生まれた「千恵子」と同い年だった9歳の美空ひばりが、横浜国際劇場で「リンゴの歌」などを歌い、天才少女歌手と評価を受け、全国デビューしたのです。

その頃、子供たちは、「源一郎」の意地も実り普通の家庭では通うことが出来なかった女学校へ通える様になりましたが、映画館を再館したばかりだったので、そんなに生活費は貰えず、子供たちは、お弁当は、日の丸弁当(白いご飯の真中に梅干があるだけ)で、おかずなど無く、えんぴつは、親指の長さになるまで使っていました。バナナは、病気にならないと食べられず、とんかつ等と言ったなら飛び上がって喜んだそうです。とにかく食べ物がなく、学校の帰り道、人目をヌスミ、人の畑の作物(大根)を取って生のままかじりながら帰って来ていました。

今は、日立の駅前がにぎやかになりましたが、戦後は、駅から離れた所に新町・上町・中町・下町と商店街が一斉に並ぶ繁華街(現・銀座道り)があり、とても、賑わっていました。また、戦前、今鹿島神社があるところに鹿島通りと言う町並みがあり、今は、町並みがありませんが、商店街が軒並みになって賑わっていて、その通りの一本違う道に(相賀館の真裏)「相賀通り」と言う繁華街があり、そこには、ダンスホールなどがあり、多くの人たちが群がったそうです。その一角に正妻「かん」と子供たちは住んでいました。
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