古代エジプトの金を奪ったのは?
アケメネス朝の始祖、キュロス大王は、メディア、リュディア、バビロニアの順に滅ぼしていきましたが、最大のターゲット、エジプト征服を実行に移す前に死んでしまいました。その後、キュロスの子、カンビセスが父の意志を次ぐのです。しかし、カンビセス王は、エジプト遠征の帰途死んでしまいます。 カンビセスの後を襲ったダリュウス大王が、アケメネス家では傍系のエラム族の出自で、もしかしたら纂奪者かもしれないという疑いも一部にもたれています。 ペルシア史では、BC519年カスピ海の東方で尖冒サカ族が反乱し、ダリウス1世は自らカスピ海を渡って遠征したとあります。尖冒サカ族とはアッシリアの遺民を表しカンビュセス王弟バルディヤを擁立してダリウスを攻撃しました。この後ペルシア帝国はソグディアナのかなたのサカからエチオピアまで、インダスからサルディスまでに及んだとありますから、ソグディアナの東方にあたる黄河上流の流域はペルシアの支配に服したことになり、従来のアッシリア系亡命者を支配したことになります。以後200年余り、エジプトが、ペルシア帝国の一部になってしまいます。それ以後、ダリュウス大王のペルシアでは急に金が豊かになったらしい。古代、黄金は、ほとんどエジプトに独占されていたのです。それは、現在、博物館でツタンカーメン王の遺物を見れば、古代エジプトが黄金の王国であったことがよく分かります。しかし、ペルシア帝国の一部になってから以後のエジプトの歴史では、金の匂いが全く無くその後のエジプトの衰退ぶりは甚だしいものでした。古代ペルシア帝国が、エジプトの莫大な金を奪い、世界の貴金属のほとんどを集めていたと考えられます。ダリウスは、法制を統一し、ペルシア人を多く登用して全土に道路樹を整備し、それは全長2400キロに及んで【王の道】といわれ、それによって通商が拡大し、軍隊の移動も速やかになりました。BC331年、アケメネス朝最後の王、ダリュウス3世を撃破したアレキサンダー大王は、スーサやペルセポリスなど、ペルシア帝国の旧都で、18万タラントンの貴金属を獲得しています。それは5,400トンに相当するとのこと。人類の歴史上、これだけ巨大な貴金属が一ケ所に集中していた例は他にはない。アレキサンダーの死後、ペルシアの地は、セレコウス朝、パルティア朝、ササン朝によって支配されます。セレコウス朝はギリシア系ですが、パルティア朝とササン朝は、ペルシア系です。このように政権は変わりましたが、莫大なる貴金属は、その後1,000年近く、基本的にはペルシアの地を離れなかったらしい。というのは637年に、イスラム・アラブ軍が、ササン朝ペルシア帝国の都、クテシフォンを陥落させた時、1,000立方メートルにおよぶ財宝を獲得しているからです。もともと、古代ペルシア人の貴金属好きには定評があり、アケメネス朝以後ササン朝に至まで、金の玉座や、金銀宝石で身を飾りたてていました。