テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
九州にあった邪馬壱国、伊勢国(秦王国) 伊勢国(秦王国) 奈良県の飛鳥時代の不思議な石造物や文化財、石人男女像、猿石、二面石、亀石 益田の岩船、酒船石、須弥山石など大和朝廷の史跡に指定していますが、これらは 大和朝廷のものではなく、すべてイ妥国(秦王国・古代日本ユダヤ王朝)の文化遺産でした。 紀元前一世紀、奈良盆地にユダヤ人のコロニーがつくられ、やがて三世紀に秦王国となりました。 この【秦王国】は、中国の始皇帝の秦がBC206年に滅びた後、その子孫たちが 海を渡って日本へやって来て築いた国です。始皇帝は実は古代ユダヤ民族のシメオン族の 血を汲んで、バクトリア知事であったディオドトスというのがその正体で彼は碧眼で鷲鼻をもつ 男性でした。その西域人の流れを汲んだ人々が日本へ渡来し、シメオン族という 古代ユダヤ人の一部族、その族長が国史でいう大国主命で、彼が九州に上陸して造った のが委奴国というクニでした。 この委奴国の前に北九州の地にいたのが、ガド族の猿田彦命を中心としたグループの 伊勢国でした。その伊勢国を攻め滅ぼして樹立したのが委奴国でした。 委奴国にいたユダヤ人(シメオン族・レビ族・ルペン族)および苗族らの人々は 急遽、博多から乗船して瀬戸内海を東遷しましたが、その途中、一行のうち500人は 周芳国・徳山湾(旧近江ノ海)に滞留します。そして別行動の本隊、約300人は摂津(大阪湾) に上陸し、先住していたガド族との間で激しい戦いとなりました。 一時は、ガド族を撃退しており、このことは記紀の神武東征神話にも【ヤタ烏の物語】として 投影されています。この後、豊ノ国(大分県)から宇佐八幡宮の神霊を奉じ亡命してきた東表国 の人々も合流して【遠石八幡宮】・・・宇佐八幡の分霊を祀る石清水八幡宮・・・を建てました。 最後にはシメオン族が勝利して奈良に入り、秦氏の一行に参入して【秦王国】が建てられました。 ところで、熊野山中には100キロメートルにも及ぶ石垣が存在しますが、これはガド族が シメオン族との戦いに備えて築いたものです。やがて秦王国の人々と東表国の人々は相協力 して古周芳国および古周芳の石上神社(楊井水道)の領域を占領し、秦王国の分国【周芳国】を 作りました。この時、古周芳の元宮・周芳神社(柳井市日積・諏訪神社)の【たたえ祭り】神事が 猿田彦の亡命と共に、縄文人(オロッコ人)たちの故郷・信濃の諏訪神社へと伝承されています。 それが今日まで伝わる長野県諏訪神社の【たたえ祭り】のルーツになります。 邪馬壱国 その後、扶余・百済系のイワレヒコ(神武天皇=扶余王仇台・高句麗王子ケイ須)が遼東半島 にいた公孫氏(古代ユダヤ系イッサカル族)と協力して、同盟軍、猿田彦のリベンジします。 210年~213年、大国主命の委奴国を滅ぼして建てた国が【魏志】倭人伝に出てくる伊都国です。 一方、公孫氏は宮崎県西都原を中心にして安羅国を建てました。 公孫氏はユダヤ系イッサカル族系統の人々で、その族長は大物主命とか事代主命と呼ばれ ていますが、イッサカル族というのはドイツのヒトラーの母方と同じ種族で、マルクスも同じ流れの 人です。そして、日本にやって来たイッサカル族公孫氏の子孫が卑弥呼でありました。 3世紀初頭、イッサカル族は、アンガ系のチャム人(北倭人)を率いて狗奴人=南倭人 の領域に渡来し、安羅国(日向・西都原)を建て、女王・卑弥呼の邪馬壱国となりました。 248年、卑弥呼が亡くなると、卑弥呼と季父(亡夫神武の先妻との息子)の間の宗女 壱与が後を継ぎ、狗奴国=沖縄(南倭人)水軍との戦いを続けていました。 