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ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 271

いいの? 5  ぴかろん


枕に突っ伏した俺の頭にテジュンの声が降りかかる

「馬鹿はお前だ。いいか、僕はこんな事慣れっこなんだ!言ったろう?何度もこんな目に遭った」
「…いやだったんだろ?ヨンナムさんの身代わりは…」
「ああ」
「じゃあイヤだって言えよ…」
「イヤだってのは僕の意思だ。お前の気持ちとは関係ない」
「…」
「…僕はお前が必要なんだ。お前がいないと生きていけない」
「は…大げさだよテジュン…俺みたいな男、いらないよ…」
「それは僕が判断する。僕にはお前が必要なんだ!だからお前を大切にしたいんだ。お前の心も大切にしたい!お前の望みなら叶えてやる!」
「…。なあ。俺がお前に抱かれながらヨンナムさんの名前を呼んでヨンナムさんの顔を思い浮かべて…それでヨンナムさんに抱かれた気になって満足しろってのか?…まるで夢の中のセックスじゃねぇか…虚しいよお前も俺も…」
「そうだ。夢だ。お前とアイツは『お前の』夢の中でしか結ばれない」

淡々と告げられた言葉に、俺の心は反応する
…そうだよな…あの人の望んでいるのは『雌』なんだから…
冷静に状況を判断し、どうしようもない気持ちを宥めすかして葬り去ろうとする俺
…そんなのはイヤだ!あの人が俺を誘うんだ。どこかに俺への『気持ち』が残ってるはずなんだ!…
あの人の心を俺で埋め尽くしたいと駄々を捏ね、できっこないと知りながら奇蹟が起こるように懇願し続ける俺
相反する『俺』を感じて、もう一度枕に突っ伏す
夢の中でなんて…
もう何度も寝たよ、テジュン…

あの時無理にでも抱けばよかった…あの時無理にでも抱かれればよかった…
夢だからいつまでも俺はあの人を諦められずにいる
ジンとヒョンジュみたいにいつまでも囚われてしまう…

ジンとヒョンジュとスヒョンとミンチョル
それからドンジュンとギョンビンの憂い顔がかわるがわる浮んでくる

『お前はあいつらとは違うんだ』

心の奥から響く声
それは俺自身の声だ
解っているのに認めたくなかった
ジンとヒョンジュは夢の中でしか結ばれなかったんだ…
それでも幸せだったかもしれない…あいつらは求め合っていたんだから…

俺は違うだろ?ヨンナムさんと求め合う関係じゃない…俺だけがあの人を欲しがっている
俺にはテジュンがいるのに、テジュンを失くしたくないのに…欲張りな…

ジンとヒョンジュが羨ましい
スヒョンとミンチョルが羨ましい
望めば手に入れられる
手に入れたとしたら…

無理をして望みを叶え、傍にいる人に傷を負わせる
全てを得て全てを失くす
それも…
それもイヤだ…

混乱した頭
イイコでいたい俺の涙
諦め切れない気持ち
ワガママな俺の嗚咽

枕に顔を伏せて泣く俺を、テジュンはゆっくりと仰向かせ、顔を覆った手の甲に静かに口づける
ひくつく喉に、震える腕に、肩に、ゆっくりと柔らかな唇を押し付けていく
感じろと囁きながら、あいつを感じろと命じながら、俺の脳と体を蕩かせていく

混乱したイイコでワガママな俺が
高い波の間で何かにしがみついている
手を離せば波に呑まれて溺れてしまう

感じろ、あいつを感じろ…
漂え…大丈夫だから…

呪文の中で俺はあの人を想い、テジュンの唇で俺はあの人を感じ始める

『愛していると何故わかるかって?彼女は僕の欠点を許してくれる。全てをね。互いの秘密に通じている。胸の一番奥の暗い秘密にさえ…。秘密のない自由…解き放たれ、何も恐れることなく愛し合える。相手の全てを知っているから…』

今日二人で見た映画。アンソニーの長女の夫が『死神』にこう言っていた
俺の胸の奥の秘密までをも、お前は許してくれるの?
どうして?

…お前が僕を許してくれたから…僕の心の中のラブを認めてくれたから…
…したいようにしてきた僕を受け入れてくれたから…
…お前もあいつを『想い出』にできるよ、焦らなくてもいい…

「想い出にならなかったら?お前はどうなるの?」
「僕の心配はしなくていい。僕はここに居る」
「だってイヤだろ?!俺はイヤだった。お前がラブと触れ合うの、俺はイヤだったもん!」
「けど、僕の心を操るようなことはしなかったろ?僕を信じて待っていてくれた…違う?」
「…何度も何度もこんな風に繰り返したら?お前、きっとイヤになる」
「…。お前、僕から離れられる?僕なしで生きていける?」
「…」
「お前に必要なのは僕だよ…アイツじゃない」
「…」

テジュンは微笑んで、丹念に俺の体にくちづけを落とした

感じろ、あいつを…
漂え…大丈夫だから…
あいつを想っていいから…

囁く声に導かれて、俺は躊躇いながらゆっくりとあの人を想う
あの人の唇が這った場所をテジュンの唇が這い、強く吸う
体の芯まで響いて声を上げる
高い波に囲まれた場所で、俺は背中に海を、腹に太陽を感じながらふわふわと漂う
時にヨンナムさんを、時にテジュンを想いながら…
心地よく長い愛撫の後、俺の中に彼が入る
息が止まるほど深く、俺達は繋がる
閉じていた目をあけて、テジュンを見つめる

