ガンダーラ
そこに行けば どんな夢も 叶うと言うよ 誰も皆 行きたがるが はるかな世界 その国の名はガンダーラ どこかにあるユートピア どうしたら行けるのだろう 教えて欲しい In Gandhara,Gandhara, they say it was in India Gandhara,Gandhara 愛の国ガンダーラ 生きることの 苦しみさえ 消えると言うよ 旅立った 人はいるが あまりにも遠い 自由なそのガンダーラ 素晴らしいユートピア 心の中に生きる 幻なのか In Gandhara,Gandhara, they say it was in India Gandhara,Gandhara 愛の国ガンダーラアフガニスタンの中央を貫く 5000メートル級の山々からなるヒンドゥー・クシュの崖に刻まれた仏教遺跡、ヒンドゥー・クシュ山脈の端にあるバーミヤーンの谷は、インドと西アジアを結ぶ交易路として栄え、古代から砂漠のオアシスとして知られた緑豊かな渓谷でした。バーミヤン渓谷には男像、女像と呼ばれる西と東の大仏様があり土地の人々は2体の仏像を父・母と呼んでいました。バーミヤーンの仏教文化は繁栄をきわめ、200年後の630年に唐の仏僧玄奘がこの地を訪れた時にも大仏は金色に光り輝き、周囲の壁には仏画が色鮮やかに描かれていたといいます。しかし、偶像崇拝を否定するイスラム原理主義勢力【タリバン】によって爆破されてしまったことは記憶に新しく、胸の痛い事件でした。 玄奘三蔵はここを訪れたあとインドに向かったといいます。ヒンドゥークシュ山脈は北の中央アジアに向かうアム・ダリアと南のインドに向かうインダス河の分水嶺でもあり、ここをインド古道と呼ばれた文化・交易の路が通じていました。此処は、かつて、いにしえのの倭王たちが支配したイスラム化以前の西域でもありました。バビロニアのイシン王国が滅びた時、その一族は東に逃れました。タクラマカン砂漠の北部、イッシク・クル湖からクチャを経て、カラシャール、トルファンにかけての地帯が箕子(シン王の従兄)またはシウ殷の故地でした。砂漠の南部、ホータンからチェルチェンを経てロプ湖畔の楼蘭に至る地帯が辰国=ウガヤ王朝の故地になります。扶余は、その西方のアラル海とアム河・シル河、両河に挟まれた原野地帯に建国し王家は昔姓でサカ族の王を称し、王号を【シウスサカ】といいました。後に、西域諸族は北部に元、 南部に契丹を建てることになりますが元は狼と大鹿、 契丹は馬と牛の部族であって、そのルーツは扶余と箕子朝鮮に遡ります。契丹は満州から内蒙古を支配していましたが金に敗れ、その王族はジンギスカンに従いました。ヒンドゥークシュ山中に源を発し中央アジアのアラル海に注ぐアム・ダリア大河流域にはかつてバクトリア王国が存在していました。この国はBC4世紀後半のアレキサンダー大王の東方遠征に伴ってつくられたギリシア人の植民国家でした。アレキサンダーの死後はセレウコス朝(シリア)、マウリア朝(インド)アルサケス朝パルティア(イラン)などの手に委ねられましたが、最後はBC145年頃、北方から侵入してきた遊牧騎馬民族のスキタイ(サカ)によって滅ぼされました。このスキタイ(サカ)は、かつて中国西北部の河西回廊から敦煌にかけて勇躍していた月氏(大月氏)のことですが、後にガンダーラからインドへと進出したクシャン族であったとも言われています。そのクシャン族がタリバンによって破壊されたバーミアンの大石仏を造営したのです。そして、この人々が日本に渡来した蘇我氏と思われます。アソカ王の説話は、彼らサカ族の扶余人が、コータンを支配するアメニギ氏(アッカドの末裔)系の月氏を憚って、サマルカンド南方のバクトリアに建国した事実を示します。コータンはクスタナとも云われ、三蔵法師玄奘の【大唐西域記】に美しい描写で記されます。 【この国は砂磧が大半だが、五穀によろしく果物も豊かである。毛織物、細毛織物を産出し職人は美しい織物を織ることができる。またこの地方は白玉や黒玉が多い。気候も温和で、人々は礼儀を知り、学を尊び、音楽が好きであり、風儀も正しく、他の胡人とは異なっている。文字、法律はインドのあり方に従い・・・王は勇武で、仏法を重んじ・・・・・】マルコ・ポーロも【東方見聞録】にオアシスの町と記します。【崑崙山脈から発した川はカラ・カシュ河(白玉河)、ユルン・カシュ河(黒玉河)が合わさってコータン・ダリアとなる。コータンは、この二つの河の合わさった河のオアシスに発達した町でありこの河からとれる玉が、いわゆるコータンの玉であり、崑崙の玉であった。玉には軟玉と硬玉とがあったが、軟玉が珍重された。それは古代からで、玉は天地の精、陽精の至純なるものと考えられ、多くの徳があるとされていた。天子は白玉を、公侯は玄玉を、大夫は蒼玉を帯びなければならなかった。天子の冠にも、刀の鞘にもそれは飾られていた。ところが、この玉たるやどこから入って来るのか、正しくは誰にも分からなかったのである・・・・・。これらの玉は多く、異民族の貿易商人の手を経てもたらされた。それは東北の異族のときもあれば西南のチベット族、タングート、ウィグル族でもあった。これらの商人たちは上質の玉はみな崑崙の玉と呼んだ・・・・・。】