1639515 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 283

Linkage4  Leacy オリーさん  

僕はその朝、大発見をした
エディスも笑うことがあるのだと初めて知ったのだった
理由は、それは…
わが友人の伊達男

研究所の受付をしているエディスは
これぞゲルマン女性の代表と言わんばかりの大迫力の女性
僕よりもはるかに立派な体躯を持ち、厳格なまでに仕事に徹している
つまり…
『怪しい者は中に入れるな』

誰が来てもにこりともせず、枕詞を繰り返す
「アポイントメントはおありですか?」
「こちらにお名前と所属、訪問先とその担当者をお書き下さい」
「このパスはお帰りの際、必ずこちらへお返しください」
「同行者なしに所内を歩きまわることは禁止されておりますのでご遠慮ください」

これは来訪者に対してエディスから下される指令のようなものである
数年前、僕が初めて来た時には、あやうく追い出されそうになったものだ
先月、どこかの国のお偉方が見学に来た際にも指令は例外なく下された
あわてたのは当研究所の所長であるが、エディスはにこりともしなかった
それなのに…ああ、それなのに…
今エディスはにっこりと微笑んでわが友と会話をしている
なぜだっ

「ワインバーグ先生はオックスフォードでいらっしゃいますの?
私もあの街は大好きです。とても美しいキャンパスで感激しましたわ」
おいっ、エディス、君がイギリスに旅行したなんて僕は初耳だ
というか、君がプライベートの話をするのを聞くのが初めてだっ!

「ご出身もオックスフォードですの?」
おいっ、エディス、こいつの出身は受付に関係ないだろう
早くパスを渡してやってくれっ!

「あら、そうでしたの。お母様のご実家がボストン…
ボストンも落ち着いていて美しい街だと聞いております」
おいっ、エリック、ぺらぺらとお前の身元なんか言わなくていい
失業者じゃまずいから、オックスフォードの名前を使えと言っただけだぞ

「ええっ!クンツ博士と大学の同期でいらっしゃる?」
ここで初めてエディスは僕を振り返り、僕の存在に気づいたような…
さっきから僕はここにいるんだけど、まあいいや

「そうなんだよ、エディス、こいつは僕の大学の…」
「クンツ博士に、先生のようなお知り合いがいらっしゃるなんて意外でしたわ」
そりゃ、何がどう意外なんだい、エディス?

「クリスは大学時代から天才で、ハーバードの宝と言われたものですよ」
おっ、わが友、いいところがあるじゃないか

「あらま」
あらまって…それだけかいっ!
そうだよねえ、君は最初思いっきり僕を疑いの目で見たものねえ

「クンツ博士のお友達なら、ワインバーグ先生もさぞかし…」
「クリスは学生時代から飛びぬけていましたから、私などとは比べようがなかった」
「まあ、ご謙遜を。ほほほ…」
ほほほって、声を出して笑えるなんて、知らなかったぞっ!
どうでもいいけど、エリックのパスはどうなったっ!

「エディス、エリックのパスをもらえるかな?」
「もちろんですわ、今準備しているところですの」
ああ、そりゃよかった…って、いつもそんなに手間取らないじゃないかっ!

「こちらがパスになります。これをつけてくださいましね。どうぞごゆっくり」
「ありがとう。こんなに感じのいい受付の方にはお目にかかったことがありません」
おい、エリックっ、この場合リップサービスはまったく必要ないっ
エディスは、ベルリンの壁をもじってマックス・プランクの壁と呼ばれている女性だぞ
そうか…壁はいつか崩壊するのか

「勿体ないお言葉ですわ…」
エディスは頬をわずかに紅潮させている
エリック、もしかしたらこれは軽犯罪に当たるかもしれないなあ

ということで、とにかく僕たちはやっと研究室へ向かった

クリスの研究室に入り、デスクを見た途端足が止まった
デスクの上にはPCの画面が顔を出しているが
キーボードが見当たらない
前面の棚からサイドの棚まで
書類やら本やらファイルやらがぐちゃぐちゃに突っ込んであるが、明らかに飽和状態だ
一部が雪崩を起こして、谷間の机の上に散乱している
もう少ししたら、机の上からさらに床へと雪崩は起きるであろう

が、床はすでに満杯状態だ
椅子のスペース以外は書類がいくつかの山になって盛り上がっている
本当に足の踏み場もない状態を初めて見た

「おい、PCのキーボードはどこだ?」
「ああ、椅子の上にあると思うけど」
「見当たらないぞ」
「じゃ、どこか机の上で埋まってるんだろ」
「ここで仕事してるのか?」
「そうだよぉ」
なぜかクリスは自慢そうに笑った

