テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
後漢書の高句麗伝に、涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部の五部族があったとあります。 本来は涓奴部から王を出したが、徐々に微弱となり、後に桂婁部がこれに代わったとあります。 扶余伝にも、【六畜の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、羊加、大使、大使者、 使者 などがいると書いてあります。どちらも、カースト的な部族連合です。 カッシートは、月氏の先祖ですが、後に扶余の羊加、高句麗始の涓奴部になって シャーマン部族、牧羊民族で羊、鶏をトーテムとする壇国・番韓の王、後の物部氏になります。 月氏の対婚族が牛加のウラルトゥで、ウガヤ王朝です。 カッシート人というのは、BC3000年期から西トルクメニア特産の宝石ラピスラズリを持って オリエントに行商していた人々です。シルクロードの西にいた彼らカッシートや アルメニア高原にいたウラルトゥの人々が、シルクロードを支配した後に 中国史に於ける趙になり、後、さらに月氏になりました。 その後、扶余になり、高句麗になって、そこから百済が分かれたのです。 扶余は二派あって、このウガヤ王朝系のほかに、インドから入った製鉄部族ニギハヤヒ系 があり、満州へ逃れて穢国をたてました。 高句麗は黒海北岸の草原地帯にいた遊牧民族であるスキタイや匈奴の製鉄部族の高令で チュルク族が中心でした。この辺が私たちのルーツに関係します。 ウガヤ王朝の戦士団は、オリエント史に初めて登場するシュメール人、 言い換えるとエラモ・ドラヴィダ語族がダゴン・バアルの神話、即ち桓因-桓雄神話を 持っていたらしい。ウンマ・ウルク・ウルというのはバビロンの第二王朝、海の国をたてた カルデア人で、エラモ・ドラヴィダ系の海人でした。そこにアーリア人が混同し、シルクロードを 支配してカッシート、ウラルトゥ、ペルシャ、バクトリアなどの戦士団ができました。 この人々が檀君朝鮮または辰韓になっていますが、その終わり頃、中国を支配しました。 【史記】では、これが趙になっています。扶余族は、唐の時代にバクトリア東部のクスターナに ホータンという国があって、月氏によって支配されていました。また馬韓にしても辰王は月支国 の人となっています。趙の王家もこの月氏系で、それがギリシア系バクトリア人の秦に伐たれて 満州に移って扶余になりました。
次に、ニギハヤヒ族というのは、オリエントのウルという海商国家が初めで、 インド十六王朝の時代にウルのカルデア人やマラ族などの古代の海人たちがガンジス流域で カーシ国という海商国家をたてました。それがマレー半島を経て河南省の宛に入ってきて 【宛の徐】氏といわれていました。宛というのは戦国時代の魏の製鉄基地ですが、この人々も 扶余、高句麗の涓奴部なのでニギハヤヒ族(サカ族)と月氏とは同族ということでしょう。 この人々は、戦国時代の魏(三国時代ではない)と同盟した製鉄部族ですが、魏が秦に伐たれた ため、満州に逃れて穢国をたてました。穢国の王姓は、アグリ【余】というのですが、扶余、百済 もそうです。したがって、天皇家もそういうことになります。 天皇家のルーツ、扶余→百済→邪馬壱国のいわば本家である中馬韓を建国した【卓】という 一族はフェニキア系でした。バビロニアのイシン王朝の末裔=箕子朝鮮が滅びた後、 その将の卓が穢国の領地を引き受けて馬韓を建てたのです。そして穢国は扶余に合体しました。 高句麗はチュルク人(トルコ族)で、当初は匈奴などのシルクロード諸族に所属していたのですが 後にバクトリアが衰えてからシルクロード全域で暴れだして、その中から高句麗が出てきたのです。 この高句麗に扶余の皇子が養子に行き、九州に侵入した後の神武天皇になります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/07/03 11:45:10 AM
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