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Bar UK Official HP & Blog(酒とPianoとエトセトラ)since 2004.11.

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2021/08/15
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WEBマガジン「リカル(LIQUL)」連載
   【カクテル・ヒストリア第18回】
      もう1人のハリー(下)

 ◆45歳で突然「引退表明」、経営者の道へ
 「モーニング・グローリー・フィズ」(末尾【注1】ご参照)=写真左下=など数多くの歴史的カクテルを考案し、バーテンダーとして、大きな成功を収めたハリー・ジョンソン(1845~1930)は、45歳になった1890年、突然、「バーテンディングからの引退」を表明した。

 バーテンダーとしての名声を確立し、「バーテンダーズ・マニュアル」の爆発的な売れ行きで莫大な収入も得た。そして、自ら経営するサロン・バー「リトル・ジャンボ」が成功するとともに、チーフ・バーテンダーを務めるレストラン「デルモニコ」でニューヨークの幅広い名士たちの信頼を勝ち得たジョンソンの興味は、次第に、飲食・娯楽ビジネスへ移っていった。

 90年代のジョンソンは年々、経営者としてバーやホテル、社交クラブを運営し、新しい物件を買収しながら、事業の拡大を図っていく道を歩み始める。ニューヨークでは新たに自らのホテル「パブスト・グランド・サークル」を開業した。

 1902年に開業した「パブスト…」は、豪華なレストラン・バー、サロン・バーのほかミュージカル用の劇場も備え、ニューヨークのセレブたちの集うスポットとして愛された。劇場ではあの「オズの魔法使い」も初演されたほど。

 ジョンソンはまもなくして「パブスト」の運営を、信頼できる甥のポール・ヘンケルに託し、自らはニューヨーク・レストラン協会の会長にも就任するなど文字通り、米国内の「名士」となった(写真右=「Bartender's Manual」に初めて活字になったマティーニ)。

 ◆大怪我、経営危機、離婚訴訟…次々と逆風
 しかし、そんな彼に逆風が吹き始める。1903年、ジョンソンは自ら経営するホテル内で転倒事故に遭い、大怪我を負う。経営の実権をヘンケルに委任。自らは治療のため、母国ドイツに帰国した。ジョンソンから託されたヘンケルだったが、その後の事業は様々なトラブルもあって、負債も膨らみ、多くの事業が経営危機に陥った。

 さらにジョンソンにとって不幸だったのは、妻との不和だった。1910年以降、怪我の後遺症の治療やドイツでの離婚訴訟のため、長期間米国を離れることが多くなった。

 また、ほぼ同時に、第一次大戦が勃発したため、ドイツ系米国人だったジョンソンは、米国政府や地域社会から「適性外国人」のような扱いを受け、(米国の市民権は持っていたのに)出入国もすんなり行かないようになった(写真左=ジョンソンの著書に掲載されたマティーニのイラスト)。

 大戦終結後、ジョンソンは再び米国に戻ったが、今度は禁酒法が経営危機に追い打ちをかけた。酒類の販売が禁止されると、彼の経営するバーや社交クラブ、ホテルなどの収益は大きく落ち込み、ヘンケルが引き継いだ事業のほとんどが廃業に追い込まれた。かと言って、ニューヨーク社交界・実業界の名士であるジョンソンは、「もぐり酒場」へ事業転換して、水面下で儲けるようなことまでは大胆なことは出来なかった。

 ◆ドイツ系、第一次大戦、禁酒法という3つの不幸
 禁酒法施行後、ジョンソンはビジネスの第一線から退き、主に欧州で自著のPR販売とバーテンディングの講師として活動を続けたが、体調はあまり回復でせず、1930年1月5日、心臓病と老衰のため、ベルリンで84歳の生涯を終える。臨終の際、付き添ったのは再婚した妻と主治医だけだった(写真右=晩年のハリー・ジョンソン)。

 ハリー・ジョンソンにとっての晩年の「3つの不幸」は、彼がドイツ系だったこと、第一次大戦でドイツが米国の敵国になったこと、そして大戦終結後に米国に禁酒法が施行されたことだった。こうした時代的逆風と重なり、残念ながらビジネスマンとしての成功は叶わなかった。

 しかし、米国のバー業界は彼のことを忘れていなかった。禁酒法時代(1920~33年)が明けた翌年の1934年、長らく絶版となっていた彼の『Bartender’s Manual』は、没後再び世に出て、ベストセラーになった(写真左は、1934年に復刻再刊された1890年版の「Bartender's Manual」。復刻版は現在でもAmazonなどで入手できる)。

 ◆19世紀後半のカクテル事情の貴重な記録
 彼の著書は、ジョン・コリンズ、プース・カフェ(以上1882年版)、マンハッタン、マティーニ(1888年版)、ハイボール、ジン・リッキー、オールド・ファッションド、ホーセズ・ネック、スノー・ボール(1890年版)など今なおバーで愛されているカクテルの初出文献なのである。この時代のフィズ類のカクテル、アブサン系のカクテルなど、19世紀後半のカクテルを数多く記録してくれている。

 一方、ビジュー・カクテルやモーニング・グローリー・フィズなど彼の考案したカクテルは、近年のクラシック・カクテル再評価の流れに乗って、欧米のバーの現場では、再び人気カクテルの一つとして定着しつつある。ジョンソンはビジネスとしてバーの可能性を広げながら、カクテルの発展にも大きく貢献したことは疑いないと私は信じている。

【注1】ウイスキー45ml、レモン・ジュース15ml、シュガー・シロップ2tsp、卵白1個分、アブサン(兄ゼットやペルノーなど)2dash、シェイクしてコブレットに注ぎ、ソーダで満たす(シェイク)


※ハリー・ジョンソンの生涯は、欧米でもこれまで文献で詳しく紹介されることはなかった。しかし2013年、アニスタシア・ミラー(Anistatia Miller)とジャレッド・ブラウン(Jared Brown)という2人の研究者の共著として出版された「The Deans of Drink」が、ジョンソンの生涯に初めて光を当ててくれた。この稿の執筆でもこの本にはとてもお世話になった。この場をかりてお二人には厚く御礼を申し上げたい(日本語版の出版を心から願っています)。


・WEBマガジン「リカル(LIQUL)」上での連載をご覧になりたい方は、こちらへ

・連載「カクテル・ヒストリア」過去分は、こちらへ





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Last updated  2022/10/19 11:24:42 AM
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うらんかんろ

うらんかんろ

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汪(ワン)@ Re:Bar UK写真日記(74)/3月16日(金)(03/16) お久しぶりです。 お身体は引き続き大切に…

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