テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
ふたたび【鹿島神宮】について。 茨城県霞ヶ浦の神栖地域にある鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の三社は、 【鹿島トライアングル】と呼ばれ、古神道の聖地とされているそうです。 実は、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の3社は、夏至の日の出線などの聖方位 レイラインで結ばれた三角形を形作っているのです。 ここは、ゼロ磁場らしい。 ゼロ磁場とは、ふたつの同じ大きさの電磁力の磁界が、正反対(+-)の方向に向いたときに 磁界が消えてゼロになるポイントのことです。実際にはふたつのエネルギーが二つの方向から 常に加えられており、エネルギーがなくなったわけではなく、巨大なエネルギーが潜んでいると 考えられています。多くの人が【気】(波動エネルギー)を求めて訪れるそうです。 ルーツ、話は、ここから始めます。 ソロモン王の栄華のあと、北朝イスラエル王国と南朝ユダ王国に分裂し さらに北朝イスラエル王国はアッシリアに連行され囚人の身となり やがてシルクロードを東遷する亡命者となり流浪の民となります。 これが【失われた10部族】と云われる所以です。 一方、南朝ユダ王国もバビロニアに連行され強制労働につかされ苦難50年、 やがて【亡命集団】となって流浪しました。 こうした長い亡命生活の歴史の中で BC213年、秦始皇帝による【焚書坑儒】事件が起こりました。 この時、焚書坑儒の対象とされた孔子・孟子系のユダヤ人はガド族の人々であり それ以来、秦始皇帝(ディオドトス)の北朝系シメオン族と 製鉄基地南陽(宛)の支配者であったガド族とは敵対関係に入りました。 その結果、北朝系だったガド族は南朝系に接近して北朝系と争うようになりました。 南朝系亡命者グループはガド族のリーダー、猿田彦命(世襲名)初代に率いられて宛のある 山東半島から遼等へ逃れ、南朝系イッサカル族の公孫氏の一部勢力と北九州博多へ渡来し 吉武高木遺跡に旧伊勢国を建て銅鐸文化を創始しました。次に旧伊勢国王猿田彦2世は イスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(アマテル大神)を平原王墓遺跡に築き、 ヤタノ鏡・鉄剣・勾玉などの三種の神器を奉納しました。 BC74年、辰韓(秦韓)にいた 秦の亡命者シメオン族らは、【天の王朝】のエビス王から 背振山脈南部(佐賀平野)を割譲されると鳥栖と吉野ヶ里の地に委奴国を建てました。 委奴国の王はシメオン族々長の大国主命であり、大国主命の弟のグループは日本海側の 敦賀(福井県)に上陸して奈良盆地に入りました。こうして、大和(奈良盆地)にユダヤ人 亡命者のコロニーがつくられました。さらに、この時、ユダヤ人亡命者集団の先遺隊は 近畿地方だけではなく関東地方にまで進出して、利根川河口付近にコロニーをつくったのです。 紀元1世紀になると、委奴国の人々もユダヤ人の文化である銅鐸文化と前方後円墳文化の 拡散に尽力しながら、近畿地方へと到達しました。こうして、【国史】に名が出てくる、 宇治氏・羽田氏・和珥氏・土師氏らが、シメオン族(秦氏)のクニ、 秦王国(【記紀】にいう大和朝廷)を大和に建てたのです。 そして、これより以前、筑波山麓(茨城県鹿嶋)に秦人たちのコロニーがつくられていたのです。 さて、ここからは信憑性は分かりませんが、伝わっていることです。 イエス・キリストが仏教の秘儀を知り、弟子の義弟トーマスを身代わりにして処刑場に送ると 自らはインドに亡命して布告活動を続けていました。 その後、イエス・キリストの一行ゼブルン族50名は、インドを船出してAD 34年、オケオ港経由で 渡来し、津軽十三湊(青森)へ上陸します。上陸後、キリスト(当時37歳)は、先住者ゼブルン族の ミユ子と結婚し長女をもうけました。その3年後、津軽から鹿嶋(茨城県)へ渡ったイエス夫妻は 次女をもうけますが、この次女は、後に伊勢神宮の内宮で巫女となり、死後は外宮に祀られます。 次いでミユ子は長男をもうけますが、その長男は後に茨城の静神社に【建葉槌命】として祀られ 【八戸太郎大天狗神】とも呼ばれるようになりました。イエスは鹿嶋に3年間滞在したあと、 船で熊野に移り、熊野巫神社に2年間滞在すると今度は伊勢(伊雑宮)に移って、そこに 2年間滞在しました。こうした同族コロニーへの布教活動の後、再び津軽に帰りますが この時すでにイエス・キリストの身体は結核に冒されていました。病弱な身体で青森に 着いたキリストは、遂にこの津軽の地で息絶えたのです。享年59歳でした。 イエス・キリストの墓は、青森県五戸町近くの戸来(現在の新郷村)にあり その御霊は鹿嶋浦(茨城)の鹿島神宮に【武ミカ槌大神】として祀られています。 こうして、鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の3社が祭られている常総地域は、一般に 【鹿嶋トライアングル(ゼブルン族の三角地帯)】と呼ばれ古神道および古武道(一刀流)の 聖地として知られているのです。 また、2004年6月6日イスラエル駐日大使が、戸来のイエス・キリストを祀る祭典に出席し 【エルサレムストーン】と名付けられた友好の記念碑を新郷村の聖地に贈呈しました。 この史実はイスラエル国民にも、認識されることとなりました。イエスが語った言葉はヘブライ語 ですが、今でも伊勢音頭にはヘブライ語が残ります。 約7000年前、縄文時代前期頃から常陸・下総などにはオロッコ系縄文人が居住していました。 やがて、3000年前頃、弥生時代前期、出雲あたりから【タタラ製鉄】文化を持つヒッタイト人たちが やって来ました。彼らは利根川支流、日川の砂鉄を採取してタタラ製鉄をおこない鍛鉄によって 初代の神器、宝剣を製作、鹿島神宮の「奥宮」後方にある要石の上に安置しました。 この霞ヶ浦の鹿島トライアングルは、超古代から縄文人の聖地だったのです。 659年、秦王国の分国王家(秦始皇帝の後裔)の長男として生まれた中臣不比等は 鹿島神宮の領域内で育てられましたが、実父(阿比留あびる)氏とは11歳で死別 鹿島神宮の神官卜部氏は、不比等を奈良の卜部本家(中臣本家)に預けて養育 させてもらいました。ちなみに阿比留氏とはヘブライ人の古名【アビル】のことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/02/23 11:42:00 AM
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