忘
(前の記事から続きます)父の遺体が警察署に移され、母と私への事情聴取が終わったタイミングで、兄がようやく実家に着きました。埼玉県との境に近い区から、心の病を抱えながらも一所懸命に向かってくれたのだと思い、遅さを責める気には全くなれませんでした。兄との再会は5年と少しぶりのものでした。LINEは持っていないというので、連絡先のメールアドレスと電話番号を交換しました。それは以前、ショートメッセージで送ったのですが、それを見ていないのも責める気にはなれませんでした。せっかく実家まで来てくれた兄ですが、顔見せ、だけでまた帰ることに。私に「向かいのコンビニにイートインがあるよ」と教えてくれました。簡単に家族三人の会議を開いて、「表向きには急死を言わない。近親者のみで家族葬を行った、と過去形にして、ご弔電・御香典・供花などは固くご辞退申し上げます、と締める」ことで三人が合意しました。駅へ向かう兄と別れ、そのイートインで遅くなったお昼を摂り、それ終えて私が実家に戻ると、同じく遅いお昼で「マルちゃんのワンタン」を食べていた母が、電話中で困り果てていました。母から電話機を取り返して私が応対したら、やはり警察署の刑事課の警部補さんから、執拗な聞き取りの電話でした。「あなた方も元日から仕事でしょうが、私たちは遺族であって、その前に人間なんだ。家族一人を失った当日のお昼ごはんくらいは聴取を控えて食べさせてくれ」と言って、強引に電話を切りました。するとその警部補さんから、私の携帯に電話が入りました。「現場保全をしたいので、母以外の実家の立ち入りを禁ず」という内容でした。「せめてお葬式の準備だけはさせて欲しい。それさえ終われば私は退出する」とまでは交渉が成立しました。私の独断で5年くらい前に、小さな家族葬を行う葬儀業者を手配してくれる所から資料請求をして、父と母の名前と住所・電話番号などを、私名義で登録していました。ずっと私の携帯の電話帳に溜め込んでいたこれの出番がとうとう来たか、という心情でした。本当に「24時間365日」の対応をしているのかが心配していましたが、事前登録があったために話はトントンと進んで、すぐ後に「実際にうちのお葬式を行ってくれる業者」から連絡が来るので待って欲しいと言われて待機していました。「〇〇メモリアルの〇〇と申します。この度はご愁傷様です」と話を始めてくださった葬儀業者の男性の声は、とても優しく、紳士的でした。聞かれるままにこちらの状況を伝えると「お正月三が日は火葬場がお休みになるので、どんなに早くてもお葬式は1月4日以降になること」と「いま警察署に遺体を預けていると、この先、毎日家族の対応が必要になる」ことを教えてくださって、明日(1月2日)に警察署に遺体を引き取る時にお目にかかりましょう、ということで電話が切れました。母は疲れて憔悴しきっていました。私は「横浜から毎日通うか、近くに宿をとって待機するか」の二択となりましたが、1月4日まで毎日横浜から通って、その長い移動時間の間に警察署から急ぎの用事を作られては困る」と判断して、後者に決めました。「困った時の、アパホテル」。まだアパホテルが石川県にしかなかった時代からの会員カードで、ネットでの予約がサクサク進み、京成上野駅前のアパホテルを「1月4日までの三泊」で押さえることができました。実家から徒歩圏内にもアパホテルはあったのですが、「コロナの宿泊療養施設として貸出中」とのことで、ひと駅だけ電車には乗るが、京成上野駅前のアパホテルに待機することに決めました。母に「4日までは京成上野駅前で待機しているから、何かあったらすぐ電話して。お薬は持ってきてあるから心配いらないよ」と告げて実家を出ると、もう玄関前には警察官一人が後ろ手を組んで玄関前に立っていて、実家への他人の立ち入りを制限していました。久しぶりに使うPASMOでピッと改札口を通り、「あとひと駅で終点」でガラガラに空いた京成電鉄の電車に乗り込みました。京成上野駅前のアパホテルでチェックイン。アパホテルの自動チェックイン機にもだいぶ慣れて、フロントの人とのやり取りなしで、ルームキーが受け取れました。「遅いお昼」以降に、警察署の警部補さんの携帯との着信履歴が、その時時点で「12回」を示していました。カーテンを開けると、ちょうど陽の入りのタイミングでした。不忍池を望む、西向きの部屋からの陽の入りの光景が本当に綺麗でした。「忘れたいほど、史上最も長かった1月1日の元日」が、ようやく終わろうとしていました。(次の記事へと続きます)