テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
![]() 日本人のルーツはシュメール人を率いるアーリア人という 図式が浮かびます。 ユダヤ人との同祖がいわれますが、古代は日ユに限らず、 いろいろな民族が混血し世界に散っていったので人類はみな兄弟。 BC12万年頃、ネグロイド(黒人)から分離して旧モンゴロイドが誕生しました。 BC7万年頃、ビュルム氷河期が始まったことにより旧モンゴロイド からコーカソイド(白人)が誕生したと考えられます。BC3万5000年頃、バイカル湖周辺で旧石器文化が起こりました。 BC2万3000年頃、モンゴリアンがベーリング海峡を越えてシベリアから北アメリカ北部へ移動。 BC1万8000年頃、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たり、寒冷から逃れて南下し中東地域に 最初に現れたのがケバラン人。中東、パレスチナに現れその後の文明の主流となりました。 BC1万5000年頃、地球温暖化が始まり、不毛の砂漠だったシリアの北部に草原や森林が広がり 豊富な食糧を供給し、周辺の狩猟採取民族が、ハルーラという場所で定着生活に入ります。BC1万1000年頃、地球的規模の寒気の揺り戻しがあり、旧モンゴロイドから新モンゴロイド誕生。 シリア北部の自然環境も、もはやかっての生産性豊かなものではなくなり定着生活で 人口の増加をもたらした人々へ突如襲った環境の激変と、それに伴う食糧の減少は 窮地に陥いりましたが彼らは、困難に敢然と立ち向かい、ありとあらゆる可能性を探り、 野性種の小麦から栽培することを発見します。 BC1万年より少し下がった頃、ケバラン人系譜のナトウフ人が、カルメル山の山麓から パレスチナのエリコの町にやって来ます。ここは天然のオアシスで、エリシャの泉は、 遊牧民たちの水飲み場で人が集まりやすい場所だったのです。 世界最初の農業を始めたナトウフの人々は、共存共栄の元に平等に暮らし、通常の採取経済 に比べて50倍もの生産性を高めましたから幼児死亡率を減らし2000人ほどにも人口を 増やしました。エリコの最初の文明は約1000年続きましたが農業が安定し、穀物を貯蔵し、 エリコが繁栄し豊かになると外敵が出現し、城壁を造らなくては、ならなくなったと思われます。 ナトウフの人々は、アナトリアへ、武器を探しにいったようです。黒曜石です。 その時に、農業技術の情報もアナトリアへ、流れたと考えられます。 肥沃な三日月地帯(イラン・イラク・トルコの高原地帯)で野生種からの【小麦栽培】が始まり、 それが東西へ伝播していきました。 BC9500年頃、遊牧民のウラル・アルタイ語族【ツラン族】が、西シベリアのオビ河とイエニセイ河 の上流域に発生し、後に、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルク の五族が生まれました。 BC6000年頃、オクサス河とインダス河上流バタフシャン(今のトルクメニア地方)に 牧羊民族によって、ナマヅカ文化という彩陶文化が起こりました。 BC4000年頃、ナマヅカ彩文土器の熟成期を迎えた頃、アムダリヤ上流のバタフシャン産 ラピスラズリを商う羊トーテムのサカ族と牛トーテムの月氏の遂商が馬や船などによって バビロンのスサからウルに入り、イラン高原の【原エラム文化】に影響を与えました。 ナマヅカ文化はサカ族やドラヴィダ人によって運ばれ、彼らがインダス文化の原型を造っていた ことが解ってきました。ナマヅカ文化は、やがて黄河流域の仰韶(ヤンシャオ)文化あるいは カラスク文化となりました。 BC3700年頃、バビロンのジクラットにいた、シュメール系エジプト族、 インドに南下したシュメール系ドラヴィダ人、チュルク族が移動を始め この4氏族の長である苗族とナーガ族が真っ先に移動を開始。 彼ら苗族&ナーガ族は高地、コーカサス山脈に行き、そこから北上して極北の地に臨みました。 