「この床の書類の塊は何だ?」
「テーマごとに区別してあるんだ」
「この塊に意味があるのか?」
「もちろんさ、この山がパスツール研との共同研究だろ、隣の山は今実験やってるやつだろ、その隣は…」
「もういい、わかったよ」
「わかればいいんだ」
そう言えば、昔からこんな兆候があったような気もする
かなり進化しているが

「触るなよ、ちゃんと整理してあるんだから」
「整理…」
「触られたらわけがわからなくなる」
「わけがわからなく…」
「わかったかい?」
「わ、わかった。で、例のファイルは?この山の中にあるのか?」

「アーメッドもここを見て、なぜか不安そうな顔してたな。
お前どこにファイルを保管しておくつもりだって」
「どこに…その保管とやらをしてある?」
「冷凍室に入れてある」
「冷凍室?」
「ああ、そうだよ」
「フリーザーってことか?」
「それしかないだろう」

「どうして…」
「実験室の奥に冷凍室があってね、実験の試料や細胞を保存してる」
「細胞…」
「おいおい、そんな目で見るなよ。こっちとしちゃ、破格の対応だよ」
「破格の…」
「そうだよ、僕の大事な細胞と同居させてやってるんだ」
「あ、ああ…」
「大事そうな物だったから、念を入れてそこにしたんだ」
「なるほど…」

「研究所自体セキュリティは万全だし、冷凍室に入るには暗証番号が必要だ。
内部はさらに仕切られていて、僕は自分だけのスペースを持ってる」
「自分だけ…」
「そこに入るにはさらに自分の暗証番号で出入りしてるんだ。銀行の金庫並みかもねえ」
「それはすごいな」

「意外性という面では銀行より安全かもねえ。ちょっと取ってくるから、あっちで待っててくれ」
「あっち?」
「このキャビネットの向こうに椅子とテーブルがある。来客用にね」
「来客用…」
「エリック、さっきから復唱ばかりしてるけど、やめてくれよぉ」
「わかった。待ってる」
「退屈だったら、雑誌があるからを読んでてくれ」
クリスはそう言って部屋から出て行った

私は言われたとおり、クリスのキャビネットの反対側に行き
来客用のパイプ椅子…に腰かけた
テーブルの上には無造作にネイチャーやセルが置いてあった
クリス、これは私向きの雑誌ではないだろう


ファイルを取って部屋に戻るとイケメンはお茶を淹れているところだった
「ここの道具は使っていいんだろう?」
「ああ」
「コーヒーでよかったか?」
「いいよ。悪いなぁ、客人にやらせてしまって」
「ところでファイルは?」
「焦るなよ、これだ」
僕はファイルをイケメンに見せてやった

「ちょっと待て。今シールをはがすから」
僕はデスクの引き出しのカッターを取りに行った
密閉にするため、フィルムで巻いて頑丈にシールをしたのだ
エリックは僕がカッターでフィルムをはがすのを大人しく待っていた

「ほどよく解凍されてるよ」
僕は裸になったファイルをエリックに差し出した
エリックはじっとファイルを見つめていた
僕が、ほらと促すと、ゆっくりとそれを手に取った

エリックがファイルを読み始めたので
僕は淹れてもらったコーヒーをすすってそれを見守った
エリックはページをめくり、もどり、そしてめくり
慎重にファイルの中身を読んでいるようだった
その瞳からはまだ何も読み取れない
が、恐ろしく集中していることはわかった

僕はエリックのさめたコーヒーを淹れかえ、自分はおかわりをした
マグカップをエリックの目の前に置いたときだった
エリックが大きなため息をついた

「どうした?何だって?」
「…」
「何だよ?」
「クリス、これからバーゼルに行く」
「バーゼル?」
「悪いがすぐにだ」
「おいおい、待てよ、よかったら僕にもそのファイル見せてくれないか?」
エリックはちょっと考えてから、黙って僕にファイルを差し出した
今度は僕が深呼吸してファイルを開く番だった


クリスは真剣にそのファイルを読み始めた
私は、まだその実態がはっきりとつかめずにいた
あまりに大きな発想だったので
『お前なら気づいてくれるだろう、私が何をしたかったか』
サラ…
こんな事を考えていたのか
本当に…私は…
でも、これを見せてもらったからには
やらなくてはならない
お前と私のために

クリスがため息をついた
ファイルを読み終えたようだった
「どう思う?」
私はクリスに問いかけた
クリスは眼をぱちくりとさせた

「すごいプロジェクトだねえ」
「確かに…だが確認しなくては。だからバーゼルに行く」
「僕も行くよ」
「クリス?」
「車で行った方があっちでこまわりがきく。バーゼルまで400キロもない、僕の車で行こう」
「いいのか?」
「こんな話、めったにお目にかかれるもんじゃない。仲間に入れろよ」
「クリス…」
「いいだろ?」
「ありがとう」

