カテゴリ:歴史
辰国は、遙かなる古の国、日本のルーツ、ウガヤ王朝です。 辰国は月神シンを主神とする、アッカド、ウル、シュメールの人々が サルゴン王朝末期に、インダスを遡って、チベットから黄河を下降した人々の国家です。後の、【sin・シン】、秦、晋、清・・・・・は、この月神シンからくるのでしょうか? 彼らの故郷、バビロンでの国も【イシン】といいました。 アッカド人が王家で、タクラマカン砂漠を本拠とし ウル人は月氏としてチベットへ シュメール人は殷の時代、姜人として黄河流域にいましたが 遊牧化したものが匈奴冒頓部となりました。 辰国とは、これらの人々とエブス人、またはフェニキア人(ユダヤ)による九州と 山東半島(殷)を支配した東表国との連合体で、カラスク文化は辰国の人々が作ったのです。 ウルの商人(サカ族)は、ディルムンの銅をスーサにいたエラムの銅と交換することによって 肥大化したのですが彼らが銅を買い付けるための基地が九州の東表国だったのです。 イシン滅亡の後、イシンのアラム人と海のカルデア人がシルクロードによって辰国に亡命 したため、辰国は、アラム人をバルハシ湖周辺の地に収容しました。 地母神信仰をもつ農耕社会が成立。 BC5800年~5100年頃、チグリス河上流のハッスナーからサマッラにかけて高原農耕社会成立。 BC5100年~4300年頃、ハラフ文化が展開。彩文土器、銅、円形のトロス、押捺印章など。 分業がはじまり、金属細工人、陶人、石工が生まれ、銅鉱石交易。 この頃、銅鉱石を採集してハラフ農民(高令・丁零)と交換した人々が後のアッカド人。 すると、ハラフ農民(高令・丁零)は、パレスチナのエリコにいたナトウフの人々でしょうか。 彼らは、北部ヨーロッパから寒冷期に南下して来た人々でしたからパレオ・ユーロペオイド のコーカソイドというのも合点がいきます。 アッカドのサルゴン王朝は、BC3000年頃のアッカド人の民族移動の後 BC2360年~BC2180年頃までバビロンを支配し インダス経営はBC2350年~1700年まで続きました。 碑文は、この王朝がインダス渓谷と交易しマガン(エジプト)を征服し ディルムン(山東半島)を支配したと記しています。 アッカド人の出自は、ウラルトゥの北方のアゾフ海に流れ込むコーカサスのグバン河デルタに シンデイという人々がいて、このシンデイ人がアッカド人の先祖と考えられます。 シンデイ人は、BC4000年以降のハラフ高地に自然銅を運んだ原セム族の人々で カスピ海周辺から南下し、メソポタミア南部のシュメール人を支配しました。 ハラフはヴァン湖に銅鉱器文化による農耕が始まり、シリア方面に西進し 北イラクのトルコ国境、高地南麓【テル・ハラフ】で大河下流の流域を開墾し小麦初期農耕を始め のちBC5000年紀末、太古のハラフ農民(高令・チュルク)がユーフラテス河流域に下降しました。 このハラフ文化は、東はヴァン湖から西は地中海におよんでいました。 ハラフ農民【高令】族または【丁零】は、採鉱民族であるセム族アッカド人に率いられて BC1000年紀にシルクロードによってジュンガリア砂漠の北方に移住した農耕民族でした。 銅鉱石文化についてはハラフ文化と同時期、エラム高地にも同様な文化が発達し さらにウルク原文字時代が始まります。 ハラフ高地に銅器を持ち込んだアッカド人と、エラムに銅器持ち込んだ人々が、元来同一の文化 の流れに属して、それぞれの農民と結合しながら異文化を発展させたと思われます。 【姜】族(シュメール)とは、エラム高原の農民がチグリス河流域に移動した人々です。 中国側の資料では、、【姜】族はチベット人で、殷の甲骨文では、しばしば生贄にされています。 【姜】族がチベットの羌族になったのは、アッカドのサルゴン王朝がインダス河を遡行して チベットに侵入した時、チグリス農民を伴ったからです。
倭人はカルデア人を中心とする南セム族でしたが、バクトリア南部のシースターン(サカスターナ) 地域では既にサカ族の名になっていて、この地のサカ族は、ペルシアのキュロスの時に降伏して ヒスタスペスの支配を受け、後、ペルシア王統が乱れた時、ヒスタスペスの子がダリウス1世に なっています。 BC221年、大秦国(バクトリア)王、ディオドトス一世は、精強なペルシャ軍団を率いて中国大陸 に侵攻し、中国全土の統一に成功すると、自ら【始皇帝】を名乗って秦帝国を建国しました。【秦】というのは、多分【月神si-n】。【月神si-n】とは、悠遠のかなたのジグラッドの主神であり 檀君神話のルーツになります。【檀君神話】は、イラン族のナンダナ神、アーリア族のインダナ神 でもありますが、【【月神sin】から派生しています。ここ一帯を大洪水が破壊したあと、チグリス ユーフラティスの流域に戻ってきた人々が夢と希望をこめてジグラッドを作ったのです。 エジプトのピラミッド、高句麗の将軍塚、日本の前方後円墳のルーツとなったジグラットは主神 として【月神sin】を祭るのですが、後に月氏も匈奴もこの神を祭りました。 【月神sin】信仰は多様に分化してこの地域の各民族に拡がりましたが原型は同一でした。 【辰国】の辰王は、秦よりはるかに古いイシン国の王統でした。 国は滅びても、流浪の辰王が権威を持って、辰系諸族が作った諸国家の民の間に、 いつまでも存在していたのです。 中国の西域を支配して新しい権力者となった秦の大王は、その権威に対抗するべく 秦という名を持つ国家を建てましたが、辰王の権威をもつことは出来なかったようです。 そして、おそらく、本来は身内であったはずの匈奴勢力が離反したため、 辰王の権威にとらわれない全く別の新権威を名乗って【始めての皇帝】したのでしょう。 本来は草原地域からの軍用補給路であった万里の長城は、始皇帝以降、 実力を熟知している嘗ての身内、匈奴軍を防ぐ防壁に変わっていったと思われます。 しかし、彼ら秦は【イシン国】の遺民であるタイ系種族が建てた国であったがゆえに、 既存の辰王の権威を無視することなしに新しい帝国運営は困難であったので【sin秦】。 焚書坑儒という、とてつも無い規模の文化破壊も、すべての辰系学者を殺害も、 文書類を焼いて過去とのつながりを断ち切って新しい国家を始めましたが 【秦帝国】崩壊後もsi-nという音への魅力はいやしがたく、後々までもisinの遺民である 【月神sin】諸族の間で、晋、新、清、と幾度も甦る事になります。 中国戦国時代、アッシリアの分国で周の諸侯となっていた強国は 魏(キンメリ)・韓(アラム)・趙(ウラルトゥ)・燕(エラム)・楚(メディア)・斉(エジプト)・中山 の七雄などでしたが、侵略者の秦のために征服され、王族たちは降伏して臣従を誓い あるいは亡命先を求めて遠隔の地へ逃亡していきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/04/18 02:04:59 PM
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