雪や氷に覆われUターンして南下しコーカサス山脈の西側に至ったところで二派に分かれ 苗族は草原地帯を東に進んで中国へ移動し、さらにコラート高原へと移動を続けました。 一方、ナーガ族は南下してアフガニスタン東部のカイバー峠を越え、インダス河谷に流入 しました。彼らはダナヴァ族やダイユ族とともにアスラ族と呼ばれ、ドラヴィダ族とともに 古代インダス文明の担い手となりました。この地に滞在中、【壇君教】を奉じる集団となった ナーガ族は、その後インド・デカン高原からタイのバンチェンに入り、そこで苗族と再び合流し 黒陶文化を展開し、彼らがシュメールに上陸して、さらにエジプト古王朝に参加した マヤ人(植民者)であったといいます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この時、彼らを待ち受けていたのが地中海人種のエラモ・ドラヴィダ語族で エジプト第一王朝の古フツリ人であり、中国の【史記】では伏犠氏と記された人々です。 両者の抗争については、テキストでは【バールとモートの争い】として述べ、モートまたは盤古神 は、元来焼畑文化の再来神だったことから照葉樹林帯に於ける農耕民の主神だったことが 窺われます。 エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な地域を移動し、 その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となってBC3500年頃、古代ウバイド人(苗族) を征服し、バビロンの地に侵入しました。【史記】の伏犠氏は、この人々です。 シュメールの【ウル第一王朝】始まります。 アルメノイドとは、アナトリア東部のヴァン湖の北岸地帯にいた人々です。。 シュメール人には二系あり、中国の【史記】では伏儀(ふぎ)氏と女女咼(じょか)氏と記します。 伏儀氏が初期のシュメールなら洪水後の女女咼(じょか)氏は、後期のシュメールの ナーガ族とオーストロ・アジア語族のカーシー族です。 ニギハヤヒに率いられたナーガ族は倭人の王族で、後の朴氏です。 昔氏はインドのシャキイ族、金氏はアユダ国の王女が首露王の王妃になったことでも分かるよう に、元々アユダ国の植民地が沖縄から九州の豊日国に移り、さらに朝鮮半島に於いて駕洛国と なったものです。すなわち、新羅三姓といわれる朴・昔・金の王族たちは倭人であり、統一新羅は 倭人が建てた国だったのです。中国の史書では犬戎とありますが、実際には扶余・辰国・箕子国 の遺民を示し扶余が昔氏、辰国が朴氏、箕子国が金氏です。 高句麗王が辰王の地位を得ると後に分国して九州に邪馬壱国を建てましたが辰国系の 狗奴国に追われ、半島南部で百済となり、狗奴国は伽耶となり、伽耶がまた新羅と倭に二分 しました。 高句麗時代のケイ須(神武)が公孫氏と一旦、山東半島を支配し、後、ケイ須(神武)の兄、 五瀬命(発岐)を沖縄王に任命したため朴・昔・金の王族は抵抗して狗奴国をたてて北上し、 日向の邪馬壱国を攻撃したとあります。さらに、この人々は、後に新羅王家を建てます。 狗奴国・伽耶の倭王は扶余系の蘇我氏で昔姓の王で国史の天日矛または安日彦王朝 この王家が古墳文化を残したのです。白村江の大戦まえ、百済の王子豊が蘇我王家を簒奪する ときまで、日本列島を支配していたのが蘇我王家でした。 BC3100年頃、イエニセイ河上流とアルタイ地方に、青銅器文明のアフナシュヴァ文化が 起こりました。この文化の担い手は、パレオ・ユーロペオイド(白人)であることから 最初のインド・ヨーロッパ族であるクルガン人と考えられています。クルガン人は、、かつ最初の ギリシャ人だと考えられています。また彼らは、チュルク族の丁零です。 シベリアにいた丁零と西域のトルコ人を包括するチュルク族ゆえ、西方から東方へと時代を経て 大きく移動していったものと考えられます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/04/23 05:56:06 PM
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