◆(6)禁酒法の終焉
禁酒法は都市部を中心に全米各地で違法な密売、「もぐり酒場」の営業などの横行を生んだうえ、ギャングによる抗争など犯罪は増えて、治安は悪化するばかりでした。また、取り締まり基準が地域(州)ごとに違ったことや、取り締まる捜査官(警官)、判事らの汚職・腐敗もあり、都市部住民からの反発が年々高まってきました。
折しも1929年10月、ウォール街での株の大暴落をきっかけに大恐慌が始まり、米経済は不況のどん底に陥りました。政財界や労働組合からは、禁酒法を廃止し、酒造業再開による雇用増や酒税徴収による予算での不況対策を求める声が日増しに大きくなってきます。
禁酒法施行中、本来得られるはずだった毎年5億ドルものアルコール課税収入分が不足し、政府の財政にも悪影響を与えたと言われています(WK)。そして迎えた1932年の大統領選では、失業対策と農民救済が叫ばれる中、禁酒法の改正を訴えたフランクリン・ルーズベルトが勝利するのです。
ルーズベルト大統領は、翌1933年3月、「ボルステッド法」(禁酒法施行の具体的内容を定めた法律)のカレン・ハリソン修正案に署名し、「容積にして4%のアルコールを含むビールと軽いワインの製造」は合法化されることになりました。
さらに憲法修正18条自体も、修正21条の成立により12月5日に廃止され、「ボルステッド法」はその役目を終えることになったのです(写真左=禁酒法廃止を伝える新聞)。
しかし、禁酒法廃止は全米一律ではありませんでした。連邦政府がこうだと決めても各州ではなかなかその通りには従わないのが、アメリカ合衆国という国の不思議なところです。ミシシッピ州が廃止したのは33年後の1966年、カンザス州に至っては、なんと、1987年まで屋内施設で酒類を提供すること(いわゆるバー営業)が許可されませんでした(WK)。
映画「アンタッチャブル」を観た方はよくご存知でしょうが、シカゴの暗黒街のボスだったアル・カポネは、エリオット・ネスのチームによる捜査の結果、1931年10月、22件の脱税の罪などで連邦大陪審に起訴されました。カポネは陪審員を買収しようと試みましたが失敗し、検察側が申請した側近の会計責任者の有力証言もあって、同年10月17日、懲役11年の有罪判決が下されました。
カポネは上訴したが退けられ、同年10月24日、郡刑務所に収監されました。刑務所から最後の望みをかけて出した再審請求も最高裁から却下され、翌1932年5月、カポネはアトランタ刑務所へ移送されます(さらに8月には、あの悪名高いサンフランシスコ湾内の孤島「アルカトラス刑務所」へ再移送されました)。
服役中のカポネは、刑務所内の靴工場の作業や風呂場の掃除係までこなしたということですが、そのうち神経梅毒の症状が悪化します。加えて、囚人たちから暴行や嫌がらせを受けたこともあって精神にも異常をきたすようになりました。
そして1939年11月16日、カポネは刑期満了前に釈放されました。釈放された時、「(カポネは)かつての暗黒街のボスという面影はなく、まったく別人のようだった」と当時の証言は伝えています(WK)(写真右=カポネが事務所兼常宿としていたシカゴのレキシントン・ホテル【注】 1994年夏、筆者写す)。
カポネはその後ボルチモアやフロリダの病院などで療養を続けました。当時最新の梅毒治療薬であった「ペニシリン」も試みましたが、病気が進行し過ぎていたため症状はあまり改善せず、1947年1月25日、48歳の若さで亡くなりました。かつて君臨したシカゴへは終生戻ることはなかったといいます(WK)。
カポネは「極悪非道の犯罪者」というイメージで見られがちですが、晩年の姿を知ると、同情を誘います。イタリア系移民の息子で、「アメリカン・ドリーム」の体現者でもあったアルフォンス・カポネは、シカゴ西方のヒルサイドという小さな町の墓地に埋葬され、現在は父母や弟たちとともに永遠の眠りについています(B)。
米国史上、「高貴な実験」と称された禁酒法は結果として、様々な矛盾や犠牲を生んで、失敗に終わりました。禁酒法が我々に残した教訓は、「酒に対する人間の基本的欲求を、宗教的・道徳的な規範で縛ることなど決してできない」「酒への欲求を法で縛れば、その抜け穴を狙った犯罪が増えるだけ」ということでしょう。。
第一次大戦での国家的危機感がゆえに、宗教的・道徳的規範が人間本来の欲求に優先すると信じた当時の米国の政治・宗教指導者たちは、今思えば愚かな人たちに見えます。国家が合法的に大衆を抑圧するのは、有権者の一時的な熱狂・妄信を後ろ盾にすればそう難しくないのです。それは、あのヒトラーが証明しています。
しかし、ワン・フレーズのスローガンに煽られて、大衆がみんな同じ方向へ一斉に走り出してしまう社会ほど怖いものはありません。かつてナチス政権登場時のドイツや、太平洋戦争に突き進んだ日本を思えば、私たちは、あの時代の米国の指導者や米国人をどれほど笑えるでしょうか。
【注】カポネはこの「レキシントン・ホテル(The Lexington Hotel)」の1フロアほぼすべてを使い、様々な闇ビジネスの拠点とし、自らの住居にも使った。ホテルはその後「ニュー・ミシガン・ホテル」と名前を変え営業を続けたが、1986年に廃業した。廃墟となった建物はしばらくの間、シカゴの人気観光スポットにもなっていたが、老朽化とこの地域の再開発のため、1995年に取り壊された。現在、跡地には高層マンションが立っているという。
【禁酒法時代の米国<7>に続く】
【主な参考資料・文献】
「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法
「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)
「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)
「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)
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2021/06/15 08:06:50 PM
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大阪・北新地のオーセンティック・バー「Bar UK」の公式HPです。お酒&カクテル、Bar、そして洋楽(JazzやRock)とピアノ演奏が大好きなマスターのBlogも兼ねて、様々な情報を発信しています。
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