なんでそんな目ができるんだ
なんでそんなに優しいんだ
俺は今からあの人の名を
お前の顔に浴びせようとしてるのに
なんで…

テジュンがゆっくりと動き出し、俺は息を吐きながら声を上げる
初めの繋がりとは違い、穏やかな混乱が起きる
俺の体を二つに折り、テジュンはもっと深く俺と繋がる
苦痛と快感に襲われ、喘ぐ唇を塞がれ、息ができなくなる
あの人が、テジュンが、俺を甘やかし続ける
唇が離れた瞬間、薄ぼんやりした頭で呟いた

「…ヨ…ンナム…さ…」

それを合図にテジュンは動きを速めた
その背中を抱きしめながら、あの人の名前を続けざまに呼ぶ
体中が熱くなり、弾け飛びそうになる
喉の奥から冷たい涙が駆け上ってくる
熱を帯びた唇が俺の胸を吸う
俺はあの人を呼ぶ
鼻の奥を通って冷たい涙が溢れ出す
テジュンの動きが止まり、俺は息と思考を整えようとする
が、再び『熱いはずの唇』が俺の胸を吸った時、俺の身は『冷たさ』に竦んで捩じられた
驚いて顔を上げると、テジュンは口に氷を含んでニヤリと笑っている

「…すけべじじい…こんな時に遊ぶなよ…」

途切れ途切れに文句を言う俺の額をチョンと突いた後、テジュンは口の中の氷をガリガリと噛み砕いた
そしてもう一度俺の胸に氷の接吻を浴びせる
堪えられずに叫び声をあげる俺

心を通わせようとする時、その壁を飛び越えたとしても跳ね返されるかもしれないと怯える
それでも気持ちを伝えたくて壁をよじ登る
拒否されるのが怖いと震えながら、悔いを残したくなくて爪を立てる
壁を乗越え心が通じ合った時、逃げなくて良かったと喜びを感じる
人と人はそんな風に繋がっていくんだ…

もし俺とあの人の心が通じ合い、こんな風に一つになれたとしたら
俺は喜びに打ち震えるに違いない
でも…

テジュンの動きが一層速くなり、俺の意識は混濁する
体が波打ち、俺はあの人を呼ぶ
何度も何度もあの人を呼ぶ
悲しみと喜びが涙になって俺から離れていく

駄目だと引き止める俺
テジュンを利用してヨンナムさんを感じるなんて
越えてしまえと命ずる俺
テジュンがそうしていいと許してくれたんだ…

越えたら…どうなる?
テジュンは?俺は?

堅く閉じた瞼の裏にテジュンとあの人の顔が浮び、重なり合う
俺はその体にしがみつき、波を来させまいと耐えている
堪えきれるはずがないと解っているのに歯を食いしばって耐えている…

待ち遠しい波
呑まれたくない波
その先にあるもの…

首筋と耳に冷たさの残る舌が這い、体が竦み、俺はついに高波に呑まれる
溺れ沈み震えながらあの人の名を叫び、果てた俺からあの人が消えて行く
力が抜け、ぐったりとなった体を支えられ、唇を吸われる
同じように俺もその唇を吸い、それが離れた瞬間に目を開けた
変わらぬ優しい瞳が俺の全てを許している

テジュン…

その首に抱きついた

俺を許さないでくれ
俺はお前のからだであの人を感じた
恍惚とした快楽への罪悪感
お前を傷つけた罪の意識

「…想い出にできそうか?」
「…俺は…俺を許せない…」
「…」
「想い出になんてできない!」

引きつりながら泣く俺の涙をテジュンは優しく拭う
優しくするなと泣き叫ぶ俺をそっと抱きしめる

お前に酷い事をした
お前に酷い事をした
お前に酷い事をした

まだ余韻の残る体を振り解こうともがく
テジュンはまだ俺の中にいた

離れて
俺から離れて
あの人を感じて喜んだ俺を許さないで!

暴れる俺の腕を押さえつけ、テジュンが静かに話す

「許すも許さないもない。僕にはお前が必要で、僕はお前を愛している。それだけだ、イナ」
「俺は許せない…こんな俺、許せない!」
「ならどうする?」

どうする?

「お前はどうするの?」
「…」

テジュンの声は魔術師のように俺の心を鎮める
失いたくない
どうしたらいい?

「…俺は…こんな風にお前を利用したくない…」
「うん…」
「こんな事…したく…ない…」
「うん…」
「…もしヨンナムさんと…本当に…心も体も通じ合ったら…。それでもお前を失いたくないって思ったら…」
「うん。それがお前の望みだね。それが叶ったら?」
「…最低の気分だ…俺が引き裂かれてしまう…」
「それはイヤか?」
「…」
「ヨンナムも僕も手に入るんだぞ」
「…二人とも傷つけてしまう…」
「うん…」
「耐えられない」
「だったらどうする?」
「…」
「ヨンナムと実際に寝てもいいんだぞ。お前の自由なんだから」
「…」
「僕はラブとそうしたから…お前の感じている辛さが解る。お前の感じるだろう喜びも知ってる。そうしたければしてもいい。僕は辛くてもお前を待ってるから…」
「…しない。できない…」
「どうして?」
「あの人は俺を求めていない…」

そうだ…俺の片思いなんだから…
テジュンの時とは違うんだ…
壁をよじ登って向こう側に着いても、あの人は俺を『友達として』迎えてくれるだけだ…

「一つになんかなれっこない…」

妙に鎮まった気持ちで俺は言葉を吐いた
『お前が女だったらな…』
呟かれた時すべてを悟ったのに、テジュンに話してちゃんと受け止めたと思ったのに

「やっと…染み渡った…テジュン…」
「…早いな、染み渡るの…。僕はもっと時間がかかったぞ」

優しい微笑みを浮べるテジュンにもう一度しがみついた

「離れて欲しいんじゃなかったっけ?」
「…離れたくない…」
「ホント?」
「お前がいなきゃダメだ俺…」
「んふふ。じゃあもう一度聞く」
「…」
「想い出にできそうか?」

