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セレンディピティ

セレンディピティ

人類形成

<コーカソイドの移動>

 コーカソイドたちは北上して4万年前に黒海より北の低地に達した。ほとんどはこの地に定住してインド・ヨーロッパ語族というグループを形成し、ヨーロッパ系コーカソイドとなったが、一部は定住せず、カスピ海沿岸へ移住したり、また一部はヨーロッパ大陸を西へ進んでその先に移り住んだ。彼らはヨーロッパに進出した最初の人類であり、1868年にフランスで発見された化石からクロマニヨン人と呼ばれる。2万7000年前の事である。コーカソイドたちは、紫外線の少ない地域でもビタミンDが不足せず暮らしていけるように、肌の色が1000年以上かけて白くなった。白人の誕生である。しかし肌の色というのは、ただ単に紫外線の量によって左右されるものであるため、現代の白人という言葉の使われ方は正しくない。黒海北部・ロシア南部に定住したコーカソイドをヨーロッパ系コーカソイドと呼ぶのに対して、その他の地域に定住したコーカソイドの事を早期ヨーロッパ人もしくは非ヨーロッパ系コーカソイドと呼ぶ。彼らは、氷河期の末期に黒海北部・ロシア南部の地域から生活圏を拡大してきたヨーロッパ系コーカソイドに追い出されるように、地中海沿岸を南下して西へ進み、モロッコとイベリア半島地域からヨーロッパへ移住した。1万5000年~1万年前の事であり、その後非ヨーロッパ系コーカソイドは、ヨーロッパ系コーカソイドと幾度なく衝突し、バスク地方やアイルランド地方、また東はコーカサス地域へ追いやられていった。そう、彼らがバスク人やケルト人、コーカサスの少数民族などである。


<モンゴロイドの移動>

 バベルから東へ移動したモンゴロイドたちは、カスピ海南部で2つに分かれる。一方は中央アジアへ北上した北方系モンゴロイド、もう一方はそのまま東進した南方系モンゴロイドである。北方系モンゴロイドたちは、多くは湖や平野に囲まれた自然豊かな中央アジアやヒマラヤ北部のシベリア地方など比較的寒い地域に定住したが、一部はそのまま通り過ぎて、当時氷河期で陸続きだったベーリング海峡を横断し、アメリカ大陸を縦断、1万2500年前には大陸南端に到達した。彼らがインディアン、インディオと呼ばれるネイティブアメリカンである。一方南方系モンゴロイドたちはどんどん東へ進み、当時スマトラ島付近に存在したスンダランドと言われる大きな陸に定住し、オーストロネシア語族を形成した。また定住せずに東進し続けた人々は、一部はオーストラリア大陸に定住してアボリジニとなり、一部はメラネシアに定住した。今から3万5000年前の事である。移動した彼らは移動途中で優勢の法則によって血液型A遺伝子が増え続け、結果血液型はA型が大半を占めるようになった。また定住先が紫外線の強い地域であったため、紫外線から肌を守るために肌の色が黒っぽくなった。そのため黒を意味するメラネシアという地名を付けられる事となった。同じ頃スンダランドに定住していた人々も、気候の変動でスンダランドが島々に分かれ始めたためカリマンタン島にそのまま住み着いた一部を除いて北上を開始した。彼らは中国大陸の海岸に沿って北上した。一部は途中の中国南部・湖南地域に定住、また一部は当時陸続きだった東シナ海を渡って約2万3000年前に琉球から日本列島に定住した。彼らがアイヌと琉球人の直接の祖先であり、日本人の祖先の一部である。外見的な特徴は、背が低く、目は二重で大きくパッチリしており、鼻は低く、毛が濃く、肌の色は黒っぽかった点である。それに対してシベリア地方の寒い地域に定住していた北方系モンゴロイドたちは、寒さに適応するため遺伝子が変異し、血液型もO型からB型が生じた。ここでもまた優勢の法則によってB型が大半を占めるようになった。新モンゴロイドの誕生である。彼らは南方系の特徴とは対照的に、背は高く、目は一重で細く、鼻は高く、毛は薄く、肌の色は白かった。彼らはヨーロッパ系でもコーカソイドでもなかったが、列記とした白人であった。その新モンゴロイドたちは5万年前に徐々に移動を開始した。彼らはマンモスを追って中国大陸を南下して、一部は1万4000年前に日本列島へ定住した。氷河期が終わり、海水面が上がった後、気温はぐんぐん上がって8000年前~5000年前は各地が温暖な気候となった。その頃、中国南部・中部に住んでいた南方系モンゴロイドたちが北上を開始し、ほとんどは中国東北部に落ち着いたが、一部はベーリング海峡を越えて北アメリカに定住し、エスキモー(イヌイット)となった。ベーリング海峡を越えた彼らは、その移動によって血液型がO型からA型へ変わっていった。5000年前から再び寒冷化が始まった後は、寒さから逃れようと中国北部から戻る人々や、急に南下する者もいた。南で暮らしていたモンゴロイドたちは、北からの侵入を防ぐため万里の長城を建設した。中国の誕生である。中国で王朝が開かれ始めた頃、中国南部の湖南地域や台湾、フィリピン地域では、氷河期の終わりと共に沈んだスンダランドで暮らしていたオーストロネシア語族との交流が始まり、ラピタ文化が花開いた。


