蘇我氏
BC6000年頃、死海の北、ヨルダン川沿いの世界最古の町、エリコからアナトリアへ、そこで高温の火の技術を発明し、そのおかげで土器を焼くことが出来、アナトリアで自然銅を発見した人々は銅を加工することを覚え、銅を採集するために世界に散っていったと考えられます。主たる人々はメソポタミアへ移動し大規模農業を始めたと考えられますが、なかには、銅を探しに北へ行った人々もいた可能性があります。大規模農業の最適地だったメソポタミアには銅はなく、銅を求めるためには、遠方まで出かけて行かなければならなかったのです。彼らは大規模農業を行なうメソポタミアへの交易をはじめたのです。農耕をする人々と農耕をしないで遂商をする人々の始まりです。商売の正確さを記すため文字が生まれ、共有の穀物倉庫の盗難防御の封のためのスタンプも発明されました。BC4000年頃、ナマヅガ彩文土器文化が熟成期を迎えた頃、アムダリヤ上流域のバタフシャン産ラピスラズリを商う、羊トーテムのサカ族と牛トーテムの月氏の隊商が馬や船などによって旅を続け、バビロンの【スサ】から【ウル】に入ったと記述されています。同じ頃、小麦が、ドナウ河流域とライン河流域、及び黒海の西海岸一帯と南ロシアに広がりBC3000年頃には、小麦からパンをつくる文化がヨーロッパ全域を覆いました。やがて、ナマヅガの彩陶文化は、サカ族によって、東西に運ばれイラン高原における【プロト・エラム文化】に大きな影響を与えました。またラピスラズリが、ハラッパ文化以前のコト・ディジ遺跡から発見されていることから、彼ら、サカ族がドラヴィダ人以前のインダス文明の原形を造っていたことが分かり、感動を覚えます。サカ族は、私たち日本の蘇我氏のルーツでもあるからです。また彼らが、メソポタミアから北方へ銅を探しに行ったウルの人々であり、中央アジアから中国の河南省の方まで行き着き、また西へ移動してギリシャへ到達した彼らはBC2400年頃にクルガン人(アーリア人)になり、コーカサス地方に侵入して黒海に進み、インド・ゲルマン的特徴の混合文化を生み、彼らが、後のインド・ヨーロッパ語族となった人々でありました。それは、サカ族のナマヅガ文化の移動と変遷でも証明されます。イラン高原文化を受容したナマヅガ文化が黄河流域のカラスク文化になりBC3500年頃になると、拡散を始めました。この遺跡から出土した土器は、トルキスタン、アフガニスタン、イランおよびシリアのものと同一であり、同一文化の拡散があったことが分かります。BC3100年頃には、イエニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシュヴァ文化と呼ばれる青銅器文明が起こりましたが、この文化の担い手はクルガン人であり、その高塚墳墓の板石には、カラスク文化と中国のトーテム文様に似た【鷹と人面像】が刻まれていました。 クルガンというのは、ロシア語で土饅頭という意味です。クルガン人は、非常に古い時代、BC3500年からBC2300年頃、南ロシアからダニューブ川流域に住んでいた半農半遊牧民族です。彼等は、最初のインド・ヨーロッパ族であり、最初のギリシャ人だと考えられています。クルガン人の到来とともにギリシャでも馬の骨が出土するようになりました。人類が馬に出会ったのは、牛より、かなり後になります。 馬の源生地は南ロシアでした。最初馬は人間の食料でした。やがて馬に車を引かせるようになり、人が乗りこなせるようになりました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー人類が牛に出会ったのは、数万年前に遡ります。BC7000年頃あるいはそれより少し後、アナトリア南部のタウラス山脈の麓、チャタルフュイックの遺跡では、牛頭信仰の起源と思われる牛の首が壁に掛けてありました。そして、このチャタルフュイックの住人こそ、その後、徐々にメソポタミアへ進出してウル人となり、そこからさらに、青銅時代に入ったBC3500年以降、銅を探して世界に散り、今日の世界の多くの民族の祖先になった人々と考えられています。サカ族の活躍には驚異的なものがあります。彼らがメソポタミアのウル人であり、月氏もアッカド人と共にインダス文明を担ったウル人だったことを考えると、サカ族と月氏は同族であり、半農半牧民から馬を操るようになると騎馬遊牧民になって東西を駆け巡り、アーリア人の祖になった人々、しかも日本に渡来し、蘇我王国を築いたと考えると、深い感動を覚えます。彼らは、朝鮮半島南部の金官加羅(天の王朝)から分派した新羅人であり、白村江の戦いで百済・倭国軍に勝利し、日本を占領しました。(奈良時代)しかし、奈良時代末期になると新羅政府も衰退し、東大寺建立の莫大な費用に財も疲弊し百済人(桓武王朝)・にリベンジされました。藤原氏(唐人)も介入し、新羅人は、阻害され漂白の民となり彼らの歴史書「日本紀」は、改竄され、百済天皇で統一された日本書紀に置き換えられ新羅人の存在は、歴史から抹殺され、蘇我氏は名前も存在も大悪人に貶められました。