俺は小さく首を縦に振った

「ゆっくり。行ったり来たりしながらでいい。ゆっくり想い出にできそうか?」
「…ん…」
「これからは心が乱れてもヤケにならないか?僕と一緒に生きていく覚悟…できてるか?」
「…ん…たぶん…」
「辛い時は僕に頼れ。一人で泣くな」
「ん…」
「きっとまだ辛いと思う…でも僕がいる。忘れるな」
「…ぅん…」
「…愛してる…」
「…ん…」

テジュンの体を抱きしめて、俺は何度も頷いた


撮影ー残照2  あしばんさん

遅めの昼食の間
ミンチョルはほとんど口をきかなかった
周りのスタッフも、声を掛けない
側にいるのはただひとりスヒョンだけだったが、彼も喋らなかった


父親役と母親役の俳優は、既にスタジオ入りしていて
ミンチョルたちと挨拶を交わしていた
この回想シーンだけに登場する大ベテランの女優は
今回、シン監督の作品に是非出演したいと、自分から申し出たいきさつがある

「よろしくお願いします」
「こちらこそ…あら、ミンチョルさん、本読みの時より痩せたんじゃない?疲れてない?」
「大丈夫です」
「シン監督って時々むちゃくちゃやるでしょ?
 ワンシーンが全部アドリブになっちゃったことがあるのよ、今回はやってない?」
「ええ…」
「でもねぇ、私、監督には恩義があるんですよ…」

彼女は、昔、ひとり息子が事故でひどい障害を負った頃
自分を励まし、仕事とプライベートを通して助けてくれたのが監督だと
もうずいぶん昔の話しだが本当に感謝していると話した

「その息子も昨年結婚したのよ、今年は孫も生まれるの」
「そうですか…」
「あの…監督のN.Y.のお友達のお話ご存知でしょう?」
「はい」
「だからね、今回は私が恩返しにと思って…心情的にはとても難しい役だけれど
 私にしかできないシーンにしたいと思ってるのよ」

彼女が自分にそんな話をするのは
勿論、その日の撮影のための布石なのだろうということは想像がつく
しかし、辛いだろう過去をさらりと話し、かつ仕事への情熱を見せるその女優との会話は
ミンチョルの心に沁みるものだった
皆何かを越えて尚生活しているのだということを考えさせられる

その日、僅か数カットを撮ることになっている子役ー少年時代のヒョンジューと
彼女の姿を目にすれば、それは一層強くなる

ふたりの母親を亡くした自分とヒョンジュが重なる
辛くて寂しくて…ひとりきりになった時だけ泣いた
誰にも頼ることのできなかった孤独

彼女がその場を去ると、少し離れて話を聞いていたスヒョンが近づく
それは、そうするのが当然の「間」のように、ごく自然なものだと
今ではスタッフの誰もが認めているふたりの空気だった

「芯の強そうなひとだ」
「ああ」
「お母さんに似てたりして?」
「いや…いや…あまりよく覚えてないから…」
「そう…」
「二度目の母に…」
「ん?」
「どちらかと言えば…二度目の母に似ているのかもしれない」
「そうか」
「…」
「…どうした?」
「スヒョン…」

演技よりも何よりも、自分の感情がどうなってしまうのか
想像もつかないことが恐ろしい
もう長い間処理できぬままに置き去りになっている感情を
掘り起こすような気さえして、ただただ不安な気持ちになっていく

心細そうな視線を落とし、小さく唇を噛むミンチョル
直ぐにでも抱きしめてやりたい気持ちを抑えて、スヒョンは覗き込むように微笑んだ

「ちゃんと見てるから、って言ったでしょ?」

顔を上げれば、そこにはいつものスヒョンの目がある
いつも近くで、ほんの少しの距離をおいて
包み込んでくれる目

そう、スヒョンが見ていてくれる
どうなっても、きっと支えてくれる
そう思えば、何とかなるような気持ちにもなれる

今は…今はこのシーンのことだけを考えなくては
そう思おうとする気持ちの裏には
自分の過去の話以外にも、考えたくないことが潜んでいるのだということは
勿論ミンチョル自身も自覚しているのだが

そして、やはり自分を見て安心したような表情のミンチョルに
スヒョンは鈍い痛みを感じていた
この撮影の間は仕方がないのだといい聞かせながらも
このままでいることなどできないのだと
…それは自分が一番よくわかっている



「この回想シーンは、ほとんどモノトーンでいきます、ええと基本で音声は入りません
 少年時代と、青年時代が交互にフラッシュバックするようなイメージ
 あと青年ヒョンジュはほとんど後ろ姿と表情のアップになるかな」

初めは、ヒョンジュの少年時代の子役の断続的なシーンが続く

父の暴言の盾になって自分を守る母
怯えるヒョンジュ
母に抱きしめられる
ひとり涙を我慢する
父の背中を見つめながらぽつりと立ち尽くす
ヒョンジュ

子役は、ジンの子役同様多くの候補から選ばれただけあって
スタジオの空気を変えるほどのうまさだった
そして父親と母親の息詰まるような迫力に、ベテランスタッフも緊張する

モニター横で撮影を見ているミンチョルの表情に哀しい影がさす

父親にあのような仕打ちを受けたことなどないが
その寂しさと辛さの記憶が、夜の波のように押し寄せてくる
今思えば…なぜ誰かに助けを求めなかったのか
多分…そんなことを考えることなどできなかったんだろう
ただそこに居ることが精一杯だった

