テーマ:日本人のルーツ(528)
カテゴリ:歴史
前回のつづきで、【夷族】といわれる人々の中で 2.日神スールヤを主神とするヤラヒ族に分類される遊牧民族は 印欧語族系のアーリア族で、 ルウイ人、ヒッタイト、ギリシャ人。この内、ヒッタイト人がさらに三族に分かれたとして、 カッシート、ヒッタイト、ミタンニ(インドのアーリア族、後の唐)になります。 ギリシャはマケドニアなどの八族からなりますが、リディア、メディア、ペルシア、 スキティアなどを含みます。この一部がチュルク系高令と合して高句麗族となります。 3.月女神ニンギルスを主神とするニギヒ族・・・商業民族は アブラハムに名を与えたアラム族系で、和義・シオン・ユダの三族になります。 和義とは【史記】に蛇神であると書かれた女カ・伏犠のことです。 伏犠を西域からバビロンに入ったフツリ族、女カをウルク期以降のセム系シュルパック人と すると、ユダヤ民族はウルク初期にバビロンを支配した運送・商業民族ということになります。 従って、この人々が蛇身とされるのは、アダムに智恵を教えた多産の蛇が商業民族の トーテムとなったからといわれます。なお、ヒッタイトには、怪蛇退治の神話があって、 これがヤマタノオロチの説話に転化します。これは、ヒッタイトが蛇をトーテムとするフツリ族を 支配したことを表わす説話です。 さて、和義族は、バビロンを支配したシュメール王に当るウルク・J/N(ジェムデト・ナスル時代)期後 のエン神政王朝に従っていましたが、【旧約聖書】は、この人々がアブラハムに率いられて カナンに移住したと記します。この時、さらに一部のものは、セム系イシン(殷)族が エジプトに侵入して建てたヒクソス王朝に従い、カナンに残った人々は後にシメオン族となります。 やがて、ヒクソスが亡びると、エジプト独立軍に囚われた和義の人々は奴隷にされ 後、モーゼに従って脱出し、一部の人々はカナンに逃れてユダ族となり、 ほかの人々はバビロンに戻ってヒクソス族の後期イシン王朝に従います。 中国史の【殷】とは、この後期イシン末期のアラム王家の時代に、イシンが中国大陸においた 交易センターで、いわば租界(中国の開港都市において、外国人がその居留地区の警察・行政権 を掌握した組織および地域)となります。 4.暴風神ダゴンを主神とするタキヒ族・・・農業民族は いにしえのテル・ハラフなどにいた高地農民・・・シュメール、エジプト、カナン、 バビロン(チュルク・・・高令(丁零)この人々が後に高句麗、百済になる)の農民。 このタキヒの諸族について【倭人興亡史】は【初めに四嶽あり、のち九伯となった】とし、 この人々の言語に共通性があったとしています。 またその三族として姜族炎帝のあと、アラム族が農民化したカナン人、 カルケミシュのチュルク人、エジプト人をあげています。 チュルク人について【新唐書】に【ウイグルの祖先は匈奴である・・・北魏の時代(386~534年) の時代には高車部と称し、あるいは敕勒ともいい、さらになまって鉄勒と呼ばれた】とあります。 冒頓系匈奴は高令ともいいチュルク族です。この人々は前漢に敗れたあとゴビ砂漠に逃れ その末裔が箕氏朝鮮滅亡後、辰国に招かれて箕氏国の故地に高句麗を建てます。 この高句麗は、チュルク族の高令とギリシア系のトカラ語諸族の混血になります。 先に書いたように高令は西河北部のチュルク語系農民のことで、テル・ハラフに始まりました。 これらの人々は昔パレスチナのエリコにいたナトゥフの人々であったかもしれません。 トロスという大きな円形の構造物を祭儀に使用していて、【動物と女性の多数の粘土像】は 母神の祭儀が行われていたことを示します。 匈奴には二系あって、刀漫系の単于はアラム系の王です。 なので、【新唐書】が高車・敕勒の祖を匈奴とするのは冒頓系の匈奴のことです。 【魏書】高車伝を引用します。 「高車全体を支配する大師はおらず、それぞれの種族に君長がいる。 性質は粗猛で、同じ仲間が心を一つにし、もし外敵の侵略にあうと、 集まって一致合同し助け合う。戦闘の際には整然たる隊列を布かず、 各人が別々に敵と衝突して、突進するかと思えばたちまち退却し そのため堅固な戦いを展開できない。(日本の源平時代と同じ) 高車の風俗では膝を立てて腰をおろし。(韓国時代劇ではこのように座っている) 目上の者に馴れ馴れしく振舞ってけがすのを忌み嫌わない。風俗は清潔でない。以下省略】 高令は殷代の伯夷であり、実はイシンである孤竹を中心に農耕した殷の外戚チュルクです。 【前漢地理志】に高夷・孤竹・令支の三族があげられていますが、これが後に高車・丁零と 書かれ、この人々が高令です。この高令は、ハム族(伯)の一種であって、韓族ともいわれ 高麗・コーリアの語源です。 一方、扶余は倭人で、辰国・東表の人々は毛人(エブス人・エビス・エミシ)なのです。 従って、BC1000年以降の西域は、カナンのアラム人とチュルク人が韓人でカルデア人が倭人、 アメニギ氏の支配するフェニキア・マラ両族が毛人で互いに混じっていたのです。 そして、この倭族が狗奴国・駕洛と新羅昔姓の人々で、韓族は高句麗から邪馬壱国と百済をたて 百済滅亡の後、天智王朝を建てたのです。 匈奴には二部族あり、チュルク族のシウ伊逗部とキンメリ族のシウ刀漫部とあります。 匈奴は冒頓以降はシウ伊逗部氏から単于が選ばれ、アラム人系の人々はこれに服属しました。 単于のもとに左・右骨都候という大臣がありましたが、骨都は【ミコト】のことです。 シウ伊逗部氏の人々が後にフン族になって西に侵略します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009/08/19 05:34:35 PM
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