セレンディピティ

2011/01/04(火)19:14

太古地母神

最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。 さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したと思われます。特筆すべきは、アナトリアの女系社会です。壁画、漆喰浮き彫り、石の彫刻、粘土製のおびただしい【女神】小象、すべて女性崇拝の品々が発掘されています。この現象は、恐らくエリコからすでにあり、6000年頃にはアナトリアから農業の伝播とともにメソポタミア、コーカサス南方、カスピ海南方、それまでは辺境であった地域にまた一方では南ヨーロッパへと拡大し始めます。この地母神は、クレタ島やキプロスにも海路によりつながっていったのです。【大いなる女神】が、ときに鳥の姿になったり蛇の【女神】になったりしながら、水の生命授与力を支配し、ヨーロッパとアナトリアでは雨を孕み、乳を与える、そういう文様が刻まれています。アナトリアのチャタルフユィックの遺跡からは、母系で妻方居住の社会構造が現れました。その構造は、チャタルフユィックからクレタに移住し、太古地母神《女神》と共に農業技術をもたらし、つづく四千年の間に、土器製作、織物、治金、彫版、建築、その他の技能およびクレタ独特の生々とした喜びに満ちた芸術様式の進歩がありました。そこでは富は、公平に共有されました。年上の女性ないし氏族の長が大地の実りの生産と配分をつかさどり、実りは集団の全員に属するものとみられていました。主要な生産手段の共有と、社会的権力は、すべての人の利益になるよう図られ、責任のもとに基本的に共同的な社会組織が生まれていました。これは、パレスチナの世界最古の町エリコナトゥフの人々が成功していた共同社会につながると思われます。太古地母神《女神》を中心に女も男も異なった人種の人々も・・・共通の幸福のために平等に協力して働いていました。母系による相続と家系、至高の神としての女性、現世的権力をもった女司祭と女王の存在はありましたが男性の地位が低いということはなく、両性は平等な協調関係を築いていました。彼らは、たいへん自然に親しんでいて、アニミズム(精霊崇拝)はクレタだけでなく、ケルト民族にも伝わりました。太古地母神《女神》を中心にした文化はアナトリアを中核として地球一周しました。ストーンサークルやドルメン、メンヒルなど、これらの祭祀が彼らの残した足跡です。しかし、その女神崇拝文化も侵略され滅亡される時がやってきました。 最初、それは家畜の群の草を求めて彷徨う一見取るに足りない遊牧民の集団にすぎませんでした。数千年以上も、どうやら彼らは地球の端の誰も望まぬような厳しく寒く痩せたシベリアに住んでいました。その遊牧の集団が長い期間をかけて数と獰猛さを増しヨーロッパ北東からヨーロッパ大陸に群がり南下し侵略してきたのです。彼らは最初のインド・ヨーロッパ語族あるいはアーリア人といわれるクルガン人です。あるクルガンの野営地では、女性住民のおおかたはクルガン人でなく、新石器時代の太古地母神《女神》崇拝の人々であったことが発掘資料から判明しています。このことが暗示しているのは、クルガン人が、その土地の男性や子供たちの大部分を虐殺し、女性たちのある者だけを助けて妻や奴隷にしたということです。遺跡から農機具のみで武器というものが見あたらない【平和】で【民主主義】な社会が営まれた《女神》崇拝社会が破壊され、男性的支配社会のはじまりでした。インド・ヨーロッパ語族は、先の文明を築いていた太古地母神《女神》を崇拝する農耕民族を次々侵略していったのです。インドに於けるアーリア人、【肥沃な三日月地帯】に於けるヒッタイト人とミタンニ人アナトリアに於けるルヴィ人、東ヨーロッパに於けるクルガン人、ギリシアに於けるアカイア人および後のドーリア人、彼らは征服した土地や先住民の上に次第に自分達のイデオロギーと生き方を押し付けていったのです。このほかにも侵略者はいました。ヘブライ人と呼んでいるセム系の人々です。

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