横を見れば、その撮影の行方を凝視しているスヒョン
僅かに求めたいと思った暖かい腕は、彼の胸の前で組まれてしまっている
いつもなら、直ぐに振り向いてくれる横顔も
人形のように明かりの方を見つめたままだ

その腕は、ミンチョルの出番がきて立ち上がる時まで
「行っておいで」と言いながら肩をぽんと叩くまで、解かれることはなかった



カメラを背に、深呼吸するミンチョルに監督が声をかける
ー背中で演技してね、背中で

設定では、その頃のヒョンジュは既に感情を失っている
ただ父のいつもの声をいつものように受け止めることが
彼にできる唯一だったのだろう


父親の厳しい言葉をただひたすら聞き続けるヒョンジュ

「この私を幾度がっかりさせたら気が済むんだ!」

グラスの水を勢いよく掛けられるヒョンジュ
伏せた睫毛から滴る水滴
唇を伝う水滴

恐ろしいとは思わないのに、なぜか好きではないその時間
早く過ぎてくれますようにと、心のどこかがくり返していることにも気づかない

大丈夫よと言いながら息子の肩を抱く母親
ごめんねと母が謝るのはなぜなのだろう

そしてラストシーン
狂気のような、しかし恐ろしいほどに静かな母の声
父にぶつけられる憎悪
耳から入ってくる言葉が何を意味するのか

雷に打たれたかのような瞬間
身体の中をひどく黒い塊が一気に突き抜け
すべてが…すべてがどこかに吸い込まれる
何も見えない

いや、見える…
子供の小さなくつ下が見える
かわいい
片方だけだけれど
どうしてこんなところに落ちてるんだろう


既に力の尽きた母親を膝に抱き
ぼんやりと遠くを見つめるヒョンジュ

暫くして周りが騒がしくなる
何が起こっているのかわからない
今膝にある温もりだけはいつも自分のものだったのに

尚、ぼんやりと遠くを見つめるヒョンジュ



「カーーーーーット!OK!です!」

監督がミンチョルの肩を抱き、大袈裟なほどの笑顔を見せると
スタジオに拍手がおこった

「よかった!よかったよミンチョルさん!予想外!いつも驚かされるわ!
 ああ!勿論お母さん、お父さんも最高でした!お疲れさん!最高!」

つい今しがたまで、狂気を演じていた女優が笑顔で身体を起こし
斬りつけられた腹を押さえて色を失っていた父親が
スタッフにおしぼりを受けとりながら握手を求めてくる

ミンチョルはシャツに血のりを付けたまま
まだ現実に戻れずに強張った顔で頭を下げたが
モニターを皆が覗いて、あれこれ口にしている間も
まだぼんやりとしていた

「これで暫くヒョンジュはお休みだな」
「寂しいなぁ」
「さて、じゃあ音楽の方に専念してもらおうかな!」
「監督ぅ~、もうその話は後、後!」
「ジホ君の言いたいことはわかってるって、BHCのこともちょっとは考えろってんだろ?」
「ピンポン!わかってるんなら今日は開放してよね」
「わかってるって、レコーディングもこの調子で行ってもらわないといけないし
 あ、でも直ぐにここに顔出してよ?曲の構成の相談したいから」
「…はい」

返事をしたものの
その時のミンチョルに音楽プロデュースの話しをする余裕はなかった
撮影の余韻があまりに強過ぎて、動揺すらしていたのかもしれない
そして、そのミンチョルに尚も追い打ちがかかった

「ああ、そう、別撮りのヒョンジュ少年と親父の例の桜のシーン、見る?」

シン監督が撮影済みの父親と少年の短い未編集テープを見せた
小さなヒョンジュを抱き、桜の樹の下で見上げているシーン

「どう?ちょっといい感じでしょ?」
「…」
「ここは曲ありがいいかな、やっぱ無音かな、ジホ君どう思う?」
「音がない方が印象的じゃないですか?」
「あと、桜だけ色付けるのってわざとらしい?」
「古くないですか?それ」

ヒョンジュが桜の枝に伸ばそうとしている手
父親はこの作品中たった一度だけの笑顔を見せている
優しかった父の記憶の断片
確かに暖かいと思ったことのある父の手

もうだめだった
耐えられなくなったミンチョルが強く目を閉じる

「それじゃ監督、彼、疲れてるみたいだから…僕は次の準備してきます」
「おっわかった、じゃ、ミンチョルさんお疲れさま、スヒョンさんは1時間後ね」

スタジオ内のスタッフ全員にねぎらいの声をかけられ
スヒョンに促されながら、細い廊下を控え室に向かう

「スヒョン…」
「わかってるから」


ソファにどさりと腰を下ろしたミンチョルの横に座り
その日の午後ずっとそうすることを躊躇っていた肩をスヒョンは抱いた

「よくやったよ…ご苦労さま」
「…」
「疲れただろ?」

ミンチョルはスヒョンの肩に頭をあずけた

「悪かった…本当に…こんな仕事をさせて…」
「いや…」
「でもいいものになると思うよ…監督の言葉は大袈裟じゃない、本当によかった」
「自分じゃよくわからない」
「でもキツかったな」
「大丈夫だ…こうしていれば直ぐに気分もよくなる」

