テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
狗邪韓国(東表国)が邪馬壱国との戦いの結果、 天の王朝(九州の東表国・エビス王)から朝鮮半島の南部、辰韓の地に飛地(分国)を作って 金官加羅を建てたのは3世紀中頃だったと考えられます。 金官加羅の初代王は首露王です。そして王妃はインド16王朝時代のアユダ国、別名 コーサラ国の王女でした。コーサラ国は古代フェニキア人のインドに於ける植民地でした。 4世紀中頃、首露王の曾孫、末仇と奈勿父子の時代に、辰韓12国中の自分たちの分家 領地・斯盧国を独立させて【新羅国】を建て、奈勿尼師今(なこつにしこん)が 第17代新羅王として即位しました。 【三国遺事】によれば金官加羅は弁辰12国のうち最大の国家でしたが、10代仇衝王の時に 新羅と争って敗れ、王族は降伏して新羅の重臣となりました。 即ち、562年9月、新羅真興王の軍が攻めてきたとき、安羅国(金官加羅の本国、九州) の軍勢が駕洛国(金官加羅)の背後を襲ったといいます。 つまり金官加羅は、新羅と安羅に挟み撃ちされて滅んだのです。 新羅は第23代、法興王の頃から征服王朝の性格を備えはじめ、次の真興王の時代には 全盛期を迎えていました。さらにインド伝来の固有信仰から発達した【花郎集団】が その宗教的な団結心を基盤にして、新羅軍事力の中核をなすようになるのもこの王代からです。 奈勿王4世の孫、異斯夫は兵部令として新羅全軍を指揮するようになると、さらに領土拡張に 努め、常に第一線の武将として活躍しました。彼は各地の交通の要衝を眼下に見下ろす高台の 地に見事な【朝鮮式山城】を築城して戦いを有利に進めたといわれています。 この【朝鮮式山城】は、中世のモンゴル侵入や近世の豊臣秀吉侵入に際し、その地方・地方の 農民軍が立てこもり、時の王朝軍が戦う意欲を失った後も、自立した義兵闘争をこの山城に よって展開した城です。南朝鮮には現在なお百を越える山城があって、見事な城壁(石垣) や遺跡を残しています。日本でも同じく、7世紀の白村江の戦い以後につくられたと思われる 【非常の祭の逃げ城】としての【朝鮮山城】が西日本各地に21ヵ所も存在しており、新羅および 百済文化の名残を留めています お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/03/21 12:06:15 AM
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