<農耕と移動>

 アジアではモンゴロイドたちがさまざまな移動を行った中、ヨーロッパ系コーカソイドの社会では1万1000年前からレンズマメの栽培が始まり、9000年前には中央アジア南部、アジア南西部で農耕が始まった。その農耕社会に適するため、ヨーロッパ系コーカソイドは血液型O遺伝子からA遺伝子へと変わっていった。その農耕は、メソポタミア地域から西はエジプト地域、東はインダス地域、さらに中国にまで広がり、この4つの地域を中心に今から5000年前に文明が誕生した。文明とは程遠いカリマンタン島地域にいたポリネシア人は、氷河期の影響で住んでいたスンダランドが徐々に沈んでいったという歴史を持つため、他の地域よりも独自の高度な航海術を開発していた。彼らは中国に住んでいた他のモンゴロイドの南下が進む約3500年前頃に、太平洋、インド洋を横断した。北はミクロネシアやハワイ方面、東はポリネシア、ソロモン諸島、西はモルディブ、マダガスカルにまで達した。南方系モンゴロイドであるポリネシア人が海を駆け巡ったの対し、新モンゴロイドのモンゴル人は、2300年前頃からユーラシア大陸全域へ進出していった。一部は朝鮮半島、日本列島へ渡って定住、先に住んでいた南方系モンゴロイドたちと混血して日本人を形成、また一部は10世紀後半から西へ西へと進み、トルコやアルプス地域、東欧地域にまで勢力圏を拡大し、大きな帝国を築いた。元・モンゴル帝国である。残念ながら彼らは、陸の移動には強かったものの、海の移動に弱かったため、日本やフィリピンなどの東アジア、また東南アジアなどの島々を勢力圏に含まる事ができなかった。またインドへはアルプス山脈に遮られて、ペルシャ・アラビア半島方面へはパミール高原やイラン高原、カスピ海、カフカス山脈、黒海などに遮られて南へ進出できなかった。彼らは海に加えて山も苦手だったのである。血液型B遺伝子の存在しないヨーロッパ地域に点々と血液型B遺伝子が存在するのは、新モンゴロイドたちがはるかヨーロッパにまで進出してきた証拠である。