こうしていれば…

スヒョンは裂けぬものを無理に裂くように微笑んだ
それはミンチョルにはいつもの笑顔に見えたのだが
その一瞬前、スヒョンの目に深い辛苦の色が現れたのは見逃していた

「少し休んだ方がいい…店までまだ時間あるでしょ?」
「ああ…おまえは…これからだな」
「ちょっとハードだけどね、何とかなるよ」

言われるままにソファに横になれば
短いため息をついてミンチョルは目を閉じる
場所を空けたスヒョンは床に腰を下ろしてソファに肘を付き
暫くその顔を見ていた

顎の下にほんの少し付いている血のりを、親指で拭ってやる

眩しそうに目を開けるミンチョル
午前のあのシーンそっくりのそれは、ヒョンジュの目だ

束の間の夢
夢はいつか終わる
そこに残した想いは
朽ちずに
ただ朽ちずに


スヒョンはその視線から目を逸らし、立ち上がった

「じゃ、少し楽にしてて」
「ああ…スヒョン…」
「ん」
「無理するな」
「わかってるよ」

なるべく静かにドアを閉め、深呼吸をする


足早に休憩所に向かった
どういったわけかここはいつもひと気がないと、チョンマンが言っていたのを思い出す

もう夕暮れにさしかかってはいたが
西日が硝子ブロックに吸い込まれて、古いステンドグラスのように鈍く輝いている
棟の端の少し暗いこの場所は、何となく寂しさを醸しているのかもしれない

携帯を取り出し、一度息を吐く
そして指を動かした

「ギョンビン?」
『スヒョン…さん?』
「今、ミンチョルの撮影が全て終わった」
『あ…はい…』
「迎えに来てやって」
『え?』
「迎えにきてやってくれと言ってるんだ」

スヒョンには珍しい強い口調だった

「撮影所はわかるね?入って右、Bー2の建物だ、入口には話を通しておくから」
『…あの…』
「いいから、来い!」
『…』
「必ずだ、いいな」
『…はい…』

通話を切ったスヒョンは、目を閉じ硝子に額を押しつけた

らしくもない自分が情けない
初めからわかっていることばかりだ

これ以上でも、以下でもない

…初めから


いいさ…   ぴかろん


どうしてこんなにも穏やかでいられるのかが不思議だった
ヨンナムと、恋人を争うのは昔からのことだ
アイツの身代わりで女を抱くなんてしょっちゅうだった
それはアイツにも言えることで、僕の身代わりばかりさせられたとアイツは愚痴っていた

でもイナは譲らない
ヨンナムもそれは承知している
ただ…イナの心は揺れ動いていて、ヨンナムがチョンエさんと仲がいいことに嫉妬している…

きっとヨンナムが『女性にしか興味が持てない』とわかったからだろう、僕が穏やかなのは
心の広い大きな男に見えるのかもしれないけれど、実際はこんな根拠で成り立っている
ヨンナムの名前を呼ぶイナが憎らしくて可愛い
相反する感情が同時に湧く
僕は聖人君子ではない
ただの欲深いちっぽけな人間だ

どうしても手に入れたいものは一つだけにしなさい
一つだけを手に入れたらそれを大切にしなさい

僕がイナと関わってから得た教訓だ
どうしても手に入れたいのはお前だけ…
お前がいつも『生きて』いられるようにしてあげる
だから僕から離れないでいて…
ずっと僕のそばにいて…
縛り付けるんじゃなくて、見守りたい
お前という人をずっと見ていたいんだ

そんな事を考えながら僕は『ヨンナム』になってイナを抱いた
イナが何かを掴んだ
夢の中で結ばれた快感と僕に対する罪の意識
それが生まれることを僕は知っていた
僕達は欲深い人間だ。でもこの事は知っている

どうしても手に入れたいものは…一つだけのほうがいい…

どっちを選ぶ?どちらでも構わない…
たとえヨンナムを選んだとしても大丈夫だ
僕は待つことができる

ヨンナムに引きちぎられた時とは違う
僕が欲しいのはイナだけだから
いつまでだって待てる
引きちぎられた時間を過ごしたからこそ、そう思える
イナもしたいと思う事をすればいい

もっと時間がかかると思っていたのに
イナは聡い男だ
ヨンナムとは通じ合えないという事をこいつは自分で掴み取った
それは僕にとって嬉しい選択だ

しがみつくイナに、自分でも感動するような言葉をかけた
それは本心には違いないのに、言葉を告げる端々から、否定的な思いが立ち上っている

てじゅ…

呟きに愛しさが募り、こいつは僕だけのものだと強く思う
燻りながら薄くたなびく「裏」の感情を掻き散らす
つ…と腰を揺らし、驚く顔を見る
つ…つつ…

ぁ…や…ぃやだ…

「やだ?酷いな」
「…ひどい?」
「僕はまだ…だもの…」

お前を蕩かす声色を使い、お前の耳の下に印を刻み、短く息を吸う音でお前の体の芯に火を灯す
僕はゆっくりと動き出し、慌て怯える濡れた瞳に微笑み返す
薄く開いた唇から漏れる声を見る
突き出された顎を軽く噛む
滑らかな喉に唇を這わせその後耳朶を啄ばむ

―お前はまだ『僕』に抱かれていないだろう?

お前の好きな風を送りながら僕は呟く
濡れた瞳があちこちに視線を飛ばし僕の体に四肢を絡ませる
ゆっくりと深く、僕を浸す
お前は僕のものだ…僕だけのものだ…イナ…

拡がる独占欲
お前を包んでいるのは僕の愛?
わからなくなる、愛なのか執着なのか
お前だけは手放したくない
一つだけでいい…
それが僕の本心なのかどうかもよくわからない
ただ、今は…
お前を温かく包み込める
それを愛だと感じている
お前の全てを許せると
そう思っている
…今はね…

僕の宝物が僕の体の下でもがきながら頂点を目指す
上りきれずに足掻いている
もう無理だと洩らしている
そんな事はないさ
僕は動き続ける
苦しげに歯を食いしばり
僕のために高まろうとしている
そうだ
僕のために昇れ
僕のために昇って堕ちろ
受け止めてやる
…今なら…

