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ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 230

クランクイン    足バンさん

撮影所の控え室は馴染みのない強い光量で満たされていた

大きな鏡が見覚えのない男を映している
生成りのVのサマーセーターとチノパン
僅かな乱れもなく梳かされている黒い髪

ゆっくり深呼吸をするその表情に想像していたような堅さはない

僕は首から銀の鎖を外し
化粧台の白い陶器のトレーに落とした


早朝、家のドアを開けると
僕の車にドンジュンが寄りかかり空を見上げていた
昨夜「んじゃ明日から頑張ってね」などと人ごとのように言い
手をひらひら振って店を出て行ったあいつだけど
それでもその朝は…
顔を見せてくれるような気がしていた

振り向いたあいつはほとんど気にならないくらいの一瞬の間をおいて
おはよっ!と笑いかけ
僕がゆっくり階段を下りて近づくごとにその笑顔に力を入れた

「撮影初日のご気分はいかが?体調は?万全?」
「どう見える?」
「顔色よし、お肌よし、笑顔まぁまぁ、男前…ふん…ソコソコじゃない?」

ドンジュンは僕のジャケットの胸をパパンとはたきつつ
「最初が肝心だかんね!スタッフにナメられちゃだめだよ!」と睨みつけ
喉元に手を伸ばしてきて丁寧にシャツの襟を整える

その日の自分がいかに忙しく、スヒョンのことなど心配している暇はないのだと
まるで子供が言い訳をしているように
真顔で訴え続ける表情を僕は暫く見つめていた

あいつの身体の片側には柔らかい朝の陽が射し
間近で僕を覗き込むその横顔を映す
瞳の虹彩が茶色い美しい渦を巻くビー玉のように透き通っていた

「ほらもう時間!主役が初日に遅刻したら超カッコわりいでしょ!」

唇を近づけようとすればすいとかわして
僕の手からキィを取り上げ車のドアを開けてさっさと行けと笑う
きっと今朝はそんなことだろうと思ってはいたけれど

じゃ…行ってくる
ん…

住宅街の角を曲がる前に車を急停止し振り返った

 応援してるのは誓ってマジで本当の本心だから
 僕のこと忘れていいから…悔いなくやって…最高のもの創って
 でもっ…

もう走り去ると思っていたのだろう
リアウィンドウの彼方のドンジュンは笑顔をしまいぽつんと立っていた
白い朝の陽の戎衣(じゅうい)をまとい
陽炎となってただそこに真っ直ぐ立っていた


切ない光の残像は
廊下を行き過ぎる高揚したざわめきに断たれ
焦点は再び鏡の中の男に合う

僕はいつもの香水を取り出しいつものように手首にふくませた

撮影時に自分の香水をつけるつもりなどなかった
しかしシン監督がその件でわざわざ連絡をよこして驚いたのは昨日のことだ
ー普段つけてる香水使ってみてよ…
すぐにはその意図が掴めずにいたが
ーミンチョル君にできるだけリラックスしてもらいたいんだけど…意味わかる?
僕は僅かな間をもって了解した

スヒョン君に任せたよなどとお気楽そうに笑ってはいても
彼がミンチョルに気を遣っているのがわかる
あいつ次第で物語の印象は天と地ほども変わるのだろう
充分に危険な賭け

小さなため息と共に僕は部屋を出た

診療所のセットが組まれたスタジオにはスタッフが動き回り
ライティングのテストだろうか、明かりが点けられ消され
そこだけが現実でないようだ
ユン女史が何やら指示を繰り返して
アシスタントたちの返事が幾度も響いていた

シン監督は「おおっジンができ上がったか」と笑って手招きをした
僕を眺めては白衣を着せるの着せないので
スタイリストとずいぶんもめているようだったが
リハーサルという言葉がそこらで聞こえ始めて彼は椅子から立ち上がった

「さてと…月の彼はどうしたかな」
「あの…」
「控え室だよ…ちょっとひとりになりたいんだと」

シン監督が僕に大袈裟なウィンクをして暗に「偵察」を促す

その日はまだミンチョルと顔を合わせていなかった
昨夜店を出る時に「じゃ明日よろしく」と言って
ギョンビンと帰って行く様子はいつもと全く変わらず
明くる日に映画撮影を控えた人間のようには思えない余裕だったが


息を吐きノックしたドアの向こうからは少し堅い声がした

僕の控え室と全く左右対称にしつらえられた部屋
ミンチョルはひとり椅子に座り鏡の中からこちらを見る

訪問者が僕だとわかり
強張っていた表情が解けて心細そうな柔らかい視線へと変わった

淡い水色のYシャツはヒョンジュが初めてジンに出会うシーンの衣装だ
彼の透くようなイメージを出すために
衣装合わせで監督が散々迷った末に決めたらしい

「僕のヒョンジュを迎えにきたんだけど?」

僕は気楽な調子で近づいてミンチョルの椅子の背に手を置き
すぐ頭の上あたりから鏡の中を覗く
ちょっと不しつけなくらいの凝視にあいつは目を伏せた

「どうしたの?迷子になった?」
「スヒョン…」
「ん?」
「…」
「不安?」
「…」

僕は充分作為的な間をおいてから椅子の背に肘をつき
あいつのすぐ横に顔を並べた

「シトルラス・ラナタスって知ってる?」
「…は?」

ミンチョルは顔を上げ、ぽかんとした表情で鏡の中の僕と目を合わせた

「スイカの学名…シトルラスはシトラスからきてるらしい
 シトラスってあまりピンとこないけど…この種に黄色い実を付けるものがあるからだったかな」
「…」
「スイカ好き?」
「…え?」
「ふふ…まぁそれはどうでもいい話なんだけど」
「スヒョン…」
「僕はね…フリーダのスイカの絵に出会った時のジンの気持ちがわかる気がする」
「…」
「スイカは瑞々しく、ただひたすらそこに転がってるでしょ…何も言わず…ね?」
「ん…」
「ジンはそこに”ヒョンジュ”を見たんじゃないの?」
「そこ?」
「ごろりと転がってるところ」
「…」
「って言うとおまえの専属トレーナーが怒りそうだな」