<ヨーロッパ人と発展の謎>

 ロシアがユーラシア大陸の覇者となり始める17世紀頃までモンゴル人が陸の覇者であった。海と陸の覇者を生んだモンゴロイドに対し、コーカソイドたちの土地ではなかなか文明が生まれなかった。古代文明の1つであるエジプト文明の技法がトルコ地域やギリシャなどへ伝わって発展したに過ぎなかった。一部のヨーロッパ系コーカソイドは、東へ進んでインドへ進入し、先に住んでいたモンゴロイドを追い出した。歴史でいうアーリア人の侵入である。たいていのヨーロッパ系コーカソイドは農耕の拡大による人口爆発でヨーロッパ大陸各地へ拡大していった。8世紀にはアイルランド、10世紀を過ぎるとアイスランド、グリーンランドへ進出する。14世紀にタタール人によってヨーロッパ全土に黒死病が蔓延、人口の1/3の死者を出す大災害を受けた後は、薬や新天地を求めて大航海時代へと突入する。農耕での製作技術を活用して、独自の航海術を生み出した。当時はまだ文化面でも物質面でも進んでいたアジアを目指して船を進めていった。この大航海時代の幕開けが、宗教中心のヨーロッパ社会を大きく変え、地球が丸い事や、太陽の周りを回っている事など、科学中心の生活へと変わって行った。15世紀頃の世界は、どの地域も宗教中心で、たいていの者が神への信仰を持ち、それを破れば罰を受けるという考えを持っていたため、冒険心や探究心は抑えられていた。しかしヨーロッパでは大航海時代によって次々と新たな発見が続くにつれて、祖国では信仰を大切にするが航海では科学的根拠に基づいた知識を生かすようになったのだ。この宗教と科学の入れ替わりが、ヨーロッパを技術面でも物質面でも豊かな地域へと変えて行く。
2001年12月23日、68歳の誕生日を迎えた明仁天皇が特別記者会見を開き、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であることが、続日本紀に記録されていることについて語り、日本の皇室と百済との血縁関係について、初めて公的に認めたことは記憶に新しい。その中で、中央日報をはじめとする韓国のマスコミが、天皇の発言を大きく取り上げたのに対し、日本のマスコミの取り扱いが極端に小さかったのが対照的であった。それにしても、天皇家の遠祖が朝鮮人であることを天皇自ら認めた発言の持つ意味は大きく、歴史のベールの一枚が剥がれたと思った読者も多かったのではないだろうか。
 天皇家と歴史との関連で思い出したことは、日本人のルーツを古代シュメールに求める研究が、戦前の日本において盛んに行われていたと物の本に書かれていたことだ。シュメールと日本が結びつけられたのも、バビロンのイシュタル門に皇室の正紋である十六菊花紋と瓜二つの模様が刻まれていること、天皇を意味するスメラミコトがスメラ(シュメール)尊(ミコト)と解釈できるといった類似点によるものだろう。しかし、優秀なシュメール族の末裔である日本民族は、世界を支配する資格を持つといったプロパガンダとして、戦前のシュメール研究が日本の軍部に利用されたという一面も見逃すわけにはいかない。そうした戦前の反省もあり、戦後はスメラというラテン語読みを止め、シュメールという英語読みに切り替えたのである。以上のような経緯があるにせよ、シュメールがさまざまな形で日本に影響を及ぼしてきた可能性は高い。
 そのシュメールを指して、「歴史はシュメールに始まる」と語ったのは歴史家のS・N・クレーマーであった。紀元前3500年頃のメソポタミア南部に、ウルク期の都市国家を建てたシュメール人が、楔形文字・法典などを作ったことはよく知られている。さらに、シュメール人は高度な数学を操り、天文・灌漑・精錬・造船などの技術を身につけていたという。また、シュメール人の遺したギルガメシュ叙事詩は有名であるが、そのギルガメシュ叙事詩によれば二院制議会が存在していたとある。法に基づく裁判も行なわれたようであり、それは出土した法律文書や数々の判例を記した粘土板からも明らかである。学校と思える遺跡も発掘されており、そこからは教科書や生徒が宿題を筆記した粘土板ノートも多数発見されている。このように、古代文明といえば新石器時代に少々毛が生えた程度のものといった、従来のイメージから大分かけ離れているのがシュメールなのである。それにしても何故、荒涼としたメソポタミア南部という地をシュメール人は選んだのか、そもそもシュメール人とは何者であり、何処から来たのかといった点は今もって不明とされている。
 その後、さしもの高度な文化を誇っていたシュメールもついにその終焉を迎えるときが来た。時は紀元前2004年、山岳騎馬部族のエラム人やセム系のアモリ人との戦いに敗れ、ついにシュメール最後の王・イビシンがエラム人の捕虜になって連れ去られたことにより、ウル第三王朝は滅亡した。イビシン王同様に捕らえられた多くの文官・農民・職人といったシュメールの人々は、そのままメソポタミアの地に残って新国王の元で生活を続けたのだろう。そのように考える根拠は、シュメールの地がエラム人やアモリ人などに支配された後も、行政・農業・工業などにシュメール方式が引き継がれているからだ。しかし、シュメール人全員がメソポタミアの地に残ったわけではない。ここで、シュメール人が航海術に長けていた海人であったことを思い出す必要があろうし、新国王の支配下に入るのを逃れたシュメール人の中には、船を使ってメソポタミアの地を後にした者もいたことであろう。彼らの最初の逃亡先がインドであり、シュメール人がインダス文明の担い手になった。その後、インドを始点に長い歳月をかけて広い太平洋各地に散らばっていったシュメール人は、それぞれの土地の先住民族と融合していったのである。その一部が日本にも流れ着き、日本の建国に大なり小なりの影響をもたらしたのではないだろうか。
 ここで、黄河文明が誕生したころの古代中国に目を転じてみよう。結論から先に言えば、古代中国もオリエント文明と深い関わりを持っていたのである。民間の歴史研究家である鹿島昇氏は、自著『秦始皇帝とユダヤ人』(新国民社)の冒頭で以下のように述べている。

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シュメール人
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 世界で最初に生まれた文明がメソポタミア文明です。
 紀元前3500年くらいには都市国家が成立して、文明といえるものになったといっていいでしょう。
 メソポタミアとは川のあいだという意味で、ティグリス、ユーフラテスの二つの川にはさまれた地方をさします。現在の国名でいうとイラクです。今はサダム・フセイン大統領で有名。昨年末(1998)にもアメリカとイギリスに空爆されて大きなニュースになりましたね。

 このメソポタミア地方の川下、河口付近にはじめての文明ができます。
 文明をつくりあげたのはシュメール人。民族系統不明です。残された彫刻などを見ると、目がくりくりと大きくて、波打つ立派な長いあごひげが特徴的ですね。

 今、この地域はイスラム教徒、アラブ人の世界ですが、男たちはみんなひげを蓄える風習がある。ひげがないと子どもかオカマだと思われるらしい。アラブ社会の民俗を研究している人の講演を聞いたことがありますが、その先生は帰国直後で、ヤギみたいなちょび髭を一所懸命のばしていました。「こんなヒゲでも、はやしていないと一人前として扱ってもらえないので」とぼやいてました。
 ひげ等のファッションは、時代、文化によって変化するものですが、ひょっとしたらこの地域ではシュメール人以来5000年間ずっとひげを伸ばしていたのかもしれないね。(注:シュメール人はひげを剃るのが一般的らしいが、使用していた資料集の写真にもとづいて、このような説明をしていました)
 メソポタミアに最初に文明が生まれたのは、農業生産性が非常に高かったかららしい。
 まず、麦と羊の原産地だった。そして、この麦の収穫量が非常に高かった。1粒の麦を播いて、20倍から80倍の収穫があったといわれています。
 これが、どのくらいすごいかというと、19世紀のヨーロッパで麦の収穫は播種量の5、6倍くらい、現代でもヨーロッパで15倍から16倍、アメリカで23倍という数字があります。
 だから、現代と同じかそれ以上の収穫があったというわけだ。たくさん穫れれば、余裕も生まれる。その余裕が、後世に残る文明を生み出したのでしょう。
 ちなみに、日本の米はどうかというと、江戸時代は30から40倍、今は110倍から144倍です。