やがて潤んだ瞳を大きく見開き
声にならない声を奏でながら
お前は僕の体を強く抱きしめる
昇れ
僕も共に昇るから
切なく妖しい喘ぎが短く続き
お前は僕と共に頂点に向かう
震える声が僕の耳に届き
僕とお前は達する

こんな
解放感は
初めてだ…

ふっと微笑んだような貌を見せ
直後に落下していくお前
後を追うように落下する僕

この浮遊

叩きつけられる前に手を伸ばしてお前を救う
大きく吸い込まれる息
早鐘を打つ胸に片頬をつけ
生きていると確認する
息を整え僅かに動き僕達は二つ身になる
愛おしい者を掌で撫で
この一瞬に感謝する
いつもこうでありたいと僕は心から願う

確かに
幸せを感じた
愛していると確信した
あの瞬間が永遠に続けばいいのに
それは不可能だと解っている
二度とない瞬間だと
僕は知っている
僕の中の醒めた心と
熱くたぎり続ける想いと
僕の『表』と
僕の『裏』と…
全てが僕
全てがお前
選ぶのは僕達
幸せかそうでないか
愛しているかそうでないか…

僕は今日
幸せであることを選んで
腕の中に愛する人を囲い、穏やかな眠りを得る
明日はわからない…


Distance9 落日 オリーさん  

わずかに空気が揺れるのを感じ
扉が閉まったのがわかったので目を開けた
スヒョンが出て行った
すぐに空気の揺れはおさまり
後には静寂が広がった

つい先ほどまでの撮影所の熱気に比べ、
この静けさはどうだろう

まるで自分の存在までもなくなってしまうような・・

シン監督の、ジホ監督の、スタッフの、
あの優しい女優さんの、ベテランの俳優さんの
そして誰もがその演技に驚嘆したあの子役の
個性溢れる顔たちが、
小さな染みがあるすすけた色の天井に浮かんでは消える
あれは夢か・・

豊かな才能たちの中に混じって
僕はどんな風に立ち振舞ったのだろう
体の中で黒い塊が突然膨張して
それが見る間に僕を飲み込んだ
それ以外は記憶のかけらも見あたらない

それでいいのだろう
あれは僕ではないのだから
あれはヒョンジュなのだから

心の疲労がじわじわと細胞のひとつひとつに伝染し
それがまぶたにまで伝わったところで
僕は再び目を閉じた
頭の奥で暗い小さな宇宙が広がった


僕はなぜ今ひとりなのだろう・・


「聞こえなかった?」

え・・何だって?
誰か・・何か言ったのか・・


あの女優さんの鬼気迫るほどの哀しい表情が
僕の脳裏に点滅する
すべてを断ち切って果てた母親
それを抱きしめるヒョンジュ
突然光が見えなくなり、
暗闇に放り出された

そしてヒョンジュは
言葉も記憶も海の底と同じほどの場所に
深くしまいこんだ


でも僕は・・


母さん
あなたはどんな思いで僕らを残していったのか
身を焼かれるほどの恨みで一杯だったのか
残される僕らを思いひたすら無念だったのか
子供だった僕にはそのどちらも理解できなかった

ごめんね
僕はただ悲しいだけだった
母さんがいなくなることがただ悲しくて
強く抱きしめてくれなくていい
手をつないで歩いてくれなくていい
ただいてくれるだけでよかった
その姿をずっと見ていたかったのに

祖母が僕らに教えてくれた
母さんの悲しみを
母さんの恨みを
父さんの非道を
父さんの仕打ちを

僕は怨恨のかたまりとなって
父さんを超えることだけを考えた
それが僕にできる母さんへの償い
たった一人で旅立たせてしまった母さんへの・・

母さん
もし母さんが生きていたら
ヒョンジュの母親のように父さんを・・
いや、母さんにそんな事はさせない
僕が
僕が父さんを葬って・・
そうすればよかったのかな

母さん
なぜそうしなかったんだろうね
僕の血は半分は父さんの血
この怨嗟を絶つにはそれしかなかったのに

ねえ、母さん
顔を見せてよ
笑っているのはわかるのに
なぜか母さんの顔がよく見えない
ねえ、顔をみせて・・
僕にわかるように・・


「聞こえなかった?」

まただ・・
誰かいるのか・・

違う・・
これはミンの声
ミンが僕に投げつけた言葉だ

「聞こえなかった?僕もあの人が好きだ」

ミン・・
その言葉を言ったときのミンの顔が
あの女優さんの顔とだぶる

あんなことを言わせたのは僕
そこまで追い込んだのは僕
わかっていて気づかないふりをしていた

「ここまでは僕のテリトリーだ」
そう言ったお前の気持ちを
気づかないふりをしていた
ぎりぎりの線でお前が踏みこたえているのに
僕はそれを利用して見て見ぬふりをした

すまない
それでも僕にはその一言が言えない
何てことだろう
僕はやっぱり父さんの子
あんなに蔑み憎み嫌った
父さんにそっくりだ

父さん
僕はあなたそのものだ
自分勝手で強欲で、まわりを不幸にする
そして
最後は大事なものを失う・・
あなたのようになりたくないと願っていたのに・・

あなたが憎んだ息子は
見事にあなたの血を受け継いで
あなたそっくりに成長した

父さん
さあ、拍手してくれ
ミンチョル、よくやった
やっぱり私の息子だと
そして今こそ僕を愛してくれ
忌み嫌ったあなたの息子を

父さん、気が済んだかい・・


母さん
ごめんね
こんな僕を
待っていてくれるのかな


音のない暗い小宇宙でただ一人
僕はとりとめのない想いに埋もれ
やがて考えることにも疲れ始めていた


「聞こえなかった?僕もあの人が好きだ」

またミンの声がして
思わず目を開けた
どのくらいこうしていたのだろう

ゆっくりと起き上がり部屋の中を見渡すと
陽射しは先ほどよりさらに弱まり
殺風景な部屋をかすかに照らしているだけになっていた

足元のすぐ横の
ついいましがたまでスヒョンが座っていた床を見つめた

スヒョンが戻ってきて
その場所に腰をおろしてくれるような気がする
僕の顔を覗き込んで微笑んでくれるような気がする

「ちゃんと見てるから」
「行っておいで」

スヒョン・・まるで父親だ
不安な子供を気遣う慈愛に満ちた父親だ
なぜ、そんな風に愛をふりまける?
いつも変わらない微笑をたたえて・・
自身の苦悩はひとかけらも見せずに

