賭け将棋とプルトップ
賭け将棋についてですが、様々な視点から検証するとか、深く追究するとかそういった話ではありません。 例の「角不成を会員停止」に関連する話ですが、あまりこのタイトルばかりでは奇妙というか角が立つ面もあるので少し変えてみたといった所です。 江戸時代では、将棋とは明らかに『賭け事』として認識されていました。 今となっては信じられない話でしょう。 しかし人々の認識がそうなら、全体の流れがそうであるなら、自然とそういうものとなってしまいます。 逆に江戸時代の人から見たら現代の方が不自然に見えるでしょう。 真剣師は昭和50年代まで存在した、と言う人もいれば今でもいると言う人もいますが、とにかく全体としては下火というか「将棋とは賭けないものだ」という考え方が現在では圧倒的に広まっているでしょう。 賭けというのは何ででも賭けようと思えば賭けられるもので、ジャンケンでも賭けられますし、それを言い出せばキリがありません。 勿論賭博行為は犯罪ですが。 将棋でも少額の賭けは緊張感を高めるために効果があると考える人もいますし、僕も実はその考え方には賛成です。大っぴらには言えない事ですが、賭けというもの全てが悪い行為だとは思えないのです。 ともあれ肝心なのは「将棋は賭けなくても面白い」という事、これが一番大事です。 それが当たり前の考え方として世の中に広まったという事実、これが実に大きい訳です。「麻雀はギャンブルだよ。賭けない麻雀は麻雀じゃない」 僕の知り合いでこう言った人がいました。 この考えに賛同する人は多いのかも知れません。しかし一方では「賭けない麻雀」を推奨して広めようとしている人達もいます。そういった人達からすれば、将棋界は羨ましく見えるのでしょう。 現在ではどのような状況となっているのか、僕はあまり知らないのですが。「麻雀はギャンブル(賭け事)だ」それはその人にとっては当たり前の事なのでしょう。小さい頃からそういうイメージで麻雀を見てきて、覚えてからもずっと賭けてやってきた。 それが間違っているとも言いませんが、だけどあくまでもそれは当人の過ごしてきた環境であり主観に過ぎないのです。 心の底からそう思い込んでいる人にとっては到底受け入れられない、信じられない考え方も、逆にそれが正しいと信じて疑わない人もいる訳です。主観、認識とはそういうものです。 江戸時代の人からすれば、将棋で賭けないという事は本当に心の底から信じられないものなのかも知れません。「将棋界も綺麗になったものだ……」師匠が生きていれば今の将棋界を見てそう涙を流したに違いない、と或るプロ棋士が語っていました。 将棋のルールは変わらないのに、こうまでも人々の認識は変わり、生活習慣が変わっているのです。 もう一つプルトップについて。 これは缶蓋の種類で、ようは缶ジュースなどのふたの事ですね。 プルトップというのは現在の殆どの缶に見られる物で、それ以前はプルタブ式のふたでした。 今となってはほぼ見かけない物で、僕もすっかり忘れていました。中国製の輸入品など僅かながら流通しているそうですが。 プルタブのふたとは、缶を開けた時にそのふたが切り離されて取れてしまう物です。小さな金属片が取れてしまう訳で、飲み終えた後にその缶の中に入れて一緒に捨てたりすればいいのですが、このふただけを道端にポイ捨てする人が大勢いました。(まあ缶そのものをポイ捨てする人もいる訳ですが……) 空き缶の捨て籠の下の方から、この小さなふたがこぼれてはみ出しているような光景もよく見ました。 アメリカでは早くからこのプルタブの及ぼす環境問題が叫ばれ、缶からふたが切り離されないプルトップが開発されて広まったそうで、それが遅れて日本でも取り入れられたという流れでした。 某漫画で「まだプルトップに切り替わっていない」と日本人の民度の低さを揶揄しているシーンがありました。 以前はプルタブが当たり前でした。プルタブしか知らない、プルトップの存在しない世界ではプルタブが当たり前で、それをメーカーが作り消費者が飲む、その自然な行為には何の悪意もありません。 だけどプルトップを知っているのなら、プルタブを利用するのは悪意ではありませんか?(大雑把な観念的な話です) 知っているか知らないか、認識があるかないかで、信じられないくらいにガラリと様相が変わるのです。人々の認識も感覚も考え方も変わるのです。 そこで「角不成を会員停止に」です。実に長い前置きでした……「角不成を会員停止」という言葉をいきなり見れば、これは一体何だ? と思うでしょう。降って沸いたような言葉です。 先の漫画ではプルトップに切り替えない日本という国そのものを日本国民全体を半ばけなしたような、見た者を恥ずかしい気持ちにさせるようなニュアンスがありました。 民度の低さを訴えていました。(とは言ってもほんの数コマでしたが) 角不成なんて民度の低い行いです。 角不成から筋違い角をやる人もいるし(別に筋違い角が悪いと言っているのではないですが)、この間なんかも角不成をやった輩を負かしてやったら切断して去って行きました。どうして普通に投了出来ないのか、コイツは? と思いました。(別に全員がそうだと言う訳ではないですが) 故意の角不成が存在するのは将棋界全体の民度の低さである、とこの場で言いましょう。 将棋界全体の恥です。 自分はやらなくても、やる人間の存在を認識しているなら、それをなくす方向で物事を考えましょう。工夫しましょう。 それは可能なのです。それが言いたいのです。「新しい常識にしたい」というのはそういう意味です。 プルタブが主流の世界でプルトップを広めよう。 賭け将棋が当たり前の世界で、将棋は賭けなくても面白いという事を教えよう。 故意の角不成をなくそう。 そういう事です。