 シュメール人はメソポタミア地方にたくさんの都市国家を築きました。ウル、ウルク、ラガシュなどという都市が有名です。しかし、都市国家どうしの抗争が激しく、統一国家ができることはありませんでした。政治は、神殿を中心に神権政治がおこなわれていたらしい。

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シュメール人の文化
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 かれらの残した文化は後世に大きな影響を与えているからこれはしっかり覚えておきましょう。

 まずは、暦(こよみ)。世界初の暦。月の満ち欠けで、年月をはかる太陰暦です。

 数字は60進法でした。これは、現在もある分野で日常的に使われるね。何ですか。そう、時間です。一時間はなぜか60分。なぜかというとシュメールなの。多くの小学生が、時間の計算でつまづく。君たちも苦しんだでしょ。シュメールだね。
 なぜ、シュメール人が60進法を採用したかははっきり判っていません。

 土器は彩文土器というのがでます。土器に赤い模様が描かれていますね。

 文字は、くさび形文字を発明しました。紙はまだない時代、粘土板に葦を切ったものでくさび形に字を刻み込んでいきました。細かい文字でたくさん書いているね。シュメール人が歴史から消えたあとも、メソポタミア地方では長いあいだこの文字を使っていました。今のアルファベットの役割を果たしたわけだ。

 シュメール人の時代から二千年もあとですが、アケメネス朝ペルシアという国が大帝国をつくります。この国もくさび形文字を使っていて、ダレイオス大王という王が、自分の功績を刻んだベヒストゥーン碑文というのを残しました。これは三つの言語をくさび形文字で刻んだもので、くさび形文字解読のきっかけとなった重要な碑文です。解読したのははローリンソンというイギリス人。覚えておきましょう。
 この碑文は地上100メートル以上の絶壁に刻まれていて、ローリンソンは今でいうロッククライミングみたいなことをして、まあ命がけで碑文を模写したんです。19世紀のことです。

 それからハンコ、印章です、これもシュメール人が最初。円筒印章というのがあって、絵が刻んである。これを粘土の上をコロコロと転がすと長い絵が浮かび上がるわけです。円筒印章は中心にひもを通して首に懸けるようになっていた。これを身につけているのが高い地位の象徴だったらしいです。

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エデンの園
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 シュメール人の文化、暮らしはいろいろな伝説や物語に、大きな影響をあたえています。

 たとえば、旧約聖書にはシュメールの影響がかなりあります。

 旧約聖書の最初の話、神が世界と人間を創造する話があります。
 神が「光あれ」といって光ができる。これが一日目。二日、三日といろいろ造って、六日目に人間を造って、七日目にお休みします。これは、シュメールの七曜の影響。

 それからアダムとイヴの話。
 神が泥からつくりあげた最初の人間がアダム。一人じゃ寂しかろうと、神はアダムの肋骨を一本採って、これで女イヴを造る。二人は、裸のままの姿でそれを恥ずかしいとも思わずに、働かなくても暮らせる地上の楽園、エデンの園に住んでます。
 さて、神は二人に一つの約束をさせるんだ。エデンの園の真ん中に知恵の木がある。その実だけは、絶対に食べてはならないという約束です。ところが、なぜか蛇がでてくるのです。その蛇がイヴを誘惑する。知恵の木の実を食べても死にませんよ、ほら、こんなにおいしおっませ。食べなはれ、と言う。イヴはついつい食べてしまう。おまけにアダムにも勧めて、結局二人とも食べてしまった。すると、急に知恵がついてしまってかれらは互いに裸であることに気がつき、葉っぱで腰蓑をつくって、局部を隠します。

 約束を破ったことが神に知られ、その怒りに触れて二人はエデンの園を追放されました。追放されたのがエデンの東。そこでは、地にはいつくばって厳しい労働をしなければ生きていけないんです。ジェームズ・ディーン主演の「エデンの東」という映画があります。楽園のすぐ隣だけれどそこは楽園ではない、それがエデンの東。そう思って見るとこの映画また一段と深いよ。

 エデンの園の話がシュメールとどんな関係があるかというと、エデンの園はシュメール人が住んでいた実在の場所らしい。
 ラガシュとウンマという二つの都市国家が、前2600~前2500年頃に「グ・エディン」(平野の首)という土地をめぐって戦争を繰り返しているんです。どうもこのグ・エディンがエデンの園のモデルらしい。