やがて、壱与は卑弥呼と神武との間の子、綏靖(すいぜい)の王妃となっていましたが 286年、対馬の祭祀センターへ移動して、倭人系諸国を統括する【倭の大王】になりました。 邪馬壱国女王・壱与は綏靖の王妃となって、安寧をもうけていましたが、壱与は安寧を 連れて任那(対馬)へ移動したのです。その後、西都原に残留していたイッサカル族は 狗奴国水軍によって滅ぼされたといいます。さらに4世紀中頃、ウガヤ王朝の後裔 扶余王依羅が邪馬壱国と狗奴国(東表国)を合併して百済国を建て、弁辰諸国と九州を 支配する【倭の大王】(祟神天皇)となりました。 倭奴国(大国主命のクニ)の遺民たちが神武勢力に敗れて東遷・亡命していったとき 先住民ガド族(鉄鐸・銅鐸文化)の【旧伊勢社】神殿が平原王墓遺跡と同じように シメオン族によって徹底的に破壊されていきましたが、今に残るその遺跡は香川県~大阪府 ~奈良盆地の三輪山に至り、纏向日代宮(山全体を巻剥いて造った太陽神殿)を建て、 人々の【バアル神】信仰のメッカとして栄えるようになりました。 白村江の大戦では倭国・秦王国・荒吐五王国の三国連合水軍3万人が 唐40万人・新羅5万人の連合軍に敗北しました。その結果日本の三大勢力圏はすべて 唐・新羅連合軍に占領されました。続いて672年【壬申の乱】が起こりました。 【日本書紀】は、大海人皇子、大友皇子を近江に滅ぼす。と、記しますが、その実態は、 秦王国(イ妥国)に於ける【壬申の乱】のことでした。 大友皇子ではなく実は、東漢氏(レビ族)出身の秦王国最期の天子の指揮を受けた秦王国軍は、 侵入してきた新羅軍と一ヶ月も勇敢に戦い、この時、大王家に忠誠心が強かった蘇我氏の一族は この王と最期まで運命を共にしましたが、秦氏およびユダヤ・シメオン族らの諸部族が 新羅の花郎軍団の統率力を見て、戦いの無意味さを悟り、一斉に寝返って新羅軍に 降伏したため、王家の軍は孤立して総崩れになったといいます。 これより以降、秦王国の豪族たちは新羅側の軍政に協力していくようになりました。 そのため、機織部の秦氏のグループは敗北し、雪崩を打って秦王国の分国地・関東地方へ 逃亡し、やがて彼等は鹿島神宮や静神社の機織部領域付近、蘇我、行徳および秦野付近など に散居して逼塞したのでした。 こうして、2王朝が連合して機内に侵攻し、大和盆地の秦王国(秦始皇帝の後裔・秦氏ら ユダヤ人の王国)と共存する勢力となり、国史にいう三輪氏・凡河内氏となりました。 継体以下の邪馬壱国または安羅王朝 継体・安閑・宣花は、安羅王(卑弥呼・邪馬壱国の分国)で、日本史の上では大物主命の 子孫の大伴氏でもあります。実は、新羅が金官加羅を滅ぼすことができたのは安羅が新羅 と通じていたからで、この後、新羅、安羅・百済の三国は、しばらくは同盟して共通の敵 高句麗に対していたのです。後の白村江の戦いに於ける倭国(安羅)滅亡の原因は 金官加羅王家の子孫で新羅の重臣となっていた金ユ信が亡国金官加羅の怨みをはらさんと して王子、金春秋と組んで唐の力を借りて安羅打倒を計ったのです。 皇極(斉明)以下の新羅王朝 そして金官加羅から分裂してできた新羅の金姓王朝が皇帝と書かれ、皇極、斉明・・天武、文武 と、続く王朝になりました。即ち、白村江の後、成立した天武以降の新羅王朝はこの王朝 の続きです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/03/21 08:52:24 PM
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