テーマ:日本人のルーツ(528)
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始皇帝の秦帝国は盛時、華南からベトナムまでの地を支配していましたが 漢の武帝の時、追放され、中越と南越の秦人は日本列島に亡命しました。 この秦人たちの王であるガド族の猿田彦と大物主家のイッサカル族とは兄弟関係にあり 猿田彦は陸路、大物主家は海路によるユダヤ系の東方亡命者でありました。 【天孫降臨】は秦始皇帝の【焚書坑儒】から始まりました。 BC221年、大秦国(バクトリア)王ディオドトス1世は中国名・秦王政を名乗り 精強なペルシャ軍団を率いて中国大陸に侵攻し、中国全土の統一に成功すると 今度は自ら【始皇帝】を名乗って秦帝国を建国しました。 その頃(中国戦国時代)、西周(アッシリア帝国)の分国・周の諸侯となっていた強国は 魏、韓、趙、燕、楚、斉、中山の七雄などでしたが、侵略者=秦のために征服され 王族たちは降服して臣従を誓い、あるいは亡命先を求めて遠隔の地へ逃亡していきました。 秦始皇帝のディオドトスはシメオン族でしたから自分のユダヤ人の血を隠すために歴史を 改竄し出自を隠す目的で史書・経典などすべて焼き、真実を知る儒家のガド族、孔子・孟子 など460余名を生き埋めにしました。それ以来、始皇帝のシメオン族と製鉄基地宛の支配者 であった儒家グループのガド族とは敵対関係に入り、その結果、ガド族はイスラエル南朝 系(ソロモン王の子孫・ユダ系)に接近して、シメオン族らの北朝系グループと対立し争うよう になったのです。BC210年に始皇帝が亡くなると、バクトリアの将軍エウチデムス(中国名・項羽) は秦の2世皇帝を追撃して殺害し、3世皇帝も廃し秦帝国を滅ぼし、自ら大秦国王となり、 中国も植民地化しようとしましたが治め難さを知り放棄してバクトリアに引き揚げると のちインドに転進しました。主のいなくなった中国を横領した劉邦が【漢】という王国を建てて、 ほんとうは、ここから中国の歴史が始まるのです。史上はじめて【漢民族】が誕生したのです。 それまではオリエントから移動してきた勇者の歴史でした。 そうすると【中国2000年余り】ということになります。今日、中華民族としている漢民族は、 BC4~3世紀に、苗族+チュルク族(トルコ人)+ユダヤ人(イスラエル人)などの混血に よって生まれた華北型の多様な人種の混血人です。
孔子・孟子の子孫、ガド族は、 イスラエル北朝系からユダヤ南朝系に転身して 燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合してBC90年頃から移動再開。 BC86年、ガド族猿田彦の下にイッサカル族、ゼブルン族が結集し、一行は朝鮮半島を南下 して対馬に至り【高天原】と称し、天照神社を祀り、対馬高天原から船出して 糸島半島へ移動して吉武高木に【旧伊勢国】を建てます。 初代猿田彦命が肺結核で病死するとイッサカル族出身の王妃が女王となって王権を継ぎ、 かなり長く君臨しました。二代目猿田彦(ガド族)は平原に王宮を移し、【記紀】に出てくる "前の君"と呼ばれました。猿田彦二世はイスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を 祀る日代宮)を平原王墓(遺跡)に築き、八咫鏡ほか神鏡・鉄剣・勾玉などの【三種神器】を奉納 しました。彼は、この最新式な青銅器文化を持って九州一円に進出し、 先住のシュメール人・苗族・港川人らを支配下に置いてきました。 このような鉄鐸・銅鐸文化の祭祀儀式は九州の倭王たちの間にも広がり、その王権を誇示する 神事として長く継承されていったようです。さらに、猿田彦命の兄弟は鉄鐸・銅鐸文化をもって 東遷し、三重県の志摩半島に伊雑宮を建てています。 出雲地方に栄えていた苗族(弥生農民)と鉄製農具を作っていたオロチョン族をともに征服して 新しい支配者になったのが渡来したユダヤ系ガド族とイッサカル族の連合移民団リーダー 彼らを牛頭天王=スサノオノ命といいました。 