テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
深夜に放映された【タイムスクープハンター】がおもしろい! 未来のタイムスクープ社から派遣された時空ジャーナリスト(要潤)が タイムワープした過去の時代に生きる人々を取材する番組です。 今までにない歴史番組で、非常にリアルなのがいい。 こういう歴史ものが観たかったとドキドキ ワクワクしました。 時代の主役級ではなく 普通の人々、ボサボサな小さな髷、よれよれの着物、 ぼそぼそ話すリアルな会話、彼らの緊迫感が伝わってきて、こちらも息を詰めてしまう。 戦国時代、忍者はリアルにどんな働きをしたのか? 戦場で救急救命士の役割を果たした人物は? 江戸時代、賭博の取り締まりはどう行われたのか? 加賀藩の献上氷を運ぶ困難さは? その時々の緊迫感ある状況が、小型高性能カメラを手にした沢嶋雄一(要潤)の スクープとして次々と紹介されていきます。 忍術の歴史は仏教とともに六世紀に伝来した兵書【孫子】に始まったとされます。 【孫子】は、約2500年前、古代中国の春秋・戦国時代の将軍・孫武が記したもの この中の第十三【用間篇】に忍者の兵法の源流が見受けられます。 これには【兵は危道なり、濫りに用う勿れ、智略は正道で王者の道である】 という教えがあり、これがもとで日本の忍術が発生したとされています。 また日本への仏教伝来と前後して陰陽道関係の暦本、天文地理書が輸入されるのと一緒に 『日本書紀』によれば602年に百済僧・観勒によって忍法書の古典とされる【遁甲方術書】が もたらされ、聖徳太子は【志能便(しのび)】を使って飛鳥の動向を探ったとも伝えられ 【志能便】は【便】即ち(情報の入手に能く志す者)の意味とされ、これが日本の文献で 最初に登場した「しのび=忍者」といわれています。 【孫子・用間篇】【遁甲方術書】等の兵法は、日本で独特の発達をし、平安時代の天台・真言密教の 秘法や山岳信仰の修験道の修行とも結びつき、オール・ラウンドにミックスされて間(かん)を用いる 術としての忍術が生まれ、特に修験道の開祖とされる奈良時代の役行者(えんのぎょうじゃ)を 忍術の源流とみる説話が多いようです。 スパイを【間者】【間諜】と言います。【間】とは、二つの物のあいだ、すきまのこと。または【うかがう】 という意味もあって、すきをねらう、スパイする、となります。二つの物のあいだをうかがう、表と裏の あいだ(秘密)を覗いて報告することです。 【孫子】の用間篇に【爵禄百金を愛(おし)みて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり】とあります。 爵位や俸禄や百金を与えるのを惜しんで、敵情を知ろうとしない者は不仁のいたりである、 というのです。孫子は情報活動の重要さを強調して、敵情を知ることの必要性、 【戦に勝つには敵を知り己を知らなければならない】と言っています。 敵情は祈りや占いで知るのでなく、かならず人間(間者)によって得るものであると。 君主たる者には大切なことであるとしています。 郷間・・・・その郷人に因りてこれを用うるなり。 敵国の領民を使って情報を集める。 長州藩が幕末からいまに至るまで強固な支配体制を維持している理由は、 日本の政治では非常に異質な【忍者・諜報】機関が背後にいたからといわれます。 長州をつくった毛利元就は、最初は小さな勢力でした。 ところが、いまの中国地方10力国を支配するような大名にのし上がったのです。 それはもっぱら諜報と謀略活動で大きくなったのです。 そのような性質を持った毛利藩が関ヶ原の戦で負けて小藩になります。 しかし諜報機関は維持されて、【忍者集団】になります。 そのトップが【上忍】で【中忍】【下忍】などのシステムができあがります。 上忍というのは、伊賀の場合は郷士(地侍)で、地主として小作人たちを支配しています。 下忍は、この小作人で、実際に各地の戦国大名に雇われて活動するのは彼ら下忍でした。 中忍は何人かの下忍を率いる小頭(こがしら)です。 甲賀では【甲賀郡中惣】という自治共同体が形成されていて、 【甲賀五十三家】(山中・伴・望月・鵜飼など)が対等で支配していました。 伊賀における上忍三家(服部・百地・藤林)のような特定の支配者がいませんでした。 そのため甲賀は上忍が存在せず、ともいわれます。 個人技に優れる伊賀衆に対し、甲賀衆は集団技に優れていたそうです。 【草】といわれる忍は敵国に潜入した後その土地に馴染んで暮らし、その土地の娘を娶りながらも いつか来るかも知れない指令を待っていました。そしてひとたび命が下ると普段馴染んで仲良くして いた人々を裏切り、命に従って味方を導くのが役目でした。 鈴虫売りやそのほか各種の行商人の 多くは忍であり、行商人という名目で各地を旅する権利を手に入れて様々な情報を集めて歩いて いたとも言われます。 幕府の忍をおそれ嫌がった薩摩が故意に方言を作り出し、この方言を真似ることが 難しかったことから【草】を潜入させてもすぐにばれてしまい、情報収集がなかなか 成功せず、それが功を奏して島津は幕府に知られずに莫大な資金を蓄えることが出来 それが明治維新に繋がったといいます。 しかし、薩摩は長州の比ではありませんでした。 グラバーの世話で長州の伊藤博文以下5人がロンドンに留学します。 薩摩も同じようにグラバーを通じて続々とヨーロッパに留学して、そこでフリーメーソンになって 帰って来た人物がたくさんいます。しかし、権力の中枢は長州藩にあって、薩摩のほうは 下位に過ぎませんでした。 しかも、長州の諜報機関、忍者集団出身の権力中枢の連中は、 薩摩を落とすために分裂させるわけです。大久保利通と西郷隆盛を分裂させて、西郷派を 一掃すると、薩摩の勢力は半分くらいなくなってしまいました。さらにその次は、大久保利通を 消してしまうのです。大久保を暗殺したのは島田一郎という加賀藩の人物でしたが、その動きは 長州側が察知していて、彼を泳がせて大久保を暗殺させました。 そういう諜報と謀略能力は、長州のほうが日本の他の藩とか勢力に比べて段違いに勝っていたの です。しかし、そういう諜報能力と謀略の力は英国のフリーメーソン、イルミナティのレペルと比べる と、はるかに劣っているので立ち行かなくなってしまいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/05/07 09:34:40 AM
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