ミンチョルはちょっと困ったような表情で小さく吹き出して
僕たちは笑った

「ただ自然に任せてるってこと…素直に鮮やかに生きてるってことだよ」
「…ああ」
「子供の頃に後先考えずに楽しんだことってあるでしょ?
 そうだな…たとえば…小さな頃のミンジちゃんとの思い出なんかどう?」
「…」
「おまえが心から大切にしてきたおまえだけの優しい何か…」
「…」
「そういう”想い”が彼そのもののような気がする」

鏡の中の遠くを見たようなミンチョルの視線が
優しい色を帯びて僕に還ってきたように思えたのは錯覚ではないだろう

「僕は…おまえの中にそんなものが流れているのを知ってる」
「スヒョン…」
「ん」
「できる…だろうか…」

僕は硬質な平面に映るその目を真っ直ぐ見つめながら言葉を選ぶ

「僕がフォローする…何もかも…何もかもだ」

いつか見た濡れた視線が探るように僕を見るが
その奥に懐疑的な色合いはない
僕はミンチョルの首の向こう側に滑らせるように片手を添えて
鏡を見ながらゆっくりと囁いた

「僕は…スヒョンを離れてヒョンジュを愛すから」
「…」
「おまえもただジンを愛してくれない?…できるかどうかなんて考えないで」
「…」
「そして最後までやり通して…」
「…」
「…」
「…なに?」
「すべて忘れよう」
「…なにを…?」
「ジンとヒョンジュの記憶のすべて」

ミンチョルが静かに振り向き、僕もその目に視線を移す

化粧台のライトを受け幾重ものヴェールを映す瞳は
柔らかい朝陽の中のあの眼差しに重なる

「この夢の間だけだ…おまえに愛してると言えるのは」
「…」
「終わればもう…2度と口にすることはない」

美しい薄水色のシャツが一度だけゆっくりと上下した

「…わかるね?」

ミンチョルが頷いたように見えたのはほんの微かだったが
それで充分だった
絡まりそうになった息を引き離して僕は立ち上がる

「行こう…監督が待ってる」


千の想い 157   ぴかろん


*****

外に出て辺りを見回すと、トラックに凭れたヨンナムさんがいた
いつもなら戸口辺りで待っててくれるのにな…

「ヨンナムさん」
「…お…」
「ん?なんか元気なくない?」
「…いや…大丈夫だよ。行こうか」
「…うん…」

RRH。…帰りたくない…
ヨンナムさんは俺を乗せるとまっすぐその場所に向かった
帰り道、俺一人が喋っていてヨンナムさんは相槌をうつばかりだった
あっという間にRRHに着き、車寄せにトラックを停めてヨンナムさんはおやすみと言う
もう…帰っちゃうの?
去りがたくてノロノロしていたら、ヨンナムさんが俺の顔を覗き込んだ

「ん?なにか言いたいことでもある?」
「…べつに…」
「おやすみ」
「…お…やすみ…」

おやすみのキスを…ねだるなんてできなかった…
俺はトラックを降りて手を振った
ヨンナムさんは笑顔で俺に手を振り返し、車は道路に出て行った

俺の背後にそびえるのは、俺が生活している場所なのに、振り向くのが怖い…

俯いたままRRHのエントランスを過ぎる
トンプソンさんに会釈をしてエレベーターホールに立った
スルスルと開いた箱の中に入り、40階のボタンを押す
扉が閉まり、俺一人の世界になる

ふ…
イナ…

イナ…ダメだよ…ふふ…

耳に響くあの声
手が…
指が…
幻に絡めとられて

…ん…イナ…

肩にあの…腕が…
腰にあの指が…

ここでキスをした

唇があの唇を…
目が…あの姿を…

愛してるよ…

俺の全てがあの幻に縛りつけられる…

息苦しくなる
視界がぼやける
頭の芯が痺れる
はやくここを出たい

何時間も閉じ込められたかのように感じる
ようやく扉が開いて、俺はその箱から飛び出す
暗いフロアの奥に大きな一枚の絵が瞬いている

ここで俺は…
ここで彼が俺を…

息が詰まりそうになる
美しい夜景の閃光が俺の体を突き抜ける
鋭角のパーツになった俺が
瞬時に元通りになる

唾を呑み込み、部屋に向かう

あの後姿が俺の行く手に…
あの笑顔が俺の後ろに…
躊躇う瞳
微笑む睫毛

扉を開け、閉めて

このドアに押し付け
この壁に押し付けられ

部屋の中に進む

ここに座り俺を呼ぶ
ここで項垂れ思い悩む

息が荒くなり、ネクタイを緩める

香り…
香りの記憶…

頭を振り、衣服を脱ぎ捨ててバスルームに飛び込む

そっと背中に頬を寄せた日
背中から包み込まれた時

頭からシャワーを被る
洗い流せ、流れてしまえ

イナ…

甘い吐息が耳朶にかかる
やわらかな唇が滑り降りる

シャワーの雨が
無数の水の矢が
あの長い指になり
俺のからだを覆いつくす

頭の真ん中で小さく固めて凍らせた甘い記憶が
溶け出して行く
止められない

震え
詰まった喉の奥から溢れ出る想い

誰の声?
細く引く泣き声

泡を塗りつけて乱暴に体を洗う
洗い流す
流れない

視野が狭くなる
息が上がる
追い立てられる

声が
指が
唇が
瞳が

水の矢尻がまた俺を
鋭角のパーツに打ち砕く
水を止め、かろうじて俺を吸い寄せ、ふらふらとそこを出る

逃げられない
纏いつく
影が
いっぱい
ここにも
あそこにも

頭を振る
払え
ここで俺は暮らすんだから
払え
できるはず
頭を振る
消さなきゃ!俺がバラバラになる…
濡れたままの体を無理にベッドに横たえる

イナ…

はぁはぁはぁ…

あああ…
消えない
まだら模様に俺の体に
俺の心に入り込んでいる
消せない
消せない消せないっ

「くぅっ…うう…」

耐え切れず飛び起きてクローゼットをかき回す
半狂乱の俺を、冷たく見下ろす俺
泣き狂う俺に、指令を出す俺

「うるさい!やめろ!逃げちゃいけないのかっ!」

無茶苦茶に服を着て、無茶苦茶に荷物を鞄に詰め
部屋を飛び出してエレベーターに乗り込んだ

…イナ…どこへ行くの?