そのとき、若者が部屋に入ってきた
「先生、おはようございます。失礼しました、お客さまでしたか」
「セバスチャン、いいところへ来たなあ。ちょっとおいで」
「何か?」
「こっちは僕の友人のエリックだ」
「初めまして。クンツ博士の助手をしているセバスチャンです」
「よろしく、セバスチャン」
セバスチャンは金髪の巻き毛が印象的な青年だった

「これからちょっとバーゼルに行ってくる」
「え?」
「休暇を取る事にした」
「先生!」
「留守番を頼むね」
「留守番って、午後から所長と打ち合わせが…」
金髪は私とクリスを交互に見つめて戸惑った表情を浮かべた

「君、代わりに出といてね」
「え…僕がですか?」
「適当に報告しといて」
「そ、そんな…」

セバスチャンは困り切った顔で立ち尽くしている
私はクリスに話しかけた
「クリス、いいのか?所長との打ち合わせって…」
「あんなもの、ただ世間話するだけさ」
「彼は困ってるぞ」
「いいんだ、雑用もしてもらわないとね」
クリスはいつものようにくちゃっと笑った

私とクリスの会話を聞いていた青年が食い下がった
「先生、所長との打ち合わせは雑用ですか?」
「そうだよぉ、あまり重要な意味はない。この間の実験の報告でもしておいてくれ」
「でも…」
「セバスチャン、土産は買ってくる、心配するな」
「いりませんっ、僕はスイス人ですから」
「あ、そうだったねえ。じゃ、ご両親に挨拶でもしてこようか?」
「実家はジュネーブですっ!」
「そうかあ、残念。とにかく頼んだよ。エリック行こう」

私は気の毒な青年に声をかけた
「君、すまないね。クリスを借りるよ」
「はあ…」
「年配者で地位が高い人間と話す時は、おどおどしてはいけない。
真直ぐに相手の視線を受け止め、誠実に話すこと。これだけでかなり印象は違うよ」
「そ、そうですか?」
「セバスチャン、こいつの処世術は信用できるぞ。
何たって、あのエディスが笑ったくらいだからな」
「えっ!あの壁が崩壊したんですか?」
「そうなんだ、顔を赤らめて、どうぞごゆっくりだとさ」
「信じられない…」
セバスチャンはなぜか私の顔をまじまじと見つめた

「だからね、セバスチャン、健闘を祈る」
「先生…」
「おどおどしないっ!」
「は、はいっ」
「では、よろしく」
かわいそうなセバスチャンを部屋に残し、クリスと私は外に出た

受付でパスを返す時、横からクリスが楽しそうに言った
「エディス、僕らはこれからちょっとドライブしてくるよ」
「ドライブ…ですか?」
「うん、こいつと二人っきりでね」
クリスは背伸びをして私の肩に手をかけた
私は鉄の守りの女王様に微笑んだ
そして、私たちはクリスの愛車でバーゼルに向かった

*******

「クリス、この車はいつ手に入れた?」
「ええっと、こっちに来てからだから5年くらい前かなぁ」
「それにしては随分と古い感じがするが」
「買った時から中古だからなぁ」
「中古を買ったのか?」
「あたりまえだろ。ここじゃ歩くか自転車が主流だ。車持つだけ贅沢ってもんだ」
「だが、これでバーゼルまで行けるか?」
「僕の車を疑うのか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ほんとにお前は失礼な奴だよ」
「…」
「僕の愛しのミニクーパーにケチをつける気かっ」
「いや、そんなつもりは…」
「なら黙って乗ってろよぉ」


暖かい場所  あしばんさん

ー 僕に黙って出て行かないでくれ

スヒョンの、その蜘蛛の糸のような言葉にすがって
僕は、惚けて座っていたソファから身を剥がし寝室に向かった

そのまま意地を通したところで
溝が深くなることはあっても、埋まることはない
ましてや駆け引きをする余裕なんて
今の僕にはこれっぽっちもない

バスローブを羽織ったままのスヒョンは
ベッドの真ん中辺りに、片腕を額に乗せて横になっていた

部屋の小さな灯りだけに浮かんだ身体
ひどく乱れて床にずり落ちてるベッドカバーは
ほんの少し前の、獣じみたスヒョンの目を思い出させる

「…ョン」

わかってる
この人の僕への愛情が二分の一なわけじゃない
ミンチョルさんと僕の立ってる場所はまるで別なんだから

なのに、スヒョンの言う通り…僕は比べてる
あの人が全て優れてるような気がして
自分は、スヒョンのどこに引っかかってるのかさえわかんなくて
あの人みたいに愛されたいと思い続けて