 話が後先になりましたが、旧約聖書をつくったのはヘブライ人という人たちです。かれらは前10世紀頃に自分たちの国家を建設するんですが、それ以前は部族ごとに分かれて牧畜などをしながらメソポタミア地方からエジプトにかけて放浪生活をしていた。豊かなシュメールの土地に住みたいけれど、そこに入り込むだけの勢力がなかったんだろう。なぜ、自分たちはあの豊かな土地に住めないのか、という不満・不運を自分たち自身に納得させるため楽園追放の物語がつくられたのではないかと思います。人間というのは納得さえできれば不運に耐えられる生き物なんだと思う。エデンは、豊かなシュメールの地の、その中でももっとも豊かな土地の象徴だったんだろう。

 それから、バベルの塔の話です。これは知っていますか。
 人間が天まで届きそうな高い塔を建てる。これを知った神が、この塔を打ち壊すんだね。
 「神に届こうとする不届きな振る舞いだ」と神様が怒ったと一般にいわれていますが、聖書を読むとそんなことは書いていません。理由は解らないがとにかく神は塔を壊し、人々はちりぢりになり、お互いに話す言葉が通じなくなった、という話。
 で、このバベルの塔のモデルがやはりシュメールにあるらしい。
 シュメール人たちが建設した神殿にジッグラトというものがあります。高い塔の形をした神殿で、その遺跡はたくさん残っています。これがバベルの塔のモデルといわれています。

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大洪水
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 極め付きの話は、ノアの箱舟でしょう。
人々が神に対する信仰を失って、自堕落な生活を送っているときに、ノアという男だけが信仰を守って敬虔な生活をしていた。神は、信仰を忘れた人類を滅ぼそうと思ったけれど、まじめなノアだけは助けようとするんですね。ある日、箱舟をつくれと、ノアにお告げをする。なんだかわからないままにノアはお告げに従って、家族みんなして箱舟をつくります。長さこれだけ、幅これだけとか、神は結構細かいお告げをする。で、そのとおりにつくります。他の人たちはそんなノアを馬鹿にするんだけど。
 ところが大洪水がやってきて、舟に乗り込んでいたノアの家族だけが生き残ったという話。
 このとき、ノアはあらゆる動物をつがいで舟に乗せていて、これも助かる。

 このノアの箱舟の話も、シュメール人の話に元ネタがあるのです。
 シュメール人が残した粘土板に『ギルガメシュ叙事詩』といわれる物語があって、そこにノアの箱舟とそっくりの話が載っていたのです。
 プリント見てください。少し読んでみよう。

 まず、神のお告げです。
「シュルパックの人、ウパラ=トゥトの息子よ、家を打ち壊し、舟を造れ。…すべての生きものの種を舟に積み込め。おまえが造るべきその舟は、その寸法を定められた通りにせねばならぬ。…
六日六晩にわたって、嵐と洪水が押し寄せ、台風が国土を荒らした。七日目がやってくると、洪水の嵐は戦いに敗れた。…そしてすべての人間は泥土に帰していた。…舟はニシルの山にとどまった。…七日目がやってっくると、私は鳩を解き放してやった。鳩は立ち去ったが、舞い戻ってきた。…私は大烏を解き放してやった。大烏は立ち去り、水が引いたのを見て、ものを食べ、飛び回り、かあかあ鳴き、帰ってこなかった。そこで私は…、生け贄をささげた。」(ギルガメシュ叙事詩の洪水物語、高橋正男訳)

 聖書にも大嵐がおさまったあと、ノアが鳥を飛ばして陸地が現れたかどうか確かめる場面があるんですが、こんな細かいところまでそっくり。

 キリスト教を信仰するヨーロッパ人たちは聖書に書いてあることは真実の物語と考えていたのですが、『ギルガメシュ叙事詩』が発見されることによって、旧約聖書が成立する1000年以上前に、その元の話があったことがわかった。

 洪水神話はメソポタミア地方全域で広く普及した物語だったのだろうということです。古代の説話のひとつとして、聖書が相対化されたという意味で、ヨーロッパ人にとってギルガメシュの物語は大発見だったのです。

 実際にシュメール人の遺跡発掘がすすんでいくと、シュメール人の都市国家が大きな洪水にみまわれていることもわかってきた。

 『ギルガメシュ叙事詩』には、こんな一節もある。
 ある時ギルガメシュは太陽神ウトゥに訴える。
「…
 心悲しいことに、わたしの町では、人はすべて死ぬ。
 …
 わたしは城壁の外を眺めていて
 死体がいくつも河面に浮いているのを、
 見てしまったのだ」

