テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
645年、中大兄皇子、実は百済31代・義慈の末子・豊は、蘇我入鹿を暗殺し 663年、倭軍を率いて百済支援に赴き、白村江で大敗をしました。 後、新羅29代・大宗・武烈の王弟・金多逐は、30代文武の執政官として天智親子を殺害し 672年、倭王となり、国号を【日本】と改めました。 今日、天武の治世として記録されているなかには、文武王と金多逐の業績が混じっているらしい。 【新羅本紀】文武王十四年(674年)の条に、春正月、百済の故地を占領し、人を送ってこれを 守らせ、九月、義安法師を大書省に任じたとあります。このことは、金多逐の任命と稗田阿礼の 下命を示すものと考えられます。 【古事記】上表文によると、この時の修史のために、「帝皇の日継と先代の旧辞をよみ習わせた」 とありますから、五七調の詠歌形式で書かれた【秀真伝ホツマツタエ】のような史書が読み習わ せたものの原型であったと思われます。 【古事記】は、日本という新国家の歴史を創造するに当たって、これを構成する 邪馬壱国・狗奴国・百済・駕洛・安羅などの各王統を部分的に直系につないだものと 推測されるのですが、ウガヤ王朝が疎外されているのは、修史の目的の一つに 辰国史(ウガヤ王朝の朝鮮半島時代)の抹消があったからで、長スネ彦の死というフィクション も、そのためです。 【古事記】中巻は、神武から応神までを記しているのですが、神武・綏靖・安寧・懿徳は 百済王仇首・優福・沙伴・比流のことで、実は邪馬壱国王のことです。 この時、狗奴国には孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化という王統がありました。 【古事記】の中・下巻で、天皇以外の系図として書かれているのは、 中巻に孝元天皇の子孫と、天ノ日矛の子孫を記す二つですが、 実際は両者は同系で、共に狗奴国の蘇我天皇系図なのです。 この天ノ日矛は孝安または安日彦のことで、以下、但馬モロスクが孝霊、但馬ヒネが孝元で、 駕洛初代・首露と新羅の金首留、但馬ヒナラキが開化とつづきます。 狗奴国の人々は、孝霊の時、辰国に入っていて、祟神代までは朝鮮半島の南部(金官加羅・駕洛) にいて、その後、畿内に進攻し、古墳時代となります。 祟神期に、祟神妃である狗奴国王女・開化の子、彦坐が、但馬の叛乱を平定して、その司政官 になったのが始まりで但馬を狗奴王家が支配していきます。 以下但馬を姓として記すのは、後世、彦坐が但馬王となってから遡って命名したもので 彦坐以前は但馬とは関係なく、朝鮮半島南部の辰国の故地にいたのです。 従って、この時のタジマはタバナ国を表わします。タバナ国とは、サカ殷(扶余)の昔氏がいた 楼蘭のことです。 【古事記】下巻は、仁徳天皇に始まります。 【三国遺事】によりますと、駕洛7代の吹希の王妃は進思の娘、仁徳となっていて これが仁徳天皇のことであり、駕洛王統譜で仁徳の父である進思は、百済19代・久爾辛で 同時に応神天皇でもあります。また夫の吹希は蘇我満智宿禰・木満致・宇治のわき郎子の ことで、蘇我石川宿禰の子に当たります。【古事記】では石川宿禰と葛城そつ彦は兄弟ですが 仁徳天皇は、そつ彦の娘、石の姫と結婚しているから、娘と息子と読み替えれば葛城そつ彦 と石川宿禰は同一人となります。これを兄弟とすれば、駕洛王家は5代が武内宿禰 6代が葛城そつ彦、7代が葛城石彦で、蘇我石川宿禰が6代王弟、蘇我満智宿禰が、その子 という系図になって不自然です。 さて、応神天皇(久爾辰)には、仁徳のほか大山守と宇治のわき郎子という二人の男子が あったとなっていますが、実際は宇治は仁徳の夫、駕洛7代・吹希で、蘇我満智と同一人です。 【古事記】下巻では仁徳と宇治が王位を譲り合い、海人部の者が貢物を献ずるのに、両者 の間を往来して困惑し、自分の獲物に泣いたとなっており、この海人部とは、アメニギ氏の 天の王朝の人々で、この説話は宇治王と王妃仁徳が、倭(辰)王の王座を譲り合った ことを示します。また実際には王妃の仁徳が倭王讃となった後、438年に死し、その後 王の宇治が倭王珍となりましたから、倭の五王という場合の倭王は、ウガヤ王の辰王の ことでもあります。 吹希と仁徳の子は三子あり、長子が履中で百済20代・比、次子が反正で倭王済、 三子が允恭で駕洛8代・金至知です。金至知の長子、木梨軽皇子は、駕洛9代・鉗知で蘇我高麗 三子の安康は倭王興、四子の雄略は倭王武で、雄略の子、清寧によって駕洛王家の終わり を示します。軽皇子の子は国史にありませんが、実際は駕洛10代・仇衡で、 その王弟・脱知爾叱今が蘇我稲目と同一人ですから、562年、新羅に敗れた後、日本に亡命 したことになります。 この蘇我氏の駕洛王家の滅亡は、百済が新羅と同盟したことによるらしい。 倭の五王の侵略性については【宋書】の上奏文に残っていますが、ここに夷人とは新羅・百済で あり、毛人とはアメニギ氏の一族のことで、北方縄文人のアイヌや南方縄文人のマラ族は 倭の五王に対して抵抗力はなかったのです。一方、百済王家は履中の比の後、 市辺が百済21代・蓋鹵なのですが、475年、高句麗・長寿王に殺され、仁賢の文周が曽祖父 にあたる蘇我満智(吹希)を頼って駕洛に亡命し、百済の王位を継ぎます。 【旧事紀】大成経は、市辺の即位を隠して、女帝飯豊と仁賢弟の顕示が即位したと記す 【上記】の手法に一致しますので、飯豊の年代は市辺の座位を示します。 この後に入る継体・安閑・宣化は安羅王・大伴金村以下で、蘇我系の一族です。 【古事記】では、宣化の次が欽明となりますが、欽明と継体が並行して座位していたことになります。 即ち、継体は蘇我王系の大伴金村と解し、この反乱王朝には駕洛の支持があったと考えられ 新羅は、525年に百済王・聖明(用明)と修交し、後531年に駕洛を滅ぼしています。 聖徳太子は無謀な対、高句麗戦で554年に父王・聖明を敗死させた威徳が日本に亡命した 後の姿でした。 以上の通り解明すると【古事記】下巻は、蘇我王家と百済王家が合体して駕洛と百済を建てた 時代を記したことが判ります。 したがって、【古事記】履中天皇の条にある【近つ飛鳥】とは駕洛、 【遠つ飛鳥】とは百済のことなのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/08/18 03:01:04 AM
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