テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
【秀真伝 ほつまつたえ】は、前後篇に分かれ、 前編は投馬国・大物主王朝の最後の王朝の最後の王・大物主櫛甕玉命が 高句麗新大王の長子である五瀬命と末子・神武に降服した時、投馬国の史書をまとめて 呈出したものであって、後に【旧事紀】や【古事記】の神代篇のモデルになります。 この内容は、BC1000年頃、大物主王家がアマテラスやニギハヤヒと同盟を結び ウラルトゥを盟主として建国し、タマガキノウチツ国といっていた後、国譲りによって 東方に移動して投馬(秀真)国をたて、一方その故地には、ニニギノ命系の朴氏が辰国を守り さきにバルハシにいた箕子朝鮮や月氏国をたてた月読命らと同盟し、後のBC1世紀に 高句麗建国とその南下を迎え、やがて高句麗が辰国を簒奪した後、投馬国は高句麗新大王の 末子・ケイ須に降服し、ケイ須を神武として、これに従属するまでの記録です。 大物主命がアマテラス系やニニギノ命系に、和歌の枕詞などをはじめ異質の習俗をを質問する ことが多く、これは、大物主命のユダヤ人が塩竈命の昔氏のサカ族・昔氏の扶余と通婚しながら 同化していった状況を記したのであって、このことが合成史という形に発展したようです。 次に後編は、大田田根子が書いた天皇紀で、神武から成務までを記します。 神武が邪馬壱国をたて、その子・懿徳が狗奴国の王女・開化を娶り、 その間にできた祟神が両国を合併して百済をたてると国威は盛んになりました。 が、その結果、神武の本国である高句麗と衝突することになり、高句麗の広開土王は 七枝刀に百済王の世子倭王旨と刻まれた辰斯王、即ち国史の景行天皇の派遣軍に 反撃し、海路九州に上陸して景行を殺害したため、この後百済連合の勢威は衰え 国家の再建が急務になりました。このため、百済側の両王家、即ち神武系邪馬壱国王家と 昔姓(蘇我氏)の狗奴国王家の二系を併合するという系図偽造が行われることになって 投馬国の大物主王家の末である大田田根子がこれに当り、二王家を一王家に繋いだ 系図の偽史(合成史)が作られたと考えられます。 後に畿内の毛人たち、即ち先行した弥生民族を倒した昔氏の蘇我王家は大物主家を含む 六家から【秀真伝】などの史書と粘土板を呈出させ、扶余から狗奴国・駕洛国史に至る史書を 作り、これを【旧事紀】と名付けるのですが、この史書は後に卜部家を中心とする藤原偽史集団 によって改竄されるのです。 この内容のほか、独自に発展したホツマ文字や、五七調のチュルク語(トルコ)順の文章に 散見されるオリエント語は驚くべきことであって、富士浅間神社や、 相模一ノ宮の寒河(サンガ)神社に伝わった【宮下文書】と一致する内容が多い。 また【旧事紀】を通じて【記紀】の構造に影響し、編纂した大物主家は、後に大(多)氏となって 史書の保管に当ったから【記紀】の虚構を説明する資料としても重要性をもつのです。 ![]() 【倭人興亡史】の『神統志』には神々の体系が共通した【夷】族が、四分類して記されています。 1.水神エンキを主神とするアキヒ族・・・青銅民族は アッカド人・・・イザナギ族 泱委(ワイ)・・・月氏・月夜見命系・・・チベットのコータンが根拠地 淮委(アイ)・・・カルデアのサカ族・・・蘇我氏系 ワ弭(ワニ)・・・フェニキア人・エビスの命系(九州東表国のアシムス氏) 潘耶(ハンヤ)・・・アモリ・アラム族(匈奴冒頓部)・刀漫系匈奴族(キンメリ人) このアキヒ族の人々がシルクロードに於ける辰国ウガヤ連合を構成する人々です。 ------------------------------------------------------------------- 2.日神スールヤを主神とするヤラヒ族・・・遊牧民族は ルウイ人、ヒッタイト、ギリシャ人。 ヒッタイト人は、カッシート、ヒッタイト、ミタンニ(インドのアーリア族、後の唐)三族になる。 3.月女神ニンギルスを主神とするニギヒ族・・・商業民族は ラガッシュ人、シオン、ユダの人々。 4.暴風神ダゴンを主神とするタキヒ族・・・農業民族は いにしえのテル・ハラフなどにいた高地農民・・・シュメール、エジプト、カナン、 バビロン(チュルク・・・高令(丁零)この人々が後に高句麗、百済になる)の農民。 アキヒ族とは、【旧約聖書】のセム族の主神で月神らしいのですが、この種族の筆頭として ジグラットに月神・ナンナを祭ったエラム族が阿キとされます。 BC7000年以降、オリエントで最古の集約農業が生まれ、同じところでBC4000年に青銅文化が 生まれますが、それぞれ長い年月に独立して発展した異系文化ものと考えられます。 金属文化のルーツは山岳部の自然銅の使用に始まります。BC4000年のエラム文化は 金属文化を持ちこんだエラム人支配者と農業を行った原エラム人とは異族だったはずで 前者が神祖族で、後者が異種のオロチ族であったことが分っています。 従って、エラム人に銅鉱を渡した人々こそアッカド人のようなセム系民族であったと考えられます。 王倹を祖霊とする諸族はアッカドなどのセム族に属する【アキ族】が日本民族の主族であって 秋津島の名もこれによります。 【倭人興亡史】第七章 秋津島の由来 渤海のウスボツ著【ヤマト記】に曰く。 「その国がいまだかつて衰えないのは、職として語り部があり、はるか上古を探り 先世を明らかにして、神理をつまびらかにし、よく伝承をただすことによる。 この国を秋洲と書き、アキシマと読むが思うにアキ(壇君王倹)を祖霊とするからである」 初め四種の山民があったが、後に九伯となった。思うにその音が同じである。 姜(ハム族系の呂氏・斉族)・濮(僕骨・チュルク)・高(高令・チュルク)犬戎の諸族がこれに属する。 族外婚はアキ妣族の人々の特徴で、サカ族の末である蘇我王家、後の山窩系に行われています。 エラム族は今日のドラヴィダで、縄文文化を伝え、後にカナンでサカ族・マラ族と混じって 山東半島では來夷と混じって弥生文化を伝えました。 【秀真伝】の説話は族外婚について、花嫁の属する部族を明らかにするために人形を持たせ それによって他部族の攻撃を避けたことを示します。 ジグラットの主神・月神の娘イナンナは、アキ妣族の筆頭のアキ(エラム)族から 同じアキ妣のアラム族に伝えられ、ユダヤ系大物主一族がこれを秋津姫の伝承として 書き残したのです。なお国史では、弥生文化をもって進入した秦代の徐福らの一族を毛人とし、 ニギ妣の人々とサカ族を合わせて倭人、タキ妣の人々をチュルク族(トルコ)を中心として韓人と するから、毛人・倭人・韓人の三族は、山東半島と朝鮮半島から侵入したのです。 アイヌ族などの北方人や南海島諸族は、この三族には含まれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/08/19 01:02:54 AM
[歴史] カテゴリの最新記事
|
|