 洪水で苦しんでいたんだね。
 ティグリス・ユーフラテス河の氾濫の記憶がしだいに大洪水の神話物語に発展したのだといわれています。

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「もののけ姫」
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日本列島の森林の文明の起源は、氷河時代も終わりに近づいた約一万二千五百年前の晩氷期にまで遡ることができます。
 晩氷期に出現した温帯の落葉広葉樹森の中で、新しい文化が誕生したのです。それが「縄文文化」です。縄文文化は、温帯の落葉広葉樹を利用する森林の文化として誕生しました。 縄文人にとって、森は毎日の食料を提供してくれるかけがいのない存在でした。縄文人の主食は、遺跡の食料残滓の分析から、ドングリ、クリ、クルミなどの木の実だということが解っています。もちろん、魚介類やイノシシ、シカなどの大型哺乳類も捕獲していますが、主食は木の実をすりつぶした澱粉食で、森の恵みに強く依存した生活を維持していました。 ギルガメシュ叙事詩の話をもう一つ。聖書の元ネタといったんだけど、映画の元ネタにもなってるんだ。
 「もののけ姫」見ましたか。私、4回見ました。大流行したから見た人も多いんじゃないかな。
 あれの元はギルガメシュ叙事詩ですよ。5000年前のシュメール人の物語が現代人に訴えるパワーを持ってるんだね。

 ギルガメシュ叙事詩の前半にこんな話がある。
 当時からメソポタミア地方は森林資源は乏しかったらしい。
 英雄ギルガメシュは町を建設するために木材が欲しい。そこで、レバノン杉、このレバノン杉はまた後々でてきますからよく覚えておいてください、そのレバノン杉の森に木を採りに出かける。ギルガメシュは親友のエンキムドゥという勇士とともに旅立つんです。祟りがあるから止めとけ、という周囲の制止を振り切って。
 ギルガメシュとエンキムドゥはレバノン杉の森にやってきて、その美しさに立ちつくす。
 美しさに圧倒された二人は呆然と森を見続けます。
 しかし、ギルガメシュは気を取り直してこう思った。

 「この森を破壊し、ウルクの町を立派にすることが、人間の幸福になるのだ」

 森の中に入っていくとそこには森の神フンババというのがいて、森を守るためにギルガメシュたちと闘うんですが、最後には森の神はエンキムドゥに殺されてしまう。フンババは頭を切り落とされて殺され、エンキムドゥは「頭をつかみ金桶に押し込めた」。
 その後、エンキムドゥは祟りで別の神に殺されてしまうんですがね。

 「もののけ姫」と同じでしょ。
エンキムドゥが「たたら場」のエボシ様、フンババがシシ神、首を落として桶に詰めるところまで同じ。
 ギルガメシュ叙事詩では、フンババが殺されたあと「ただ充満するものが山に満ちた」と書かれている。
 「もののけ姫」では、シシ神の体から流れ出たどろどろのものが山を焼き尽くす。宮崎駿の解釈なんだろうな。
 エンキムドゥは祟りで死にますが、エボシ様は、狼の神モロに片腕を食いちぎられるだけですんでいますがね。この辺、優しい解釈だね。

 人間が文明を発展させれば、必ず自然を破壊する、森を破壊しなければ生きていけない。
 しかし、森を殺せばそれは必ず人間、人類といっていいかな、にそのしっぺ返しは来る。どうすればいいのか。森とともに生きる道はないのかと「もののけ姫」ではアシタカが苦悩するまま、解答なしで終わります。

 5000年前にすでに、自然破壊の問題が起こっていたということは、しっかり覚えておいた方がよい。

 レバノン杉は、地中海東岸のレバノン山脈から小アジアにかけて広く分布していました。
 しかし、シュメール人の時代にすでにレバノン山脈東側の、メソポタミア地方に面している方はほとんど切り尽くされていたらしい。現在では西側地中海に面した地域もわずかに残っているだけです。現在のレバノン国旗の真ん中には、レバノン杉が描かれています。

 森林資源が乏しいために、メソポタミア地方ではインダス川流域からも木材を輸入していた。レバノン山脈から運ぶよりも、インドから海上輸送した方が簡単だったらしい。そのインダス川下流地域も今は森林資源は枯渇しています。

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アッカド王国
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 前2400年頃、シュメール地方にはじめて統一国家ができます。
 これがアッカド王国。
 建国したのはシュメール人ではなく、メソポタミア北部の山地に住んでいたアッカド人。
 民族系統はセム系といいます。残された言語で民族系統を判断するのですが、セム系というのは現在のアラブ人と同じです。念を押しておきますが、シュメール人は民族系統不明ですよ。

 アッカド王国の王の名前を覚えておきましょう。

 サルゴン1世。
 史上最初の大王といっていいでしょう。アッカド王国はサルゴン1世だけ覚えればいいからね。

 ここからはサルゴン1世のおまけの話。
 サルゴン1世の伝説を記した粘土板も発見されている。サルゴン1世のお父さんはアッカド王、ところがお母さんは尼さん。
 その尼さんがサルゴンを妊娠、出産してしまう。
 尼さんが子どもを産むのは許されていないので、彼女は生まれたばかりのサルゴンを籠に乗せて川に流すんです。まあ、捨てたわけね。
 サルゴンは灌漑人に拾われ、かれの息子として育てられます。成長したあと、イシュタル女神がかれを愛し、そして王として君臨した、というんです。

 英雄というのは一度は捨てられ、成長してから別の世界から異様なパワーを身につけて帰ってくる。そして、本来あるべき地位につく。こういうパターンの話を英雄流離譚というそうです。
 世界各地に似たようなパターンの神話や物語が残されています。前の授業でしたアーサー王の出生の話や、旧約聖書のモーセも同じです。