頭を振る
幻に囚われないように
狂ってしまう
早く下に
早くここから
逃げ出したい

箱の中がぐるぐると回り、暴れたくなるのを必死で抑える
呼吸が速くなり、涙が止まらない

…イナ…愛してい

…tin…
扉が開き、幻影から転がり逃げる
開いたままの箱の中から俺に向かって伸びてくる妖気
エントランスの口だけが視界に飛び込み
そこから脱出する

外の空気に触れ、息を吸う
後ろに
気配が

早足でそこを離れる
まだ
追ってくる

表通りに出る
息を吸う
頭の痺れが和らぐ
音が聞こえ始め
目が景色を捉え始め
俺は震えながら歩いた

灯のついた誰も居ないバス停のベンチに折れるように座り
震えの止まらない体を抱いた

あの部屋にはテジュンの思い出がありすぎて…
あの部屋で暮らさなきゃならないのに…
今の俺が居られる場所はない
気がふれてしまうと思った…

半狂乱だった俺が冷たく見下していた俺に言い訳をしている

『ふぅん。そう?
俺が指示してたの、わかってた?わかんなかった?
…ふ…嘘つきめ
聞こえなかった?

そう…とりあえずそれとそれは要るだろう?
そう、その鞄でいい
その服とその靴と…仕事にはそれでいい
着替えは?金は?身分証は?入れたのか?

肩で息なんかして、わざとらしいぜ
いい口実だな…あの人の許へ行く…
なぁそうだろ?
こんなに取り乱して
なぁんて同情できる状況
うまくやったな』

「違う違うちがうっ」
違わない
「辛くて…ううっう…」

消えない…消えない…消えない

「…ヨン…ナム…さ…消して…消してよ…消えない…」


*****


店の片付けを手伝い、弟が逃げないように監視しながらダーリンの様子も盗み見る
ダーリンは爪を噛んでぼんやりしている
あの手の顔がダーリンを蝕んだのね(@_@;)ほんっとイヤだわ

「ぐぞじじいっ!」
「は?僕何かしましたか?」
「(@_@;)」

横でスヒョク君に軽くセクハラしながら椅子を片付けていたあの手の顔(一番マシ)の一人が言った

「貴方はなにもしなくても貴方のその顔が何かしているのですっ(@_@;)」
「…ほらっ!だから言ったでしょっ!やめてください!」
「あん…スヒョク…」

ソクさんは僕の言葉が理解できなかったようで、離れて行ったスヒョク君の後を追いかけた。ふんっ!(@_@;)

片付けが終わり、メンバーが帰り始め、僕はギョンビンの腕を掴んで、逃がさないわよ(@_@;)と言った
ギョンビンは吊り目の横目でチロンと僕を見てから、パッと顔を背けた
きいっ!可愛くないわっ(@_@;)

ギョンビンを引っ張って、ぼんやりしているダーリンの首っ玉を抱きしめた

「げ…なんだよ!」
「行こうか」
「…」
「いひっ両手に花だわぁ僕幸せ~」
「「ばかじゃない?!」」

ああんWツッコミぃぃ(*^^*)

「はぁぁん」
「「…」」

呆れる二人をぐいぐい引っ張り、車まで連れて行った
助手席を開けギョンビンを押し込み、後部座席を開け、ラブをそっと座らせて僕は運転席についた

*****

バカがギョンビンを助手席に押し込んだ
霧の雨が心の半分を湿らせる
俺は大人しく後部座席に座り、唇を噛みしめる

「にいさん、僕ここでいいの?」
「逃げるといけないからっ(@_@;)」
「…逃げないよ…」
「わかんないもん!お前僕を騙すからっ(@_@;)」
「…はぁっ!」

おにいちゃんは心配で心配で心配で…

ふっ…優しいおにいちゃん…

どきんどきんどきん…
いきなり鼓動が激しく打ち出した

「んじゃ出発しまぁす。お前、シートベルトちゃんと締めた?」
「…してるよ!うるさいなぁ…」
「どれどれ?」
「にいさん!うっとおしい!ちゃんとしてるよ!」
「よし。大丈夫だな。じゃ、いきますよぉ」

そんな風に…ベルトの確認なんて…俺にはしてくれた事がない…

「ラブ君、兄さんうっとおしいだろ?愛情があるのは解ってるけどさ、愛情過多で受け取る気にもならない時ってない?」
「…え?」
「暑苦しくない?」
「…あ…うん…そだね」
「もう慣れた?」
「…うん…まぁ…」
「僕は未だに慣れないなあ」
「なによっお前は昔っからほんとぉぉにおにいちゃんに対してとっても邪険だったわ!」
「子供の頃に十分可愛らしくしてやったでしょ?!」
「してやったですって?!(@_@;)おにいちゃんに向かってなんて言葉遣いよ!」
「あーはいはい。ね、しつこいしうっとおしいし」
「…うん…。心配なんだよ、ギョンビンのことが…」
「…あぁんラブはさすがだわぁ。僕の深い愛情が解ってるのよぉぉあぁぁん」
「あーはいはい」

兄弟の噛みあわない会話を笑いながら聞いていた
心の半分がしっとりと濡れていた

どきんどきんどきんどきん
唇が勝手に動いた…

「…俺…。忘れてた…」
「ん?」

ルームミラーを覗き込んだバカ
頭を掻くフリをして顔を隠す俺

「…ギンちゃんとさぁ…時計の資料の検討しなきゃいけないんだった」
「ん?」
「昼、ギンちゃんと…約束したんだ…学校のレポートだかなんだかが終わったら俺んちに来るって…。それか俺が出かけるか…電話するから家で待っててって。だから俺…。…俺…。自分のマンションに帰らなきゃ…。悪いけど回ってくれる?」

