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2009/09/02
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カテゴリ:歴史

現生人類のルーツは9万年前頃に紅海を渡り、海岸線沿いに移動し、

8~7万年前頃にはスンダランドから東アジアに到達します。 彼らがモンゴロイドを形成します。

モンゴロイドは、北方に移動する人々と、スンダランドに留まる人々に分かれ、

それぞれの気候・風土に合わせて適応します。

スンダランドは、現在のビルマの一部、タイ、カンボ ジア、マレーシア、ベトナム、及び、

スマトラ島、カリマ ンタン島、ジャワ島、パラワン島にまたがり、全域が地続きの巨大陸塊を形成

しており、全域が熱帯、亜熱帯に属し、当時地球上で最も動植物の種類と数に恵まれていました。

更新世の人類はあらかたが狩猟採集生活を営んでいましたので、原ポリネシア族やネグリト族・

ドラヴィダ族・メラネシア族、さらにはアボリジニーやモンゴロイド系諸部族、

寒冷化が最も進行した氷河期の末期には、セム族・インドヨーロッパ系部族までが

この地で生活していました。民族間の接触も盛んで、BC3万年期からBC2万年期までは

世界で最も先進的な地域でした。スンダランドは鉱物資源にも恵まれていて、金、銀 、銅の

露出している鉱脈がいたるところにありました。 山火事等による自然融解した金、銀、銅を

発見することによって、ある種族はこれらの金属の道具としての使用を思い立ちました。

当初は祭具や族長のアクセサリーに使用されていましたが、供給が多くなるにつれて、

鏃や釣り針など生活道具に使用され、後にはナイフや鏡等も作られるようになりました。 

鉱石を溶かして玉状にした銅をまだ柔らかい内に平たく延ばして、

後は砂や木の実などで研磨し銅鏡 が作られました。

この銅鏡製造の技法は物々交換などでスンダランド の多くの部族に広まりました。

琉球諸島に渡ったネグリト族もこの技法を持っていました。

彼らは銅鏡を太陽の化身と考え、御神体として祭っていました。

しかし、気象変動の度ごと、ユーラシア大陸に住んでいた様々な民族が スンダランドに

大規模な流入がある度ごとに、体力の劣るネグリト族は他民族の圧力に屈する形で流出してい

きました。元々彼らはカヌーによる漁労を生業としてい たので、外圧がなくても魚群を求めて移住

する習慣がありました。彼らネグリト系の太陽祭祀族はBC2万年前後の最後の大移動で

東シナ海沿岸にやって来ました。 東シナ大陸の銅はスンダランドとの交易でもたらされました。

ビーだま.gif 

北方のシベリア大陸を起源とするモンゴロイドアスカ人の一部がBC20000年期、

気候の寒冷化に伴い、南下する巨大獣を追って移動し、中国大陸に到達しました。

彼らの特徴は顔の彫りが深く毛深い。血液型はO型が多くずんぐりした体型をしていました 。

中国大陸部に進入した当初、アスカ人は尖頭器文化に代表される後期旧石器時代の文化を

有していましたが、BC19000年期になると、細石器文化に至り、中石器時代を迎えました。

この頃になると、西方の民族との接触により遊牧の技術を獲得し、食生活も安定してきました。

当時、極地に存在した巨大な氷層のために海面は現在よりも120メートルほど低く、

東シナ海・黄海の大陸棚は半分以上が陸塊でした。(東シナ海大陸)

原始的な狩猟採集と遊牧生活を送っていたアスカ人が急速に文明化した最大の要因は、

稲を発見し その栽培法を確立したことによりました。現在水没している東シナ海大陸棚には、

当時至るところに湿原があり、そこにはジャポニカ種の稲が自生していました。

稲の発見はアスカ人に人口の急増と、村落の形成をもたらしました。

人口が多くなると、水利をめぐる同族間の争い、北方異民族や山岳部族の侵入、当時多数生息

していた虎や狼などの猛獣による被害などのために、彼らが文明を築く ゆとりは生じませんでした。

ビーだま.gif

そういう事情で定住をあきらめたその内の東方の沿岸部にいた部族は

BC18000年期になると、、対岸の琉球諸島に移住しました。 

その部族をムイ族といいました。 

奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島の四島は現在よりも3倍から10倍の面積を持つ大島でした。