僕は何を返せばいい?
僕はいつも受け取るばかりで
返せるものがない

お前の微笑みは他に向けられるべきなのに
お前の言葉は他の者が受け取るべきなのに
それなのに・・

いや、それも今日で終わりだ
撮影の最初に言っただろう
撮影の間だけ恋をしようと
その恋は今日で終わりだ
もう僕のことは気にかけなくていい

僕は傍らに寄り添ってくれる者さえ
ちゃんと掴まえていられない愚か者だ
そんな僕のことはもう気にしなくていい
愚か者には返せるものがないのだから


ノブを回すかすかな音がした
扉の開く音・・

スヒョン・・・
戻ってきてくれたのか・・
思わず顔を上げて、扉の方を振り返った
扉の前に
薄日に照らし出されシルエットが見えた

誰・・
スヒョン・・
いや・・

消え入る直前の弱い陽ざしを受けて立っているのは

ミン・・

ここにいるはずのないミン・・
なぜ?
幻なのか?

目が慣れるにつれシルエットに徐々に実像が重なる
ミンは後ろ手で扉を閉め部屋の中をひととおり見渡し
そしてソファに腰掛けている僕に目を留めた
ただ、その瞳にどんな色が浮かんでいるのかは
読み取ることができない

今朝も会ったはずなのに
夕べも一緒だったはずなのに
まるで何年も会っていないような気がして
僕の胸は懐かしさで熱くなった

目の奥が熱くなるほど
その姿が懐かしい
喉元が震えるほど
その姿が愛しい
だがやはり僕は愚か者だ

思わず自分の口から出た言葉に絶望した
そして己を呪った

こちらに向かって歩き出していたミンの足が
僕の言葉を聞いて、ゆっくりと止まるのが見えた


「ここで何してる?」


残照3  あしばんさん

僕が、過去に愛した女も男も
皆、自分を見つけて去っていった
そうさせてやることが、僕の仕事のようなものだと思っていたし
そういう者たちの優しさを取り戻した目を見るのが、幸せだった

何の疑問もなくやってきたことだ
ほんの、つい最近まで

僕の、何が、どう変わったのか



「あのね、みんなヤラレてるよ」
「何にです?」
「昼のミンチョルさんのシーンも引きずってるけど、チーフのさっきの演技」

午後遅くなって、ジンのシーンの撮影が始まった
ジホ監督が言っている「さっきの」とは
ヒョンジュの叔母から、行方不明の連絡を受ける場面のことだ

次のシーンのための着替えを済ませ
メイクを直してもらっている僕のずっと後方で腕組みをしながら
彼は感慨深そうに口を開く

「あのさ、チーフ、ひとつ聞いていい?
 あの表情って驚きとか不安と違うじゃない?何考えてたの?」
「…」
「いや、横にいたカメラ助手の子が、いきなり涙ポロッときちゃっててさ
 まだそんなシーンじゃないのにって思ったんだけど、確かにクるものがあった」

僕にもよくわからなかった


「先生、ヒョンジュの姿が見えないんです」

センセイ、ヒョンジュノスガタガミエナインデス

充分にジンとしての心情を作り
カウンセリングルームでの細かいカットを撮り進めていたはずなのに
実際にその台詞を耳にした瞬間
僕は思いもよらないイメージを巡らせていた

ミンチョルや、ドンジュンを思い出したのなら
自分自身にも説明がつく

しかし僕は
テジンの息子、あの坊やを思い出したんだ
花の香りのする庭で会った
なぜか…あの子の…
僕の唇に触れようとする、あの柔らかく小さな手のひら

センセイ、ヒョンジュノスガタガミエナインデス

どうかしていたんだろうか
不安よりも、恐ろしさよりも
身体の皮膚の内側に満ちたのは、愛しさと無呼吸感
全身にビリビリとした透明な波紋が広がった

それは…いつかはそうなると
いつか手放すことがわかっていたかのような…


何ですって?

台本で約束してあったその台詞が出ずに
僕の演技は中断してしまった

しかし、中断ではなかった
カメラは、その不可解な僕の表情を切り取っていて
それは予想もしなかった自失のジンを表現しているように映ったらしい

「すげ…スヒョンさん…すごく良かった…今の」

シン監督が、呆気にとられたように僕に近づき、そう言うまで
OKが出たようには思えなかった


「うん、まぁ入っちゃってる時って、よくわかんないっていうからね」
「…ええ」
「とにかくスタッフまた影響されてその気だから、次もイケると思うよ、うん」

いつにも増してジホ監督が気を遣ってくれるのは
その日からの3日間
ジンが「いかに壊れるか」で映画の序盤の印象が変わるからだ

ただの酒浸りの哀れな男にはしたくない、と

「言わば、朽ちることさえ忘れた成熟した漆黒の果物って感じネ」

シン監督の抽象的な表現は、若いスタッフには不評だが
いつも何かを鋭く伝えてはくれる


その日最後のシーンは
ヒョンジュの「発見」の知らせを、電話で受ける場面
たった数十秒のそれに
撮影前に、先ほどとは比較にならぬほどの時間を取る

電話の向こうの報告者は警察の男

こういったシーンでは実際には通話などしないことも多いし
今回のシーンは、映像上では全て「無音」に編集される予定であるにも拘らず
シン監督は本当にジンの携帯に電話を入れさせた