*****

赤信号で停車した時、ダーリンが自分ちに帰ると言い出した
僕はルームミラーでじっとダーリンを見つめた
こっちを見ない
背中に感じる

引きとめて
放っておいて

同じだけの気持ちを、背中に感じる

「僕も行こうか?」
「…あ…いや。ギンちゃん来たらアンタの事ほっぽらかしだし。俺が出てくかもしんないし…。チャンスだからギョンビンと水入らずで過ごせば?」

目を逸らしたまんまダーリンは答えた
ミラー越しに見つめたが、こっちを向かない
僕は感じていた
ダーリンの気持ちを

「オッケー」

短く答えた瞬間、ダーリンは、ふっとミラーに視線を飛ばした
目が合ったので、僕はにっこり微笑んだ
構えたのは一瞬で、ダーリンも柔らかく微笑んだ
僕達は鏡越しに微笑みを交わした

「兄さん、青だよ!」
「あぉっとぉ…」

ギョンビンが叫んだので、僕は前を向き、車を走らせた


千の想い 158   ぴかろん


*****

ギンちゃんの話なんてウソだった
このままRRHになんて行きたくなかった
ギョンビンと仲良くしているバカを、今は見たくなかった…
ミラーの中で目が合った時、ちっぽけな俺を見抜かれたような気がして一瞬怯んだ
でもバカの微笑みは…温かくて…
俺も…バカの真似をして…微笑んでみた

ギョンビンの声を合図に車は俺のマンションに向かった
あっという間に辿り着き、俺は礼を言って外に出た
運転席のウインドウが下り、バカが首を伸ばしておやすみと言った

「にいさん!何やってんだよ、部屋まで送ってあげてよ!」
「え…あ…くひん…」
「大丈夫だよギョンビン、女の子じゃあるまいし…」
「何言ってるのさ、ほらにいさん」
「そう?じゃ、ちっと待ってて、ギョンビン。逃げないでよっ!」
「逃げないよ。…ばか…」
「おにいちゃんにむかってばかって」
「バカはバカなんだからしょうがないでしょ?!早く行きなよ!」
「おにいちゃんは…おにいちゃんは…(;_;)」
「わかった。ちゃんと待ってるから!」
「待っててよ!逃げちゃイヤよ」
「…るせー…」
「おにいちゃんはっ!(;_;)」
「あーもーはいはいはいはい。裏切らないし逃げないから!」
「…。…」

バカは心配そうに車を見た
俺の腰に手を回して、マンションの入り口に入るまで何度も車を振り返っていた
エレベーターに乗り込んでも、ソワソワしてていつものようにキスなんてしてこない
…うっとおしくなくていいけど…
いいけど…

部屋の前で、俺は礼を言って手を振った

「中に入って」
「…アンタを見送ってから」
「…中にジジイいないよね?」
「…心配?」
「当たり前だろ?体が2つ欲しいよ」

カチャン
扉を開けて中に入る
俺の後からバカが入ってくる
失礼、と言って玄関に靴を脱ぎ、小走りにゲストルームやバスルーム、リビングや俺の部屋までザッと確認した
それから急に立ち止まり、じっと目を閉じて10秒間黙っていた

「…何してんの?」
「…よし!ジジイらしきモノの気配なし!」

そう言ってやっと靴を履いた
少しだけ…嬉しかった

「…じゃ…気をつけてね。なんかあったら電話して。すぐに来るから」
「…ふ…大丈夫だよ。ありがと。心配してくれて」

お礼のキスをする
唇が離れかけたとき、バカが俺をきつく抱きしめてもう一度深くくちづけした

「じゃね…」
「…うん…」
「ここでいい。すぐ鍵かけて」
「…ん…」

パタンと扉が閉まり、俺は言われた通り鍵をかけた
ドアに耳をつけ、足音が離れて行くの確かめた
唇に触れ、温かい男を思う

これであのバカは安心してRRHに帰れるのだ
俺を…この部屋に閉じ込めて…
今夜はずっと…ギョンビンと二人きりで…

おにいちゃんは心配で心配で心配で…

固く目を瞑り、息を吐いた

クローゼットに仕舞ってあるケースに入ったカット鋏を取り出し、その辺にあったバッグに放り込む
洗面所で髪を整え、バカにもらった香りをつける
マンションから出て、道にバカの車がない事を確認する
それから俺は…RRHとは反対方向の通りに向かって歩き出した

*****

イナをRRHに送り、いつもと違う道を通って家に帰ろうとした時だった
それほど大きくない通りで目立つジャガーとすれ違った
…BHCで誰かがジャガーに乗ってたような気がする…
なぜかラブ君を思い出し、モヤモヤした気持ちになった

『貴方はあの場にいなかった…。そこだけ切り取って俺が悪いって言うなんて…あんまりだ…』

そこだけ切り取って…
だって僕は…知らないもの…
君達の関係が本当のところどういうものなのか…
それでも君がイナを傷つけたのは事実だろ?

心の中でラブ君につっかかる
くだらない…イナと僕のこと、知らないくせに…寝た…だって?くだらない!

くだらないのはこんな事考えている僕だ…
やめよう…
いい加減、家に帰らなくちゃ…

初めて走る通りから、見覚えのあるビルが見えた
そこを右折すれば知った道に出る
気持ちを切り替えて交差点で信号待ちをしていた

…キン…

あの…針の感覚が…また僕を襲った
ゆっくりと顔を左に向けると
少し離れたその方向に
ラブ君の姿があった…
ラブ君はタクシーを捕まえて乗り込んだ

…キン…
どきん…どきん…

胸騒ぎがした
ふいにその行き先が閃いた
僕は…目の前を走り去ったタクシーの後を追った

5分ほど走り、タクシーは停車した
ラブ君が降りて、目の前の建物を見上げた
神妙な顔つきでその中に入って行く
向かいには…テジュンの…会社…
…ラブ…君…
テジュン…