 それから、お母さんが尼さんというところ、イエスの母が処女マリアという話を連想しませんか。ここは、きわどいですが考えはじめると面白いところですよ。
 もっと、大胆に連想を飛躍させると、川に流すところ、逆に流れてくる側から描けば、これは桃太郎ですね。桃太郎は鬼退治して英雄になりますが、一体誰がどこから流したんでしょうね。桃太郎の原型の原型もひょっとしたらこれかも知れませんね。考えはじめたらキリがないね。

 アッカド王国のサルゴン1世によって統一されたメソポタミアも、200年ほどたつと、山岳民族の侵入によってまた分裂します。

 豊かで、文化の高いメソポタミア地方は周辺の蛮族にとってはかっこうの略奪対象です。あわよくばそこを支配できればこれに越したことはない。
 メソポタミアの歴史は次から次へと、この地に侵入する諸民族の歴史といってもよいくらいです。

 アッカド王国滅亡後、一時はシュメール人のウル第三王朝というのが栄えますが、これもエラム人とかアムル人とかいうのが侵入し崩壊。

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バビロニア王国
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 次にメソポタミアを統一したのがセム系アムル人が前19世紀に建てた古バビロニア王国です。別名バビロン第一王朝。前17世紀までつづきます。
 都は有名なバビロン。
 王も一人覚えてください。ハンムラビ王です。

 この王は、シュメール時代からこの地方におこなわれてきた法律を集大成したので有名。
 ハンムラビ法典。超重要です。

 ハンムラビ法典の説明します。
 特徴二つ。
1,同害復讐の原則
「目には目を、歯には歯を」ですね。
  「もし人が自由人の目をつぶしたときは、かれの目をつぶす。」(第196条)
誰かに危害を加えたら、同じことをされるということだ。
 非常に厳しい法律のように感じますね。でも、この同害復讐の原則は復讐に合理的な限度を定めたという点で社会が発展したことを示しています。
 多くの民族が侵入し、戦を繰り返したメソポタミア地方は、生きていくうえで常に緊張していなければいけなかったと思います。
 古バビロニア王国の支配者はアムル人でしょ、支配されているのはシュメール人、アッカド人、そのほかいろいろな民族がいたと思う。違う言葉をしゃべって、違う風習で暮らしている。争いがおきたときどうやって仲裁するか、合理的なルールが必要だったんだね。
 そういう中で生み出されたのが同害復讐の原則。

2,身分差別的刑罰
 「もし奴隷が自由人の頬を殴ったときは、かれの耳を切り取る。」(第205条)
奴隷が自由人に危害を加えたら、それ以上の重い刑をうけるわけだ。逆に身分の高い者が奴隷を傷つけても罰金ですみます。厳しい身分差別があったことがわかります。

 この、「頬を殴ったときは」、という表現、頭の隅の方に残しておいてください。これに関する話をまたいずれします。
 以上二つの特徴を見ると現代的感覚からはやはり残酷な感じがします。

 しかし、ハンムラビ法典のあとがきに、こんな文がある。

 「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」この法をつくったと。

 単純に古い時代は野蛮だったとか遅れていたとか、考えないようにしてください。

 古バビロニア王国は前1600年頃には北方から移動してきた新手の諸民族に滅ぼされますが、これはまた後のお話。


考古学上の所見によれば、中国の古代は、
(1) 前四〇〇〇年ころから、黄河中流域に農耕文化を基盤とする彩陶系の仰韶(ヤンシャオ)文化が発達した。この文化は陸のシルクロードによって、トルクメニアのナマヅガからもちこまれたものらしい。
(2) これより先、山東半島は前五三〇〇年ころから北辛文化が、前四五〇〇年ころから大紋口文化がおこり、前二四〇〇年ころから、さらに農耕文化が発達して、黒陶系の良渚文化が山東半島から侵入し仰韶文化より広い範囲に広がった。この文化は龍山文化といわれ、海洋文化らしい。
(3) 前一六〇〇年ころから黄河下流に青銅系の殷文化が発展した。前一〇〇〇年ころ別の殷人が侵入して先住者と争った。これらの殷人は明らかにマレー海域または東南アジアの海人であるということができよう。
これら三段階の文化の担い手を(1) 彩陶人、(2) 黒陶人、(3) 殷人と称すれば、その人々はどこから来て、どこへ行ったのであろうか。東洋史において、実はこんなことがわかっていないのである。
『秦始皇帝とユダヤ人』p.16




