BC74年、辰韓(秦韓)にいた 秦の亡命者シメオン族らは、【天の王朝】のエビス王から 背振山脈南部(佐賀平野)を割譲されると鳥栖と吉野ヶ里の地に委奴国を建てました。 委奴国の王はシメオン族々長の大国主命であり、大国主命の弟のグループは日本海側の 敦賀(福井県)に上陸して奈良盆地に入りました。こうして、大和(奈良盆地)にユダヤ人 亡命者のコロニーがつくられました。さらに、この時、ユダヤ人亡命者集団の先遺隊は 近畿地方だけではなく関東地方にまで進出して、利根川河口付近にコロニーをつくったのです。 BC50年頃、ユダヤ人亡命者集団ガド族300人が対馬高天原から船出して 利根川下流域の霞ヶ浦=衣河流海(茨城県)に渡来しました。 彼らは鹿島灘にある明石海岸の大鳥居近くに上陸して椿神社(祭神は猿田彦命)を建て 猿田(さんだ・猿田彦命の兄弟に因んで付けられた名前)などにコロニーを作りました。 そしてこの地を聖地として【常陸の高天原】と称するようになりました。 BC30年頃、続いてゼブルン族400人が薩摩半島(加古島)から渡来し、 鹿島灘周辺に上陸しました。 紀元1世紀になると、委奴国の人々もユダヤ人の文化である銅鐸文化と前方後円墳文化の 拡散に尽力しながら、近畿地方へと到達しました。こうして、【国史】に名が出てくる、 宇治氏・羽田氏・和珥氏・土師氏らが、シメオン族(秦氏)のクニ、 秦王国(【記紀】にいう大和朝廷)を大和に建てたのです。 そして、これより以前、筑波山麓(茨城県鹿嶋)に秦人たちのコロニーがつくられていたのです。 (高句麗国の建国)インド十六王朝時代の釈迦族の後裔、製鉄部族、宛の徐氏が北扶余後期王朝の穢王となって その前期王朝の扶余族・ウガヤ王朝と争い、結果BC37年に始祖王朱蒙(東明聖王)によって 卒本に高句麗が建国されました。 (穢王一族、熊本に【多婆羅国】を建てる) 紀元一年、その高句麗にいた北扶余の穢王一族が、穢族の一部を率いて亡命し 日本海沿いに南下して対馬経由で北九州博多に上陸しました。 彼らは既存勢力の旧伊勢国や大国主命の倭奴国に遠慮して一旦、阿蘇山系にコロニー を作りましたが、族長の陝父らはさらに下って熊本に多婆羅国を建てました。 この多婆羅国は、この後、朝鮮半島南部に逆上陸して分国の多羅国を建てますが その建国を担ったのは扶余族のウラルトゥ人(ウガヤ王朝系の人々)で、この多羅国が 成長して百済国となり後に百済国初代王神武の系譜が現在の天皇につながっていきます。 【倭の大乱】 147年、後漢に圧された高句麗(北倭人)が倭奴国(ユダヤ人)および東表国(南倭人) を攻撃しました。当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの 文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、倭奴国は、その同盟国でした。 その時、東表国エビス王は海部知男命でしたが、これより高句麗と敵対関係になり 東アジアの覇権を競う東夷諸族の争い=【倭の大乱】が始りました。 163年、東表国エビス王海部知男命は、シメオン族倭奴国大国主命と連合して 高句麗と同盟していたガド族猿田彦らの旧伊勢国を攻撃し、その首都吉武高木・平原遺跡 および太陽神殿を破壊して古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕しました。 この時、秦始皇帝の末裔・大国主命が率いるシメオン族の兵士ら30名の攻撃部隊は あらかじめ用意した20丁の鉄斧ですべての神鏡を徹底的に割ってしまいました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011/09/15 09:54:18 AM
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