僕はRRHに引き返した

引き返してどうするの…
どうにもならないじゃない…
自由じゃない…あいつらの…

『別れさせたのは貴方でしょう?』

だから…もう…君は…
自由にテジュンと…

イナの部屋の灯を確かめようとした
最上階の一番端の部屋だと言っていた
どちらの端だかわからなかったけど
そのてっぺんのフロアはどこも灯がついていなかった…

「もう…寝たのかな…」

あの二人の事は…言わない…言っちゃいけない…
僕はどうしてここへ戻ったのだろう…

深呼吸してもう一度家を目指した
そして…
蹲る可哀想なイナを…見つけた…

*****

「にいさん?」
「なに?」
「いいの?」
「なにが?」
「ラブ君…。僕に遠慮したんじゃないの?」
「ラブの粋なはからいだ」
「…でも…寂しそうに見えたよ…」
「…うん…大丈夫だよ…」

大丈夫だよと言いながら、わざとらしくふざける兄を見た
動揺しているってすぐに解る

「不安じゃない?」
「不安じゃあない」
「…嘘ついちゃって…」
「気が気じゃないだけ…。ラブが自分を傷つけようとしないかって…」
「…」
「でも…大丈夫だよ。部屋に送ったし、一人だったし、ジジイはホントにいなかったし、ちゃんと愛情のこもったチュウもしてきたし…」
「部屋から出てくかもしれないじゃん」
「ギョンビン。大丈夫だってばっ(@_@;)ヤな事言わないでよねっおお?!」

にいさんは目を剥いて僕に顔を寄せた

「前前前!前見て運転してっ!」
「うおっ…大丈夫大丈夫」
「もうっ」
「…大丈夫なんだ…うん。大丈夫」

自分に言い聞かせているみたい…

「心配なら一緒にいればいいじゃない」
「…ん…大丈夫。それよりギョンビン。昨日お前が教授と行った店、行かない?」
「え?は?何よ急に。ダメだよ!」
「なんでよっ!」
「あそこはだーめ」
「なぁんでっ!」

2日も続けて行ったと知られたら、彼がぶんむくれるじゃない…

「とにかく…ダメなの」
「けちっ!ぐすんぐすん…。せっかく兄弟水入らずでご飯食べられるかと思ったのに…」
「…」
「うぇぇうぇぇ」
「…そう言えば…兄さんと二人っきりで、ご飯なんて…食べた事ないかな?」
「…うん…大人になってからはね」
「…じゃぁさ…RRHでゆっくり…飲んだり食べたりしない?」
「…」
「ん?」
「ひぃぃんっ。うんっ(^o^)」

兄さんは瞳を輝かせてスピードを上げた
RRHに着いてから、隣のマーケットに買い物に行った
兄さんは僕と手を繋ぎたかったらしいが、どう考えても気持ち悪いのでキッパリ断った

あれこれ買い物をした
彼の好きなチーズ
彼の好きなワイン
彼の好きなスウィーツまで買ってしまった
兄さんは惣菜のコーナーで、お洒落そうなサラダやつまみを買っていた

「ワインでいい?」
「うん。でもこれも飲みたいのっ♪」

兄さんはカートの中に紹興酒を入れた

「…」
「好きなのっ♪薬くさくて♪」
「…滋養強壮?」

そういうと兄さんは急にシュンとした

「まむし酒って…効くのかしら…」
「は?!」
「あ…けひんけへん…行こう行こうおにいちゃんがお金出したげるっ♪」

喜哀の表情がコロコロ変わる
ラブ君が傍に居ないと情緒不安定かも…

買い物を済ませて、僕達はRRHに戻った


撮影ー鼓動  足バンさん

生意気な放蕩小娘だった頃
私はアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真に影響を受け
どうしたら彼のように撮れるのだろうと焦っていた

そんな時に出会ったシン監督は言った
ーだからさ…君は何が撮りたいの?
アーティスト気取りだった私はこの言葉に答えることができず
自分の甘さに酷いショックを受けた

落ち込んでいた時期にいろいろな人に出会って
そしてぼんやり考え続けた”気持ちのうつろい”
ひと時たりとも同じ場所にはいない感情という生き物
私は次第にそんなものの存在を切り取ってみたいと思うようになった

ーブレッソンにできず君にできることがきっとある
そんなバカなと思っていた監督の言葉が
今では”もしかしたら”と思えるようなこともある

自分が待ち続けた瞬間を掴んだ時
切り取った瞬間が鼓動を始めた時
そして…そんな瞬間を秘めた被写体に出会った時


今、その”時”が動き始めた

診療所のカウンセリングルーム
黒髪の男が書類をめくる、サインをする、書棚の本を取り出す
隠された自尊心を横顔に匂わす男
日常というものがそのまま続くと思っていた頃のジン

オイルステン仕上げの床や壁一面の書棚を埋める古めかしい専門書
デンマーク製の椅子、アンティークのランプ
隅のソファに無造作に置かれた膝掛け
診療所を経営する院長の特権階級的意識からその部屋を使うジンの趣味など
綿密に打ち合わされ美術スタッフが丁寧に仕上げたものだ

その小さな異世界で
ジンという男をスヒョンさんが艶やかに演じている

彼が患者役の女性の話に耳を傾けるシチュエーションでは
柔らかい表情や声がまさにジンそのもので
スタジオ全体が初日の緊張を忘れてしまうほど自然な空気を醸していた

スヒョンさんがセットに立って
シン監督はやはりジンに白衣はいらないと判断した
縛られることを嫌う彼の内面の表現だという
そしてスタイリストに注文して腕時計をシルバーから黒革のものに替えさせた
ジンという男の輪郭が現場でよりはっきりしていく

「微妙に迷ってたとこがね…現場でビビッとくるんですよ
 シン監督は緻密だけど直感の人でもあるから、何がどう転ぶかわかりませんヨ」

スヒョンさんにかけたジホ君の言葉に
すぐ横にいたミンチョルさんがひっそりとため息をついたように見えた

それにしても
ジンのシーンをモニター横で見ているミンチョルさん
堅い表情を捨ててはいないけれど
早朝にスタジオ入りした時とは比べようがないほどの落ち着きを感じさせる
仕方なく腹をくくった…というにはあまりに静かな面持ち

