謎
※今日は、長文になります。^^;物凄くつまらないですが、私が見てきたことを、備忘録的に記しておきたいので・・・。どうぞ、スルーしてくださいませ。^^*************************************************************一の谷 posted by (C)ぺぺるそれは、源義経が逆落としをしたと論争のある場所より、そう離れていないところでした。寄手塚・身方塚案内板 posted by (C)ぺぺる須磨区旗振山、一の谷を、安徳帝内裏跡地へ下る山道を降りた所で、『寄手墳・身方墳』と書かれた立て札を見つけました。・・・其処に書いてあることを読んでみたのですが、何一つ意味が分かりません。曰く、大阪に全く同型同寸の『寄手塚、身方塚』があること。(どうやら楠正成が建てたらしい・・・でも何の為?)曰く、此処よりもっと下った所に建っていたらしい、南洋植物園のオーナーが、楠正成の精神に感激して、(←唐突な説明で理解できない)第二次世界大戦の講和条約を記念し、昭和29年に、合戦に縁のある一の谷に、『寄手墳・身方墳』を建てた事。そんな事が記されており、締めくくりに、『幾多の戦いで亡くなった人々の霊安らかに!平和な時をいつまでも!(立て札原文ママ)』・・・全く分かりません。楠正成?植物園?大阪?一の谷?塚?・・・どんな符丁も見当たりません。そして、?マークを乱れ打つ最大の要因は、そこにある、と記された『寄手墳・身方墳』なるものが、土台以外見当たらないためでした。背の高い雑草がはびこり、辛うじて、何かが建っていたらしい土塁のようなものは認められても、それに、何か畏敬の念を感じるような痕跡は、ちらとも残っていません。マムシの存在を警戒するレベルの、薄暗く、狭い荒地でした。そして、更に訳が分からなかったのは、『和宮像』と記したものがあったこと。そんな像はどこにも見当たりません。 ・・・あったとしたら、どうして? ・・・で、どこへ行ったの?私は、暫く其処に何かを見つけようと佇んでいましたが、やがて、諦め・・・。首を傾げながら坂道を降りてくると、今度は別の疑問に行き当たりました。六甲山系に、何故か竹の植生は無いのだと聞いていました。それが、その場所には至る所に竹が沢山生えています。 ・・・人の手で管理されているようには見えない竹林。???・・・何故?と思いながら、更に坂を下ると、「うおっ!!」思わず声を上げて空を仰ぎました。ヤシ科の植物が、辺りに沢山生えているのです。しかも、相当年数を経た、どれも立派な木ばかりが、所狭しと!日本に自生しているヤシも数種類あると聞きます。 ・・・でも、生育北限はもっと南の筈。どうしてこんな所に熱帯植物が? そして、半壊した小屋が二つ・・・覗き込まなくても、小屋は使用されなくなって久しい態で、荒れ果て、便器が見え、公衆トイレ的なものであるのが分かりました。立派な木の所為で薄暗く、見通しも悪い為、正直、気味悪さを堪えられませんでしたが、・・・私はやっと思い至りました。『・・・海外移住者救済目的の旧南洋植物園のオーナー・・・』・・・先ほどの立て札に書いてあったことを。『海外移住者救済』の意味は解らないけれど、つまり此処に『南洋植物園』があったのでしょう。その跡地で、この植物群は、当時から植えられ、閉園してから放置されているものなんだ・・・。藪の奥へ分け入りたい欲求に、物凄く囚われましたが、ここで童心に帰って冒険心を解放したら、ろくな事にならないのを、残念ながら歳を取ると知ってしまっているのです。今の私には、そんな勇気は出せず・・・蛮勇を奮うべきタイミングでない事も分かっていました。私はとても興奮し、後ろ髪を強烈に引かれながらも、仕方なく、その場所を後にする事にしました。 ヤシの木は、陽光の下で輝ける植物ですが、ある意味、枝垂れ柳なんかより不気味です。古い葉はいつまでも落ちず、幹に纏わりつき、その上に別の落ち葉や埃が降り注ぎ、何か不思議なものの存在を匂わせ、樹の頂点付近の鋭く尖った葉がこちらを威嚇し、百戦錬磨の猛者を思わせる貫禄ぶり。その場所は、住宅地の直ぐ後ろ(山手)にありました。坂を下りつつ、名残惜しげに振り返ると、山の出口から、木々が、結界を破かんと溢れ出ているかのような迫力ある光景が見えました。腐海が街を侵食する様な。噴出しそうなパワーを、寸での処で文明が押し留めているという、周囲に漂う緊張と、不思議なバランス感。これは、故あって住宅街に放置された熱帯植物が街を吞み込んでゆく、なんてファンタジーを巧くテーマに切り抜いて、宮崎駿監督に一本映画を作らせたら、良いものが出来そうなんだけどなぁ・・・。・・・元より廃墟好きでもある私は、その光景に、すっかり魅入られてしまいました。南洋植物パーク跡地にて posted by (C)ぺぺる(続く)