世界遺産ナスカの地上絵展が開催されてる最中に新たに地上絵が発見されました。その渦巻き模様を見て、バンチェン文化がひらめきました。バンチェン文化は、スンダランドで誕生したシュメール人が、大洪水により海没したスンダランドから脱出して
山に降り注いだ雨は、朽ち枯れた自然界の有機物一切を浄化し、また無機物へと還元させていきます。沢の水はやがて小川となり、沿岸や川底の石と水流がぶつかって小さなカルマン渦(微小渦)を流れの到るところに発生します。このセラミックス(岩石)と渦の作用で水は命の情報が入るようです。オーストリアの研究者シャウルベルガーが水に回転を与えると水が活性化することを発表して、渦流放出のシステムを考案したりしましたが、
古来よりケルト民族では瓶の水を乙女が回転させてから飲用に使うといった風習があったようです。ケルトの古代遺跡にも渦紋が到るところに描かれておりますが、後に若干触れるように渦は水にエネルギーを与え ドロドロの水でもやがて活性化する不思議な作用を与えます。東ヨーロッパでは大昔から雪解けの水を牛や鶏に与えることが習慣となっています。牛に飲ませると搾乳率が10%位増え、鶏では15%前後の産卵率アップとなるようです。雪解けの水でも数日経った水ではその効果が無くなります。恐らく太陽光の電磁波の作用で水になんらかの性質の変化があったと推定されます。密教の行者でもビルの屋上と深山幽谷での冥想とでは全く冥想の質が違うといいますし、山奥の冥想でも付近に大都会に繋がる河が身近にあると都会の喧噪波動が河を伝わって良質な冥想が得られないといってます。どうも水にはこれまでの物質・成分という見方と違ってある種のエネルギーが波動状態で水に入っているかいなか、これがこれからの水を理解するうえで重要でありましょう。
フランスのルルドの水は随分昔に亡くなった聖女の姿を今でも「水ミズ」しく美しく保存してくれているようで、その湧水地にむかう信者の列が延々と続いております。不治の病が直ったり様々な奇跡現象が起こることでもルルドの水は知られてますし、日本国内でも万病に効く水などの話も良く伝え聞くところです。江本勝氏は各種のミネラル水や水道水を低温下で凍らせてその氷晶写真を観察する大変ユニークな仕事をされております。質の悪い水道水では奇麗な雪の結晶形は得られず、比較的良質な湧水は奇麗な六角形の結晶が出来上がるということです。神戸の地震前の水も何故か六角形は得られず、逆に水道水であっても両手をコップに添えて「有難う」「愛しているよ」と十分意識を込めた水はなんと奇麗に結晶化されるというのです。 ここに水はヒトの念という波動を受けて姿を変えたり、ヒトの念がない状態では大自然の生きたままの姿を写し、逆に悪性物質が入っている姿は崩れた氷晶となります。 したがって水はその固有の波動情報をカタチで表現できるということになります。意念というヒトの精神と物質現象とのリンク、その橋渡しの解明が水という媒体を通じて把握できれば大きな貢献となるでしょう。
熊野道に入った処に玉置神社があるのですが、ユダヤの三種の神器、その一つ「マナの壷」が納められているとのいい伝えもあるところです。この神社は、水に関係するようで重岡さんも霊示でこの神前にてある徳度を受けたようです。
マナの壷は日本の「三種の神器」の一つ「八坂の匂玉」に相当しますが、玉の露 相撲の露払いに相当する「水」の意象で、月読の神が関連します。 天照大神が太陽を意象し、火でありエネルギーであり渦であり宇宙真理に己の心を写す宇宙曼荼羅としての神器「鏡」です。須佐之男はカタチ、鉱物、塩に意象され物質界そのものをも意味します。物質解の究極真理を得るため断ち捌き究極まで分断して解を求める「剣」に相当します。心でいえば勇気や科学する心に相当します。
月読みは「玉」ですが統一次元に向けた「法(水)」としての修法の次元、玉の緒なる伝える役割を持つものと言えましょう。
右手の五大「いざな氣(意識)」と左手の五大「いざな身(物質)」とが波動交流し合体した中道の姿が「神道の柏手」であり「仏法の合掌」を意味し、「今」を生き生きと生きる調和の取れた姿を表します。
ダビデの六鉾星は調和・自然・水を意味しこれらと共鳴します。ちなみにコップの下に紙に書いた六角形の図形を置くだけで水の味も変わって参ります。密教の印では胎臓界印が水盤のカタチであり六鉾星と等価で万物調和、自然界横方向のバランスを意味します。一方五鉾星は神人合一の縦方向のヒト神化を意味し、神火であり進化の「陽」のエネルギーや渦、飛翔する鶴や鳳皇がシンボルです。また密教の印では金剛界印として表現され、天空に向う大願の飛躍、アセンションアップを意味します。(細部は小論「渦それは神化なり」参照) この五鉾の火(陽)と六鉾の水(陰)の合体を以てカミ(火水)と謡し、神前に供えるのが日本の慣わしとなっているのです。
ダビデ六鉾星は雪の結晶形と同じカタチの亀甲紋で水神や、水・海に深い拘わりを持ちます。 厳島神社の市杵島媛(イチキシマヒメ)も海(万物一切の「産み」の言霊意象)に関連した神様ですが、彦火火出見神と結婚された豊玉姫も大綿津見(海神)の御娘であり海と拘わり、弁財天様に到っては三つウロコの御神紋は正しくダビデ六鉾星とカタチも同等であります。


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