「催眠術でもかけたの?」と小突くシン監督に
「さぁ…どうでしょう」とスヒョンさんは笑っていたけれど
当たらずもなんとかだったりしてと密かに思う私

でも監督はその後の彼の小さな呟きを聞いただろうか

そんなことなら…楽でしょうね…

時折スヒョンさんによぎる憂いの影には勿論理由があるのだろう
それがジンにどんな影響を与えるのかは未知だけれど
彼のことだ、うまく昇華してくれると思いたいし
”使う側”のクールな視点で言わせてもらえば決して悪いことじゃない
と…つい職業病の”悪魔”が囁く


ーデスクでファイルに目を通していたジンは
ノックの音に顔を上げる
窓からの空気が浅いすじを描いて流れ
開けた木製ドアに立った男の髪をさらりと揺らす
その男を見つめるジン
ふたりの出会い

スヒョンさんがジンブルーなる蒼いセーターに衣装替えする間
シン監督はミンチョルさんに状況の確認をしていた

「ドアが開いた瞬間に何を見た?」
「え…窓…です…」
「窓?ジンじゃないの?」
「風が吹いてきたので…つい…」
「ほぉ…」

監督は意外そうな目をして鼻をヒクつかせた

確かに…ヒョンジュはこれから起こることに興味などない
興味のない彼は真っ先に部屋を見回したりしないだろう
こちらに戻ってきた監督は
「天然ねぇ…思った以上の掘り出し物かもしれない」
そう言って私とチョプロデューサーに眉を上げて二ヤリと微笑みかけた

そんなこんなでミンチョルさんの初シーンは一発でOK
少しぎこちない感じがまた自然で良かったらしいが
自覚しているのかいないのか、彼はOKが出たことにも頓着せず
ドアはこのまま開けていていいのか、などと余計なことをスタッフに聞いている

監督が堪らないという顔でジホ君の肩を叩いていた


ー窓からの風に白いカーテンがふわりと揺れ
それをきっかけにヒョンジュはそちらに視線を向ける

ー音楽を”見て”いるように穏やかなヒョンジュの目
その奥には拭い切れない哀しい色が潜んでいるようだとジンは感じた

監督は画面に映らないスヒョンさんをそのままデスクに座らせた
彼は頬づえをついてヒョンジュの様子を見つめている
そしてミンチョルさんは撮り直しの度にちらりと彼に視線を送っては
アクションの声を聞いていた

風を受けるヒョンジュはジンの想いの原点となる重要なショット
ひたすら美しい陰影の表現に時間をかける

下からの反射板に白い韓紙を使ってみたのは正解だった
柔らかく回り込むような光が淡い水色のシャツを引き立て
瞳の中の底知れぬ静寂が香り立つ

優しさをたたえた遠い眼差し
そしてその奥底に忘れ去られた深い…

繰り返しのアップで目線を追っていた私は気付いた
ミンチョルさんの目の奥にまさにヒョンジュの”哀”の片鱗が見え隠れしている
そこまで役に入ってる?
いや…元々こういう目をした人ではあった
監督もそこにヤラレたとデコを叩いて喜んでいた
でもこんな風だったろうか
ヒョンジュの絶望を知っているかのようなこの…

私はとにかくその貴重な暗い光をも拾おうと思ったのだけれど

ー君には…風が見えるの?

ージンの言葉に振り向くヒョンジュ
彼自身が風であるかのように
遠い過去をすべて置いてきた光のように
ヒョンジュがジンを見つめる
彼がジンの中に何かを感じた瞬間
その目がジンを捕らえた瞬間

今日一番大きな「カット」の声が響き
ヒョンジュの目に集中していた私はハッとした

監督が腕を組んでモニターを睨んでいる
さっきまでの調子とはずいぶん違う渋い表情
彼は耳の上を掻きながらーこれは困った時の彼の癖ーミンチョルさんの元に歩いていった

「うーん…抜群に美しいんだけど…ちょっと寂し過ぎるかなぁ」
「え…」
「何て言うのか…哀しさが前面に出過ぎ」
「哀しさ…ですか?」
「うん…ちょっとモニターにGO 」

覗き込んだモニターには私が今しがた感じたあのヒョンジュがいる
よくわからないといった表情のミンチョルさんを
スヒョンさんはセットのデスクに腰掛けたまま横目で見ていた
人差し指で唇を擦りながら何やら思案しているようにも見える

「ね?かなり哀しそうでしょ?」
「え…はい…」
「ヒョンジュ本人は自分の辛い過去を忘れてるわけだから」
「はい…」
「ここは風が見えるの?っていうジンの言葉への反応が主題
 そんな言葉をかけてくれた人間は初めてで、心に砂漠のひとしずくのように沁みるわけだから」
「でもジンは感じるんでしょ?その哀しさ」

割って入ったのはジホ君だった

「それはヒョンジュも意識してない、しまわれた哀しさだもの」
「でもジンは感じるんだから観客にも感じてもらわなくちゃ」
「だから出過ぎちゃダメなのよ」
「やだ監督ったら難しい!」
「よっしゃ!ちょっと休もう!」

今度割って入ったのは今日ずっと黙って見ていたチョプロデューサーだった

「監督調子出ると周り見えなくなるんだから…ほらみんな喉乾いてヒカヒカでしょ」
「そおか?…じゃ休憩入れよか」
「1時間?2時間?3時…」
「サン、ジュッ、プン、だ!」
「OK!ミンチョル君も休んで…こちらでもちょっと考えてみるから」
「はい…」

何と言うのか…
業界で生き抜いてきた者たちの年期の入った”緩急”は見事なものだ

少しほっとした様子のミンチョルさんは
ふわりと近づいたスヒョンさんに何やら話しかけられて頷いている
ぼんやり見ていると
そのままジンとヒョンジュにクロスフェードしそう

