テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
![]() 星は すばる ひこぼし 明星 夕づつ よばい星 すこし をかし 尾だになからましかば、まいて。 枕草子 254段 オリオンのすぐそばに牡牛座があります。その東上方に見えるいくつかの星の群が【昴】です。 古代から世界の各地で仰がれてきました。 ばらばらのものが纏まる意味の【すばる(統ばる)】が語源。 【ひこぼし】は【牽牛】と表記され、七夕伝説に名高い【彦星】のことです。【夕づつ】は夕星。金星の古名【太白星】の字が当てられ、宵の明星のことです。 【よばひ星】は【婚(よば)い】を連想させるところから「すこしをかし」と述べたのでしょう。 流星を意味すると言われますが、「尾さえ引かなければもっといいのに」とある記述からは、 むしろ彗星の描写ではないかとする説もあります。 これらの星を残念ながら清少納言は、目で見た星の姿から選んだのではなく、 【倭名抄】という当時の辞典から得た知識のようです。 【昴】という音には、平安時代においても人の心を惹く魅力的な響きが あったのではないかと思います。 清少納言の出自は、舎人親王の子孫、清原の氏族だといいます。 舎人親王は、天武天皇の皇子、その一族の三十六歌仙の一人である清原元輔、 その娘が清少納言です。 清原家の一族は学問の家で、東国で紀清両党と呼ばれ、武芸の誉れを得ました。 この清原家と紀家が後世、東国で紀清両党として一体化しているのは大化改新、壬申の乱、日本書紀編集など、天武朝廷以来の長い軍事的、文化的、歴史的な協力関係に基づいています 天武天皇の実体は、新羅の文武王(金法敏)で、一度も来日したことのない名目上の皇帝でした。 【日本書紀】に、壬申の乱で天武軍を率いて戦ったとある草壁皇子は681年に立太子していますが 実は新羅文武王(金法敏)の皇子であって、689年に没する時まで、司政官として九州に駐在 して倭国を支配していました。 672年6月、新羅占領軍に対する秦王国の戦い、すなわち、近江の【壬申の乱】が起こりました。 この乱の首謀者は、大友皇子(弘文天皇)といわれていますが、実は東漢氏(やまとのあやし) レビ出身の秦王国最期の天子でした。この天子の指揮を受けた秦王国軍は、侵入してきた 新羅軍(源花・郭務ソウが率いる花郎軍団)と一ヶ月もの間、勇敢に戦いました。 この時、大王家に忠誠心が強かった蘇我氏の一族はこの王と運命を共にしましたが 秦氏およびシメオン族らの諸部族が、花郎たちの統率力を見て、この戦いの無意味さを 悟り、一斉に寝返って新羅軍に降伏したため、王家の軍は孤立して総崩れとなりました。 これより以降、秦王国の豪族たちは新羅側の軍政に協力していくようになりました。 そのため、機織部の秦氏のグループは敗北し、雪崩を打って秦王国の分国地・関東地方へ 逃亡しました。やがて彼らは、鹿島神宮や静神社の機織部領域付近、蘇我、行徳および 秦野付近などに散居して逼塞しました。ところが、従来の【国史】は、この経緯を時代をずらして 【入鹿殺害】事件とし、秦王に忠誠であった蘇我氏一族が滅んだように修史したようです。 さらに、この秦王国の滅亡を時期を遡らせて皇極天皇の御世の出来事とした【大化の改新】 は、新羅の歴史を写したものでした。 天武天皇とその子孫たちの王朝に於いて、紀大人臣の一族は優遇されていたといいます。 紀臣の一族は壬申の乱において大海人皇子側で戦った功臣でした。 戦勝後は伊賀国にいて、天武天皇二年に壬申の年の功により、あらためて寵賞を受けています。 天武三年二月の記事に【紀臣阿閉麻呂卒せぬ。天皇、大きに悲しびたまふ。 壬申の年の役に労りしを以て、大紫位を贈ふ】とあります。 伊賀に駐屯して乱後の処置にあたったのか、あるいは本拠地を示すものか、と推測しています。 この壬申の乱で始まった天武天皇と紀姓一族との軍事連合は、舎人親王から清党があらわれて、紀清両党の名で後世の戦乱の歴史に続いていたようです。彼らは、藤原一族が、天智天皇の皇統を擁して、政治の実権を握っていた期間、東国において、強力な対抗勢力であり、おそらく紀伊半島、熊野の同族と連携していました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/04/23 05:31:17 PM
[歴史] カテゴリの最新記事
|
|