☆8月8/30「最も小さい者たち=子供 パート2」「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」(マルコ10:14) 「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にうわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(ルカ17:2) 「これらの小さい者の心を傷つける者は、首に大きな石をくくりつけられて、海に投げ込まれるほうが、よっぽどましです。」(リビング) 最も小さい者たち、それは子供であると思います。子供につまずきを与えるとはどのような事を言うのでしょうか。それは親が子どもを傷つけることでしょう。また、親が子どもを怒らせることだと思います。子供をいえすさまのところに連れていくことが親子関係で最も重要な事です。信仰継承は非常に重要なのです。親中心の家庭ではなく、子供中心の家庭でもなく、神中心の家庭であることが何よりも家庭では重要なことなのです。 8/23「最も小さい者たち=子供」 「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:40) 「兄弟愛をいつも持っていなさい旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしますた。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい。」(ヘブル13:1~3) 「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6:4) “最も小さい者たち”とは、子供と言えるように思います。主の教育と訓戒で親が子を教えることが出来るかが重要なのです。空腹の子供に食べる物を与えたり、乾いている子供に飲ませたりできるかです。主はそのことを大変喜ばれるのです。主は子供を特別に愛しているのです。 8/16「迫害」 「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(第二テモテ3:12) 「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。」(エレミヤ30:21b) 迫害とは主を心から愛せるかどうかのテストであるとも言えるでしょう。また主に従えるかどうかのテストとも言えます。そして迫害は信仰を強めるための特別の訓練にもなります。生まれながらの肉は迫害を嫌がります。そして肉は迫害から逃げるのです。迫害に会わないように世と妥協するのです。隠れクリスチャンになってしまうのです。しかし御霊は逆に迫害を喜びます。迫害によって信仰が強められ、天国に宝を積むことが出来ると知っているからです。私達にはいつも選択の自由があります。迫害から逃げるか、または迫害に立ち向かうかです。もしイエス様に近づきたいと思うなら、選択の余地はありません。迫害に立ち向かうのです。 8/9「わたしは地に火を投げ込むために来た」 「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられたものは多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」(ルカ12:47、48) 「わたしが来たのは。地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていいたらと、どんなに願っていることでしょう。」(ルカ12:49) 「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」(ルカ12:51) 主の心を知るとは、神の御心を知るという事です。そしてその御心を行うには聖霊の火を受けることが必要です。自分の頑張りだけではどうにもなりません。聖霊の火を受けないと御心を行うことができないのです。 8/2「彼らと分離せよ」 「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、私はあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(第二コリント6:17、18) 「それゆえ、主はこう言っておられます。『彼らから立ち去り、縁を切れ。その汚れたものに触れてはならない。そうすれば、わたしはあなたがたを迎え入れ、あなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。』」(第二コリント6:17、18リビング) 分離するとは、神の側に立ち続けることです。神の側に立つなら人の状況、状態がどうようであっても、自分の立つ場所は変わりません。神の側に立つとは、いつも神のために生き、神からの指示を受け動き、そして神に従うこと、これら全てが心からの喜びとなります。人の目を意識する以上に神の目を意識するのです。そして神の声を聞こうとします。これがクリスチャンの生き方です。神以上のものは何もないのです。 ジャンル別一覧
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