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2013/06/18
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カテゴリ:歴史
今年は出雲大社・伊勢神宮の史上初、ダブル式年遷宮。 
皇室の氏神である伊勢神宮には謎が多いです。
伊勢神宮は元から今の場所にあったわけではなく「太陽神」である
「天照大神」は東から西に天を巡る性質があるので太古の「天照大神」は
日本各地を巡っていたそうです。
それが三重県 伊勢市を最後に動かなくなってしまいました。
20年に一度の遷宮は「巡る宮」の名残り、社殿だけ移して「巡った」ことに
してしまおうという策だったのでしょうか。  
地球から見た場合、太陽は常に移動をしています。
公転によっても自転によっても太陽と地球の関係は変わります。
この「太陽は常に動く」ということが太古の学問としてあり、
それに合わせるようなかたちで宮は移動をしていたと思われます。
そして「旧事本紀」に「天照大神」を祀ったのは伊雑宮が最初であり、
皇大神宮の内宮・外宮よりも社格を上にするとハッキリ記述されていたので
1681年、皇大神宮の神官は激昂し、
「旧事本紀」は発禁、伊雑宮の神官は流罪されました。 
これはガド族+神武 VS シメオン族+エブス加羅国の古代史と重なります。  
青シンプル.JPG
すべては秦始皇帝による焚書坑儒・儒者弾圧に始まります。 
BC213年、秦始皇帝に焚書坑儒された孔子・孟子の子孫、ガド族は、
燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合して移動開始します。
対馬
BC86年朝鮮半島を南下して対馬に至り天照神社を祀り、対馬から船出して
糸島半島へ移動して吉武高木に【旧伊勢国】を建て、金属製造所をつくり
鉄鐸・銅鐸文化圏を創始します。猿田彦2世は日代宮を平原王墓(遺跡)に築き
八咫鏡ほか神鏡・鉄剣・勾玉などの【三種神器】を奉納しました。
BC74年、辰韓(秦韓)にいた秦の 始皇帝の子孫、シメオン族らは、
鳥栖と吉野ヶ里の地に委奴国を建てました。 
委奴国の王はシメオン族々長の大国主命であり、
弟のグループは日本海側の敦賀に上陸して奈良盆地に入り、
大和(奈良盆地)にユダヤ人亡命者のコロニーがつくられました。
さらに、この時、ユダヤ人亡命者集団の先遺隊は関東地方にまで進出して、
利根川河口付近にコロニーをつくったのです。 
147年、後漢に圧された高句麗が委奴国および東表国を攻撃しました。
当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの文化圏と
する海人族の千年続く【天の王朝】で、委奴国は同盟国でした。
これより、東表国は、 高句麗と敵対関係になり東アジアの覇権を競う【倭の大乱】
が始まりました。  
163年、東表国エビス王海部知男命は、シメオン族倭奴国大国主命と連合して
高句麗と同盟していたガド族猿田彦らの旧伊勢国を攻撃し、
吉武高木・平原遺跡および太陽神殿を破壊して古墳内の超大型青銅鏡を
悉く破砕しました。 
大国主命に神聖な神殿を壊され、旧伊勢国(筑紫国)を奪われた猿田彦5世らは
二手に分かれて亡命移動しましたが、その一隊は、日本海沿いに北上して
山陰地方の島根県に至り、同族ガド族の先遺隊であった牛頭天王(スサノオノ命)
のガド族とイッサカル族の連合移民団リーダー【出雲王朝】へ参入しました。
次に、別働隊の遺民は瀬戸内海を東遷する途中、海沿いの各地には、
旧伊勢国遺民の一部ずつ割いてコロニーを作り、香川県の森広遺跡・
奈良県三輪山の日代宮遺跡・大阪府の利倉遺跡と池上遺跡に鉄鐸・銅鐸遺跡を残し、
周防灘の徳山湾(遠石八幡宮の地)にコロニーを作り、楊井水道の大畠瀬戸に至り、
旧伊勢の日代宮(御神体は八咫鏡)を遷社して柳井市に【天照神社】を建てました。
瀬戸の浜辺に【磯の神】を祀る石上神社を建て、
その元宮として旧い周芳神社(柳井市日積の諏訪神社)が再建されましたが、この
天照大神(内宮)の神霊は、のちに志摩半島の伊雑宮(伊佐和宮)に遷社されています。
中国・四国・近畿にやって来て各地に彼らのコロニーを作り、さらに紀州・熊野に移動
して伊国を建て、志摩半島に移動して新伊勢国(伊雑宮・伊勢神宮の元宮)を建てました。
奈良大和にも約1300人が移動して鮭文化圏を整え、
東テイ国(纏向遺跡が中心)を建てています。
ガド族と連合していたイッサカル族は、三輪山を中心に定着しました。
筑紫の三輪(福岡県朝倉郡三輪町)から移ってきた三輪氏などであり、
彼らが祭祀を担いました。なお、纏向の太田地区などには大田氏系の先祖も
居住しました。連合していたゼブルン族は、葛城などに定着しました(葛城氏など)
5代目猿田彦の弟の系列が建国した東テイ国(奈良)と地方との交通・交易の状況は、
東テイ国(当時の奈良盆地・鮭文化の国)の出土品によって
東海・北陸・山陰・河内・吉備・関東・近江・瀬戸内海・播磨・紀伊と交易がされていた
ことが解っています。東テイ国は鉄鐸・銅鐸文化で、水と火の祭りが三輪山を中心に
行われていました。三輪山は、縄文・弥生時代から旧い御神体で、本殿がありません。
縄文港川人や弥生苗族人の蛇信仰に彩られた【鉄と水稲】文化を育む聖山です。
 しかし、これらガド族の神殿は、のちに神武勢力に敗れ、亡命・東遷した時シメオン族
によって、徹底的に破壊されました。210年、扶余王ケイ須(神武)が南下を始め、
九州博多に上陸して橋頭堡を築きました。橋頭堡を守るためと、
約50年前(163年)に旧伊勢国を追われたガド族猿田彦らの仇を討つため、
大国主命(シメオン族)たちの委奴国を攻めました。
神武らに敗れたシメオン族の土師氏らは博多湾志賀島から乗船して出雲へ逃れ、
先住していた猿田彦らのガド族及びイッサカル族を駆逐して新しい出雲王朝を建てました。
土師氏らは新しい四本柱の大社を建て、その祭神を大国主命とし、
併せて八百万の神々(ユダヤ12部族の神々+倭王たちの氏神)を祀りました。
青シンプル.JPG

熊野山中には100キロメートルにも及ぶ石垣が存在しますが、

これはガド族がシメオン族との戦いに備えて築いたものです。

やがて秦王国の人々と東表国の人々は相協力して古周芳国および

古周芳の石上神社(楊井水道)の領域を占領し、

秦王国の分国【周芳国】を作りました。

この時、周芳神社(柳井市日積・諏訪神社)の【たたえ祭り】 神事が

猿田彦の亡命と共に、縄文人たちの故郷・信濃の諏訪神社へと伝承され

それが今日まで伝わる長野県諏訪神社の【たたえ祭り】になります。

伊勢神宮は日本中央構造線の真上に建てられています。

このゼロ地盤は地下から磁場、磁気が出ています。

人間の身体が70%鉄分ということから、パワースポットに行くと磁化され 

パワーを頂けるようです。






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最終更新日  2013/06/20 09:27:15 AM
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