さらに沖縄本島、宮古島間にも大島が存在しました。

当時の沖縄地方の総面積は現在の6倍弱の18000平方キロメートルもありました。

琉球諸島に移住したムイ族は、BC16000年期、 その地で文字を発明し、アスカ文明に先行する

世界最古の文明【ムイ文明】を確立しました。

ムイ族が世界最先端の文明を持つことが可能だったのは、琉球諸島が地理的条件に恵まれていた

おかげです。琉球諸島は、海洋性の気候のため年間を通じて気候も温暖で、

台風の襲来に悩まされることもありましたが、そのおかげで水不足に陥ることが少なかったのです。

ビーだま.gif

ムイ族が沖縄に渡ったのとほぼ同時期に朝鮮半島経由で日本列島に渡った部族もありました。

その部族 をスイジン族といいました。この当時朝鮮半島南端部と東シナ海大陸とは地続きでした。

朝鮮半島と日本列島の間には現在よりも数倍も大きい対馬があり、西水道と東水道が存在

しましたが、西水道は十数キロ、東水道にいたっては僅か数キロしかない狭い海峡でした。

壱岐は本州の一部でした。 当時の日本列島は、北部や中部の山間部は寒冷な気候でしたが、

南部の沿岸地方は比較的温暖な気候でした。

当時の日本周辺の地形は、樺太が沿海州と地続きで、樺太から北海道・国後島までが大陸の

一部であり、冬季には氷結した津軽海峡を隔てて本州、佐渡島、四国、九州、屋久島、種子島まで

がサーベル状の巨島として存在していました。その島はスイジン島と呼ばれました。

スイジン島に渡ったスイジン族は稲作の最適地を求めて南下北上を続けました。

スイジン族が侵入する以前のスイジン島の南方沿岸部にはメラネシア系の海洋民族や

ネグリト族が定住していました。

彼らは漁労とタロイモ、ヤムイモ栽培等の原始的な 農耕を行っていました。

スイジン族の侵入が開始される と、先住民族は山間部に追いやられていきました。

文化的にも軍事的にもスイジン族の方が優勢でした。

当時のスイジン島は現在の屋久島沖が最南端でしたが、そこから更に二十キロ離れた

トカラ列島に渡る部族も現れました。トカラ列島の南端から奄美諸島までは四十キロありましたが、

中間地点に停泊可能な岩礁がありました。

奄美諸島から琉球諸島までは連綿と島が続いていました。

琉球諸島は先住のネグリト系種族がわずかに原始的な漁労採集を営んでいただけで、

ハブ以外に猛獣の類もおらず、そこに移住したムイ族は稲作が普及すると、生活に余裕を生じ

現在水没している宮古島北東沖にあった陸塊 は、全島が平坦で、大いに栄えました。

その島はニライ島と呼ばれていました。面積は3000平 方キロメートルほどでした。

この島を中心にBC16000年期には農耕を基盤 とする古代ムイ文明が形成されたのです。

ムイ文明は東シナ海大陸やスイジン島にも伝播し【アスカ文明】に発展しました。

後発で東シナ海大陸に侵入して来たアスカ人は社会形態はネグリト族よりも進んでいました。

ネグリト族の社会は漁労採集を中心とする母系の家族社会でしたが、

アスカ人は既に農耕技術を持ち、職種の分化、階級制度も存在しました。

アスカ人は既に黄海沿岸部でネグリト族と接触しており、彼らを原始的な裸族と見下していました。

ところが、東シナ海大陸では同じネグリト族でありながら、アスカ人が見たことのない未知の金属を

持っていました。彼らの銅鏡を見たときの驚きは想像を絶するものでした。

太陽光を反射する銅鏡はネグリト族にとって太陽の化身として神聖な宝物でしたが、

それを見たアスカ人も同様に認識しました。それまでアスカ人は部族ごとに特定動物の精霊を

信仰するトーテム信仰が主流でしたが、この銅鏡を知ってからは太陽信仰に改め

ネグリト族を祭祀族として受け入れ、自然に融合していきました。






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最終更新日  2009/09/03 04:58:25 AM
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