不思議な日本書紀
【日本書紀】の男大迹(おおと・継体)25年(531年)の条に【百済本紀】から引用したという奇妙な文章が載っています。《継体天皇二五年(辛亥五三一)二月》二十五年春二月。天皇病甚。《継体天皇二五年(辛亥五三一)二月丁未【七】》丁未。天皇崩于磐余玉穂宮。時年八十二。《継体天皇二五年(辛亥五三一)冬十二月庚子【五】》冬十二月丙申朔庚子。葬于藍野陵。〈 或本云。天皇、二十八年歳次甲寅崩。而此云。二十五年歳次辛亥崩者。取百済本記為文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅営乞〓城。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子・皇子、倶崩薨。由此而言。辛亥之歳当二十五年矣。後勘校者、知之也。 〉ある本によると、天皇は治世28年に崩御したとされている。それを治世25年崩御としたのは、百済本記によって記事を書いたのである。その文が言うのに「治世25年3月、軍は進撃して安羅に至り、乞屯(こっとく)の城を造った。この月、高句麗は安羅王の安を弑した。聞くところによると、倭国の大王および皇太子、皇子皆崩じてしまった」という。これによって謂えば辛亥の年は男大迹(おおと・継体)治世25年に当たる。後世、調べ考える人が明らかにするだろう。 しかし【日本書紀】によれば、「継体天皇を擁立したのは大伴金村だったが穂積押山に任那四県を百済に割譲することを勧められた継体天皇はこれに同意した。ところがその結果、加羅諸国は新羅に降伏してしまったので金村は方針を変えて6万の兵を任那に送った。しかし筑紫の国造磐井(くにのみやっこいわい)が新羅と通じて北九州で反乱を起こした。金村は物部あら鹿火(もののべのあらかひ)に磐井を討たせ九州の御井郡で磐井を斬った」と記されています。歴史上知られる【磐井の乱】で、磐井とは安羅の本国であった筑紫の国造です。【三国史記】によれば、528年頃の百済は新羅と同盟して高句麗と戦っていましたから、常に百済と同盟していた倭国の安羅王一族を伐ったのは高句麗であったと考えられます。しかしそれでは継体と安閑が天皇でなく安羅王であった史実が解かってしまうので、後の延歴年間(782~805年)【日本書紀】を改竄した時に磐井は高句麗に伐たれたのではなく、【物部あら鹿火に伐たれた】としたものと考えます。【盤井の反乱】も創作で、御井郡の盤井遺跡【首がない人物像】も、実は562年、侵攻して来た新羅軍によって破壊された跡なのです。継体を擁立した大伴金村が安羅王安であるとともに、安閑でもあるという一人三役だったことも解かってきました。継体は大伴金村の父、大伴談であり、後の蘇我氏になるスキタイ・サカ族でした。やがて蘇我が東城王を奉じて倭国に来り、東城王を欽明としました。【百済本紀】の倭国こと安羅の大王は安閑、太子は宣化、王子は狭手彦であり、盤井も同じく安羅王の一族だったのです。このように考えると、継体天皇が越前三国にいたというのは豊前を書き換えたもので元来、金官加羅の本拠地であった豊国地方を金官加羅滅亡の後、安羅王が代わって支配していたことが分かりますし、継体をオオト(男大迹)の君というのはオオトモ(大伴)の姓を隠したものと理解されます。大伴金村が安閑のことだと分かると、金村の子の盤が盤井君であることが分かります。【日本書記】には、「537年(宣化)新羅が任那を寇(おか)した」と、あります。この時、既に対馬にあった任那および咸安(晋州地方)は、金官加羅に代わって安羅が支配していたから、早くも新羅との抗争が始まっていたと思われます。これらを総合して考えると、527年、百済・新羅と同盟していた安閑の子、盤が高句麗に敗れ、531年、安羅は高句麗に敗れて、倭の大王安(安閑・大伴金村)太子(宣化・大伴歌)、王子(狭手彦)の三人が戦死したとなります。しかし、任那官家が滅んだのは562年というのは、安羅国が敗れた後も蘇我氏(金官加羅の金氏)やニギハヤヒ軍団らの抵抗や松浦水軍の活躍などもあって、任那官家(広義の金官加羅)も簡単には滅亡しなかったのではないか。この後、倭国の王統は盤井君の子・島養→馬来田と続いています。やがて、倭国(邪馬壱国・九州王朝)は南朝鮮から手を引いて日本列島の経営へと移行していったのです。