1704806 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

セレンディピティ

セレンディピティ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X
2016/10/27
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

北朝イスラエルの人々はBC7世紀にはペルシャに移住し逃れ、弓月王国などを形成し

商人、工人などして陸のシルクロードに進出し、そこでの交易を支配し、殖民、建国を

繰り返していきました。

BC328年、アレキサンダー軍は、ソグディアナの首都マラカンドを占領し、さらにシル・ダリヤの

岸に達し町を築きましたが、スピタメンは、マラカンドを奪回し、さらにアレキサンダーの救援軍

を全滅させました。このためアレキサンダーは、自ら軍を率いてマラカンドに向かい、スピタメンは

マサゲト人を味方にし騎馬の大軍で迎撃しますが、その結果ソグド人は12万人殺害されました。

スピタメンは、妻に暗殺され、妻は夫の首をアレキサンダーに献じますがアレキサンダーは

彼女を夫殺しとして追放しました。

BC324年、アレキサンダーは、バクトリアからシルクロードを経て長安に至り洛陽を建設し

        インド西部まで征服の範囲を大きく拡げます。

BC323年、アレキサンダーがバビロンで病死したため、ペルシア帝国は分裂。

アレキサンダー王の東征に従軍した南朝ユダ王国のシメオン族が現在のアフガニスタンに

バクトリア王国を建国しソグドを支配します。この時の王が中国西域にバクトリアの分国を創り、

BC222年皇帝になりました。これが秦帝国であり、この皇帝が秦の始皇帝でした。

始皇帝は金髪碧眼だったといいます。

中国の史書は漢民族のための「偽書」を漢王に強制されたユダヤ人の司馬遷がオリエント史を

漢訳して、夏、殷、周、秦という諸国の歴史もアッシリア・ペルシアをモデルとした創作史でした。

三国志もバクトリア国の内部抗争をそのまま中国史に置き換えた創作でした。

BC213年、秦の始皇帝(ユダヤ人・シメオン族・ディオドトス)が思想・言論の自由を抑圧し、

方士や儒者460人余りを生き埋めにする焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)事件が起こりました。

この時、焚書坑儒の対象にされた孔子(ユダヤ人のラビ、エリア)・孟子系のユダヤ、ガド族は

始皇帝のシメオン族とは敵対関係に入りました。

結果、ガド族は南朝系に接近して北朝系と争うようになりました。

この南朝、北朝系の争いは、日本国の天皇制になっても続き、室町時代、明治時代には、

大きな政治的戦略につながったと思われます。

初めて中国の史上に列島の倭人が登場するのは、BC1020年、周が建国した頃、列島は、

縄文晩期にあたる。江南の会稽(かいけい)に住んでいた王充(おうじゅう)という人の

「論衡ろんこう」という書に、周の初めの成王の時代、倭人が帳草(鬱金草ウコン)を献じてきた

と、あります。帳草とは神おろしの儀式に使う酒に入れて香りを出す草といわれています。

中国は、5000年の歴史といわれてきましたが、それは虚構であったようです。

孔子はエリヤ、孟子はアモス、列子はプラトン、荘子はアリストテレス、儒学はユダヤ人ラビの

「ジュウ学」、殷はシュメール人、周はアッシリア人、秦はバクトリア人のオリエント史がモデルです。

司馬遼太郎は読売新聞紙上に、【漢民族は関中台地(陜西省)に流れこんでくる、

インド・ペルシア系の流入者から、今の中国武術、曲芸、さらに仏教という形而上学を学んだ。

秦の始皇帝陵の兵馬俑はギリシアの技術で作られたものであり、始皇帝の時代、ギリシア丈化は

バクトリアを通じて中国の文化を支配していた】と書いたそうです。

秦帝国はアレキサンダーが作らせたバクトリア王国(大夏国・大秦国)中国における植民地でした。

歴史的にアレキサンダーの大遠征を完成しようというものでした。

しかし、アレキサンダーが亡くなり、従軍していたデオドトスが秦帝国の皇帝の座に着きました。

始皇帝がわずか一〇年で中国大陸を支配できたのは、秦の軍隊はアレキサンダーが

バクトリアに残したギリシア兵団で、当時としては世界最強の戦力だったからです。

始皇帝は、すでに造られていた燕と趙の長城を繋ぎ合わせ、さらに黄河沿いに新しい長城を築

かせた(万里の長城)。楚と秦の戦いも司馬遷のフィクションで、始皇帝の死後、ギリシア人の

将軍エウチデムス(史記の項羽)がクーデターを起こし、ディオドトス2世(胡亥)を追放して

三世子嬰も殺し、宮廷も焼くと秦王国が滅亡させ、バクトリア王になり、ソグディアナから

南進してヒンドゥクシュ山脈一帯を支配しました。極めてギリシア的ともいえる同族戦争の結果

中国人の治め難さを知って、エウチデムス(項羽)は中国大陸を見捨ててバクトリアから

インド大陸に転進したというのが真相。項羽が焼いたといわれていた始皇帝の地下宮殿も

発掘され、兵馬俑が明らかにされたのは周知の事実。兵たちの像はギリシアやペルシャ様を

成し、前300年頃、中国の西方にあったというバクトリアの軍隊でした。

その後、劉邦らが「前漢」を建国して、秦の遺産を引き継ぎました。

秦王政の余波を受けて大扶余にいた日本人のルーツウガヤ王朝が東北の満州に逃れ

松花江河畔の農安に北扶余前期王朝を建てました。同じ頃、マレー海域の

ヤーヴァ・ドヴィーバー(五穀豊かな国)の移民たちが、沖縄から移って建てていた

中山国が滅び、国王・綽(シャク)が蜀(四川省成都)へ移されたため、遺民たちは

遼東(満州)へ移動し、原ツングース(韓人)を従えて箕子朝鮮を再興しました。

秦の王族(シメオン族)たちは遼東(満州)へ逃れ、奇子朝鮮を頼って亡命しました。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016/10/27 11:57:54 AM


PR

フリーページ

プロフィール

SaLa39771

SaLa39771

カレンダー

お気に入りブログ

空白だらけの日記帳… New! 白山菊理姫さん

インパクト・イノベ… 柴犬ブン4781さん
久米島ゆんたくスペ… 久米島オーハッピーさん

© Rakuten Group, Inc.
X