私はジホ君が紙カップの珈琲を差し出してくれるまでその情景を眺めていた

「いやぁ…久々の現場いいですねぇ」
「何かとご苦労さま」
「自分の作品じゃないと客観視できて面白いです」
「それは言える」
「もひとり業界志望の若いのがいて留学準備でヒーコラしてるけど一度見せてやろうかな」
「無理にでも時間作らせて連れてらっしゃいよ…映画論読むより勉強になる」
「そうですねぇ」
「ああ~珈琲おいしい」
「で、どうです?うちの紫シリーズ」
「ミンチョルさんが思ったほど緊張してないのが意外」
「昔は現場にも出てて撮影自体は慣れてますし」
「そりゃそうだろうけどさ」
「あの人って実は思ってるよりずっと平気だって自分で気付いてないんです」
「それ納得…でもやっぱりキツいかなヒョンジュ役」
「今日の出会いのシーンは何気にヤマですからね」
「難しいよあれは」
「大丈夫でしょ…チーフがいるし」
「そうね…ぐひっ」
「スケベな笑い方」
「だって想像してたより濃い~んだもん」
「いい表現だ」
「普段からあんな密度なの?」
「いや…やっぱ映画のせいでしょ」
「ふぅ~ん…」
「そんな話うちの店でしたら身の安全保障しませんから」
「あらま」
「フェラーリに踏まれてアルテミットにド突かれます」
「あらま何それ!面白そう!」

ジホ君がいろいろな意味でさりげなくフォローをしているのがわかる
彼は昔からそんな調子の気遣いの名人だ

すっかり気分を替えながら奥に目を戻せば
件のふたりがスタジオから出て行くところだった

淡い水色の袖は蒼い袖に引かれてドアに消えた


千の想い 159 ぴかろん


*****

トラックを降りてイナの背後に立つ
震える背中にそっと手を添える

「イナ…」

ビクッ

何に怯えてるの?

『ラブが盗るって言うんだ』
『その間にイナさんを手なずけようって魂胆?!』

イナが僕と楽しんでるって?
…こんなに…こんなに苦しそうなこの子と?

君のせいで…君が…
…僕のせいで
…僕が…

君が…僕が…
二人の間に入り込んで
引き裂いた…

胸が痛くなった

『イナを盗るって…』
『その間にテジュンを手なずけようって…』

僕と君は…


「…消えない…」

小さなイナの声に、僕は我に返った

「消えない…消せない…助けて…ヨンナムさん助けて…」
「…イナ…」
「ねえっ!どこでもいいから連れてってよ!どこでもいいから」

顔を上げて突然僕の腰に縋りつき、イナは声を上げて泣き出した
テジュンを…無理に消そうとしている…
こんな風にさせたのは

僕だ…

深呼吸をしてイナの背中を擦りながら聞いた

「どうしたの?何かあったの?消さなくていいじゃない…」
「テジュンがっ…」

まさかテジュンに電話した?
ラブ君との事を…まさか…

「…テジュンが…どう…したの…」
「テジュンがいっぱいで…俺の部屋…テジュンがいっぱいで苦しくて…居られない…居られない…」
「テジュン…の…思い出が?」
「纏わりつく。体中に…心の中に…忘れようとしてたのに…どんどん…溢れてくる…たすけて」

そんなにも…
好きならば…

「…戻るか?テジュンのところへ…」

ひくっという音とともに、イナは動かなくなった
『戻るか』だって?
今更?
ラブ君とテジュンは…イナ…
今夜も…イナ…

僕がラブ君を責めたからか?
ギョンジン君に守られているのに…なぜテジュンに近づくの?

「…もどれない…」
「…どうして?…忘れられなくて、思い出が消えなくて…苦しくて堪らないのに」
「会いたいんじゃないもん!消したいんだもんっ消したい!消したいんだもんっ」
「どうしてそんなに…焦るのイナ…無理に消さなくてもいいじゃない…」

もう元通りにはなれないと解っているのに、僕はなんて残酷な事を言うのだろう
優しくて物分りのいい男のフリ?
ギョンジン君のようになりたくて…か?

…こう言えば…効果的…

通り過ぎた言葉に愕然とする
イナをきつく抱きしめる
いいよ…消してしまおう、あんな奴…
考えもせずラブ君と寝る男なんて…

「行こうイナ」
「…」
「僕の家においで。テジュンは帰ってこないから」
「…え…」

有無を言わさずイナを引っ張り、トラックに乗せた
助手席に括りつけ、車を動かす前にイナの頭を僕の体に凭れさせた
僕にされるがままの押し黙ったイナが可哀想だと思った

イナへの気持ちの外で見え隠れしている僕のどろりとした感情
捉えようと思えば捉えられるその姿に、僕は知らん顔をしている

「苦しまなくていい…可哀想に…」

思いつめなくていい…あんな奴のことを…

こうなったのは
僕の…せいなのに…

*****

テジュンの部屋の前に立つ
ベルを押そうかどうしようか迷う
来てしまった
バカの顔とギョンビンの顔が
イナさんの申し訳無さそうな顔が
ヨンナムさんの…蔑んだ瞳が
次々と頭に浮ぶ…

祭の後、なぜテジュンと…

「好きだったから…。好きだった…からだもん…」

ドアがぼやける
バッグを握り締めてベルを押す
ギィっと開いたドアの向こうに
驚いた顔のテジュンがいた

「…どう…したのラブ…」
「やっぱり」
「…なに…」
「髪の毛、切りに行ってない!」
「…あ…寝てたから…」
「メシは?」
「…いや…」
「なぁんにも食べてないの?」
「…何の用?」

