テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
NHKスペシャル 【法隆寺再建の謎】が放映されました。 飛鳥時代に聖徳太子が創建した法隆寺は現存する世界最古の木造寺院建築とされています。 昨年、その中心となる伽藍・金堂で大規模な修復工事が行われました。仏像を乗せる須弥壇に深い亀裂が入っていることが解り、このままでは、崩れ落ちる危険が あって、金堂内の仏像群を堂外に移動することになりました。 飛鳥時代、日本に仏教が根付いていった過程に何があったのか解き明かす鍵となる金堂の内陣 普段は間近に見ることのできない国宝、金堂の秘密に触れるまたとない機会が訪れました。日本書紀によれば、聖徳太子の死後、法隆寺は一度火災に遭い、現在の伽藍はその後 再建されたものだとされています。しかし、寺に火災の記録が残されていないことから 信憑性を疑う声もありました。しかし、寺の一角から決定的な証拠が見つかります。 寺院の遺構がみつかったのです。出土したのは、解けて固まった瓦。 普通は一般人の見ることの出来ない釈迦三尊像の光背に刻まれている銘に書かれている文を 番組では、太子の死に際し、身近の人々は、その姿を敢えて釈迦の姿に写したと解釈します。 そして火災をまぬがれたもう一体の仏像紹介しました。 国宝、夢殿に長い間、人々の目に触れなかった救世観音です。 この仏像もまた、聖徳太子の在世中にその姿を写した御影だといいます。 約180センチの等身大の仏像です。聖徳太子を写した仏像が二体あったことになります。 なぜ、これらの仏像は、焼けなかったのか?なぜ場所を移して再建されたのか? 科学の力で解明しようとします。金堂天井板の樹皮を剥いだ後の面皮の年輪を調べます。 木材の伐採された年代を割り出します。668年のものでした。焼失したのが670年。 現存している法隆寺の方が古いことになります。 番組では、現在の金堂は、火災前に独立した形で建てられ仏像も移されていたのだろうと 語ります。当時、唐王朝が脅威的になって、白村江の戦いへ向かう時代背景、こうした時代に 法隆寺の釈迦三尊像を祭ったということは、天智天皇が唐が攻めてくる時世にバラバラに なっている豪族を統一するために聖徳太子の権威によって国をまとめたいとの願いからと 番組は進行していきます。動乱のなかで、太子信仰のもとに人々の心を一つにし平安が訪れた と謎でも何でもなく、今や教科書にも載っていない聖徳太子によって番組はしめくくられました。 実は、聖徳太子と云われている人物の実体は、 この上宮法皇の阿毎多利思北孤(あめたりしひこ)のことでした。 明治17年の夏、古都の美術調査をしていたアメリカ人学者フェノロサと 東洋美術の先駆者である岡倉天心によって、救世観音のヴェールが剥がされました。 救世観音は夢殿の中に、からだを木綿のさらしでぐるぐる巻きにされて納められていました。 仏像は、本来礼拝するものであるのに、なぜ白布でぐるぐる巻きにし、 人目に触れないようにされていたのか。 さらに頭と胸に太い釘が打ち込まれていたのはなぜか? 乾漆作りで、胴は空胴になっています。この仏像は秘仏とされ、1200年間、一度も人目に 曝されたことがありませんでした。両手は太子の骨を入れたと思われる骨壷を抱えています。 フェノロサが仏像の白布を解き始めると、寺院の僧たちは一斉に外に逃げ出したといいます。 この仏像を見るものは眼がつぶれるとか天変地異が起きるとか言い伝えられてきたからです。 有名な「日出づる処の天子書を日没する処の天子に致す。恙無きや。・・・」 この【日出ずる国の書】は、聖徳太子とは、まったく関係なく、秦王国の国王アメタリシヒコが 出したものであり、これが秦始皇帝の子孫がつくった奈良盆地の秦王国 の実態を知らない中国文帝開王の怒りを買ったのです。 釈迦三尊像の光背に刻まれている銘も聖徳太子ではなく阿毎多利思北孤に関する記述です。 倭王・阿毎多利思比孤アマタリシヒコというのは、実は大和にやって来た秦王国王のことで ユダヤ人シメオン族の族長でした。即ち3世紀初頭、神武らの扶余族(北倭)に敗れた倭奴国 の王・大国主命(世襲名)の子孫たちが東遷して近畿地方に秦王国を建て、その秦王国の王が アメタリシヒコでありました。このシメオン族系の最後の王が66歳で病死した時、この王には 3人の女子しかいなかったため、5世紀後半、【倭の五王時代】に朝鮮の高句麗から渡来して いたレビ族系の東漢(やまとのあや)氏一族が、その実力を買われて秦王国の王位を継承 しました。その王族が上宮聖徳に連なるのです。 ![]() 上宮聖徳は、東漢氏(ユダヤ系レビ族秦王国王家)の長男に生まれましたが、シメオン族系 秦氏のバックアップを受けた弟の勢力との王権争いに敗れて、623年11月22日に妻と二人、 自害(心中)したため、急遽、レビ族によって藤ノ木古墳に埋葬されたのです。 京都太秦にある広隆寺では、毎年、聖徳太子のための法要が行なわれていますが、その法要の 日は、実は上宮聖徳夫妻の命日なのです。【日本書記】の脩史官は、アメタリシヒコを聖徳太子 に置き換えるとともに、歴史的実在の人物である上宮聖徳を聖徳太子に仕立て上げることにより 聖徳太子の物語をより一層完全なものにしたのです。いわゆる大和朝廷の天皇が大和に成立 しておらず、まだ皇太子の制度・慣習もない時代の人物に、後の世に権威づけがなされた 【日本書記】は、上宮聖徳を百済・威徳王昌に比定し、百済の歴史と大和の秦王国の歴史 を混合して聖徳太子の伝説を創作したようです。 その後、上宮聖徳夫妻を死に追いやった罪滅ぼしと、その祟りを恐れた実力者の 秦河勝(東儀秀樹氏の祖)は、太秦に広隆寺を建立して2人の霊を弔うことにしました。 毎年、広隆寺の伽藍寺である大酒神社で【太秦の牛祭】として有名な奇祭が執り行われます。 現在の法隆寺を斑鳩宮とする【記紀】の記録は、おそらく意識的になされた誤記であるようです。 現在の法隆寺周辺から発掘発見された遺跡は若草伽藍といわれていたもので、法隆寺とは 全く関係なく、それらは、すべて斑鳩寺のもので、671年3月9日に落電によって焼落ちています。 最初の法隆寺は現在地でなく、上宮聖徳によって阿毎多利思北孤の遺体が葬られている 鳥ノ山稜の西側に建てられたのです。それも672年に落電にて焼失。 現在の法隆寺は733年に再建しました。 【日本書記】は、669年入鹿が斑鳩宮を焼いたとありますが、【斑鳩宮】は落電によって焼失しました。
【蘇我入鹿暗殺】も新羅の【ひ曇の乱】をモデルにしたものであり、また日本に於ける律令制の 施行は、藤原仲麻呂による大宝律令完成701年なので、【大化の改新】の詔が出されてから 55年も経った後に律令制が施行されたことになり、【大宝律令】の存在も疑問視されます。 【日本書記】の修史官は、かなり無理をしたようです。645年に【入鹿暗殺】により蘇我氏が滅亡し 翌646年、正月に【大化の改新の詔が出された】としたわけですが、それは、あくまで新羅の歴史 なのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/03/18 07:22:06 PM
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