警察の声の役は、監督の提案で
その時までそんなことをさせられるとは思ってもいなかった機材スタッフ

台詞はひとこと

ーヒョンジュさんが見つかりました

その瞬間のジンの表情をどうするのかは、ずいぶん検討がされた
目を見開くのか、閉じるのか
眉をよせるのか、口を開くのか

実際の僕は、まるで違う反応になったのだが

シン監督は、僕がセットに入ろうとするまで何時間かかってもかまわないと
スタジオの隅で集中する僕を辛抱強く待ってくれた



疲れ切った顔で、電気の点いていない自分のオフィスに帰ってきたジン
後ろ手にドアを閉め
彷徨う赤い目は直ぐ側のソファに向けられる

そこで重なり
息もつけぬほどのくちづけを交わした記憶

ヒョンジュ…

手足が痺れるような不安を押さえて
ゆっくりと窓際まで歩く

月の蒼さにジンの半身が浮かんだ瞬間
ポケットの中で鳴る闇のような音

ぎこちなく張りつめた、少し高めの声は
既に絶望の響きをもっていた


ーヒョンジュさんが見つかりました


身体の中が空洞になる

僕は微動だにせず
目を閉じることも、口を開けるかどうかさえも
全てを忘れてただそこに立っていた

そして…思いがけなく
心の中で電話の向こうの男に返事をした

ーそうですか

恐ろしいほどの冷静

何の抑揚もない
美しく黒く細い一本の線のような

その後…自分が何を考えていたのかは思い出せない
ただ身体のカラがそこにあったような
冷たい浮遊感だけを感じていたような気がする

だから、監督のOKの声が上がった瞬間
アシスタントの女の子が「かわいそ…」と呟いたのも
スタッフが暫く声を出せずにいたこともわからずにいた

誰も予想していなかったジンの表情だったが
監督は、文句なく採用を決めた

そして当の自分は
モニターチェックをするまで気づかなかった
携帯を持った僕の唇が
微かに微笑んでいるようにすら見えたということに

それは
あまりにも哀しい顔だった




ホテルに送ってもらったのは何時頃だったろうか
わざわざロビーに出迎えてくれた総支配人が
ホテル内のレストランはもうラストオーダーだと言っていたから、そんな時間なのだろう

「ああ、食事は全部部屋に運んで下さい、えと、チーフそうでしょ?」
「うん、そう聞いてる」
「伺っておりますが…もう今夜からでございますか?」
「そう、お出掛けは深夜のバーだけネ」

「ふふ…楽しそうですね、ジホ監督」
「そりゃ~もう!監禁されてるチーフなんてサイコーでしょう~?」
「お電話もお取り次ぎしないということですが?」
「ハイ!お願いします~」
「すみませんが、そのようにお願いします」
「かしこまりました」

総支配人は、今回の撮影に協力する旨を何度も強調し
ジホ監督をにこやかに見送った後
自ら部屋に案内をしてくれた


チョンマンが持って来ると言っていた荷物はまだ届いておらず
取り敢えず、ジャケットを放り投げ
奥の部屋のダブルに倒れ込み、転がる

腹は減ってないが、ひどく喉が乾く
そう言えば、控え室でも水を飲んでいなかったかもしれない

疲れた
その日一日がとても長く感じられた


ベッドヘッドの上部を見上げれば
抽象画の大きな額
その精巧で美しい額縁のラインを見ながら
僕は夕刻の撮影所を思い出した

奥に続くホールの隅
精悍な男の横顔
行く先には、疲れて尚気を抜こうとしないあいつの控え室

ギョンビンが
いきなり現れて驚いただろうね


ーそうさせてやることが、僕の仕事のようなものだと思っていたし
ーそういう者たちの優しさを取り戻した目を見るのが…幸せだった

そういうことだ

どうということもない

そう、どうということもない


部屋のカードキィだけをシャツのポケットにしまい込み
最上階のバーに向かう
3日間、ここでは携帯も使用禁止なので、持って出るものもない

街なかのホテルのさほど広くないバーも
夜の最上階ともなれば、異空間のようだ
床から天井までの巨大な硝子の向こうは小さな人工の光が
我こそは星だと言わんばかりに瞬いている

窓に向いたカウンターに腰掛ければ
その灯の中に僕が浮かび上がる
硝子とカウンターの間で、下からの緑色の照明を受け
若いバーテンが言葉少なに注文を聞く

店内にいる数組の客の声と
程よい音量で流れているアニタ・オデイの声が混じり合い
疲れた身体に子守唄のように心地よく響く

その場で眠ってしまおうかとさえ思う

何も考えたくない
何も感じたくない


どれくらい経ったのだろうか

いくつめのグラスだったのかわからなくなった頃
もう目が慣れた硝子の夜景の中に、懐かしいシルエットを見つけた

僕のずっと後方
暗いバーの入口に半身を見せているドンジュン
隅々まで磨かれた美しい硝子は
ダウンライトに切り取られたあいつの濃い陰影を写している

おまえ…見えてないつもりなの?

目の直ぐ奥が熱くなる

その影から目を逸らし
窓の外の、一番遠くの光を見つめる

街の、偽物の、灯…



カウンターの向こうに響く音

アイスピックで崩されていく氷の塊
破片がキラキラと散り、緑の照明に輝く

もう一度硝子に目を向けると
バーの入口の小さな灯りは
ただ暗い床を照らしているだけだった









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