部屋に入れないようにドアを細めに開けて、テジュンは俺と話している
心がずっしりと重くなる

「散髪…したげようと思って…」

震える声を隠すために、握り締めたバッグを掲げる

「…いいよ…帰りなさいラブ。ギョンジンが心配する」
「せっかく鋏持ってきたのに!髪の毛切ったら…そしたら帰るから…」
「…ラブ…」

卑怯だ…
こんな…小細工…
涙が流れた
慌てて俯いた

テジュンがドアを開いて俺の腕をそっと引いた
卑怯な俺はまたテジュンに救われた…

好きだったから…好きになっちゃったから…欲しかったんだ…欲しくて…堪らなかったんだ…会いたかったんだ…テジュンに…

*****

お酒やつまみの用意をしながら、ルームミラーに映っていたダーリンの瞳を思い出した

薄く揺れる瞳

目を閉じて封じ込める
目を開けてここにいる自分を確かめる
僕がグラスやお皿を並べている間にギョンビンがワインの栓を抜き、僕達は夜景の見えるカウンターで乾杯した

「んーーー美味しいっ」
「でしょ?彼のお気に入りのワインなんだ。あんまり飲まないでね」
「なにようっケチ!いいわよ、僕、紹興酒にするからっ」
「あはは。冗談だよにいさんったら」
「…」
「なに?」
「ねねね。『おにいちゃん』って…一回だけ呼んで」
「えええっ気持ち悪いっ」
「ねぇぇん一度だけぇぇ」
「…やだよ気持ち悪いなぁ」
「…ちぇぇぇっ…紹興酒の用意しよっと…お前も欲しい?」
「いいよ。僕、ワインのほうが…」
「そ?」

僕は席を立って燗の用意をした

「にいさん」
「はぁい」
「…ほんとに放っておいてよかったの?ラブ君…」

がちゃーん

「あおおおおっ落っことしちゃったあああ。割れてないっ割れてないわよっひぃぃミンチョルさんに叱られるぅぅ」
「…。にいさん…」

ギョンビンはゆっくりとこちらに近づき、僕がやるからにいさん座ってなよと言った

「ええんおにいちゃんできるからっ」
「できてないじゃない…全く…動揺してるくせにさ」
「ど…どうよう?」

僕が?

「ラブ君、ゆらゆらしてたね……なんで揺れてるの?イナさんと別れてテジュンさんがフリーになったから?」
「…ギョンビン…」
「それでフラフラ」
「違うよ、ギョンビン。ラブは…ラブにとってテジュンさんは…とても大切な人だから…それで心配してるだけだよ…」
「兄さんはほったらかしで他の人の心配?」
「…。ん…。今はテジュンさん、弱ってるから…さ…」
「イナさんと別れる前からラブ君おかしかったよね?ほら、ジャンスさんが来た日…テジュンさんに纏わりついてたじゃない?」
「…あれは僕が…ちっと…。はぁ…ふぅん…」
「…兄さん…。調子狂うな、兄さんがテンション低いと…」
「…うん…。ま、こんな時もあるんだろうね…ふぅ…」
「ラブ君も調子狂ってるのかな?」
「…お前は?…お前は大丈夫なの?」
「…え。…なにがさっ!」
「…あ…う…なんでもない…睨まないで…怖いから…」
「なんだよ!訳わかんない!心配してやってるのにっ。ほんっと調子狂う!」

プリプリと目を吊り上げながら、ギョンビンは紹興酒をいい具合に温めてくれた
それを持って僕達はもう一度カウンターに座った
咽喉にピリピリと沁みるあったかいお酒
それもギョンビンが温めてくれたお酒だ
僕は味わって飲んだ

「兄さんさ」
「…ん?」
「…」
「なによっ」
「…。変わったね…」
「…そ?」
「…。いや…変わってないのかな…」
「…なによ。どっちよ」
「…変わったんだけど、変わってない」
「…」
「ごめん…うまく伝えられない」
「…ううん…言いたいこと解る…」
「そう?」
「…僕の殻を破ってくれたのはイナ。僕をやわらかにしてくれたのは…ラブ」
「…うん…そうだね」
「…でも僕に…愛する事を教えてくれた最初の人は、お前だよ、ギョンビン」
「…」
「くふん…けひっいやぁん…けひん」
「…気持ち悪い…」
「なによっ(@_@;)感動するところでしょっここ(@_@;)」
「…でもとっても気持ち悪い…」
「なによううっ」

ふざけたりマジになったりしながら、僕達は色々な事を話した
パディちゃんたちがなぜ五匹いて、どうしてあの場所にあったのかという謎については、僕達頭脳明晰兄弟の頭をもってしても解らなかった…
(ギョンビンが嘘をついていないなら、パディちゃんたちは自力であそこに集まってきたことになる(@_@;)…『怪!』)
謎のパディちゃん…
やはり生きているのかもしれにゃいっ(@_@;)

ふと夜景に目をやり、また薄く揺れていたラブの瞳を思い出した
ミラー越しに目が合った時、彼は僕に縋ったのかもしれない

捕まえて

同時に離してと、あの瞳は語っていた
突き放したことになるのかな…
でもきっと、無理に引き寄せても…お前の中で整理できないでしょ?

「ラブ君、一人で大丈夫かなぁ」
「もうラブのことは言わないでよ。心配ないから」
「なんで?えらく信用してるね」
「信用…っていうか…うん…なんていうのかな…。あの子はあの子だから…何しても」
「…。ふーん。じゃ、僕は?どうして僕はそんなに心配なわけ?僕も僕なんだけど、何しても」
「お前は僕の弟だからっ(@_@;)おにいちゃんは心配で心配で心配で…」
「…うっとおしい…」
「…ミンチョルさんと離れてて寂しくない?」
「今日会いましたから!心配御無用です!」
「寂しかったらおにいちゃん、抱きしめてあげるからね」
「結構です!お断りいたしますっ!」
「添い寝だってしてあげるよ。子供の頃お前、オバケが怖いって泣きながら僕の布団に潜り込んで来たじゃなぁいくふんげへへんけひん
…ああ…可愛かったなぁあの頃のお前…きいっ」
「もうっ!」
「ねね。紹興酒、一口どう?じょわわーって沁みてたまんないのよぉくふん」
「結構です!兄さんみたくスケベになりたくないからっ!」
「なによう、お前ったらムッツリスケベのくせにぃぃ」
「にいさんっ!」

ギョンビンとの楽しい会話の最中に、ラブの泣き顔が何度も過ぎった
ごめんね、優しくなかったかな…
でも僕は…
僕はいつもここにいるから…ラブ…










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