でも
僕よりあの人への愛情が倍も多いとしたって…
僕もそれだけの愛情が貰えるとしたって…
もし二度と抱き合えなくなったら、どうしたらいい
いつもただ側に座って微笑みかけられてるだけなんて
そんなの、きっと耐えられない

「横に…寝ていい?」

腕を外したスヒョンが暫く僕を見て
それから、その腕をゆっくりとこちらに差し出してくれた
もしかしたら返事はないかもしれないと覚悟してたから
胸の中は、安堵で泣き出しそうだった

僕は、散々待たされ続けた犬みたいにベッドに駆け上り
勢いよくスヒョンの懐に飛び込んだ

腕全体で抱きしめてくれるスヒョンの胸にしがみつく

スヒョンのローブの合わせ目を緩めて
顎と胸の間に顔を埋めた
ただこうしていれば、この香りも永遠のような気さえするから

他に向いてる心に抱かれることに耐えられるのかって
それでも繋がることに意味があるのかって考えたけど
この人の本能を受け入れられるのが僕だけなら
背景なんかどうでもいい

求めれば
毎夜でもこうしていられる特権が与えられてるなら
それが僕だけのものなら
ずっとこのままでもいい

そう思えば楽になれる…ずっとずっと

子供みたいにしがみつく僕の髪に
スヒョンは、何度も何度もキスを落としてくれた
その後「ごめん」って言われないように
僕はもっと強くしがみつく

スヒョンはひと言も発することなく
僕が目覚めなきゃいけないギリギリの時間まで
そうして抱きしめたまま眠ってくれた
ん…僕は少し眠れたけれど、スヒョンはどうだったろうか

たくさんの、途切れ途切れの夢をみたような気がする
内容はまるで覚えてないけれど…



「それで?書類は持って来たか?」
「はい、秘書の方に言われた通り」
「ひどい寝不足のようだな」
「そっ…んなことありません」

パク・ウソクの忌々しい視線に反抗しながらも
顔が勝手に熱くなるのがわかる
たぶん耳の辺りはひどく赤くなってるんだろう
ヤツがどう受け取ったかは考えたくもないけれど
フンと興味なさそうに書類に目を落とされればホッとする

ランチミーティングに指定された店には
約束の時間より随分前に着いたはずだったけど
ギスのところでファイルを用意して到着した直後に
パク・ウソクたちが来た
お供は、NY側と仕事をしたことがある宣伝部のチーフ

創作イタリアンの、良さそうな店だったけど
食欲はまるでなくて軽めのものを頼んだ

「調子でも悪いのか?」
「いえ」
「君は、なぜか何か食ってる印象があるんだが」
「食事をご一緒した憶えはありませんけど」
「ここの払いをしろとは言わないから安心しろ」
「いちいちムカつきますけど、でもホントにいいです」
「悪い細菌にでもやられたのか」
「あ、当たらずも遠からず」
「あ?」
「いえ、大丈夫です、ご心配なく」

どうしたわけか、この男にはいつも見透かされているような気がする
僕が何を想ってるのか、全て知られているような

パク・ウソクが電話で席を立った隙に
宣伝部氏が、こっそりと僕に話しかけて来た
僕と初対面の彼は、最初からひどく困惑した顔で座っていたんだけど

「ドンジュンさんて、ウソクさんのお身内か何か?」
「は?まさか」
「そうですか…あまりに自由に会話してるから…」
「すみません、僕、口悪いから」
「いえ、ウソクさんの方ですよ、普段は必要最低限しか喋らない人だから」
「そうなの?」
「ええ、あんな普通の会話は初めて聞きました」
「普通?」
「あの人がひとの体調を云々言うなんて」
「周りが気を遣い過ぎなんじゃないですか?」
「萎縮しちゃうんです」
「まぁ、初めて会った日は驚いたけど」
「あの人に睨まれたら…」
「クビ?」
「あり得ますね、仕事にはものすごく厳しいんですよ
 今の我が社は実質あの人が立て直してるようなものだから…」

そう言えば、あいつがイタリアから帰国してから
少しずつ業績は好転し始めてたっけ
国内での総合商社の格付けは落ちてはいなかったけど
タコ社長の強引な海外進出が行き詰まっていたのは確からしい

食事をしながら、ひたすら仕事の話を続けるヤツに
何となく痛々しさを感じたのはどうしてだろう
義理の父親と兄の会社を立て直す
この男の想いはいったいどこにあるんだろうかなんて
そんな、ゴシップ的なことを考えたからだろうか


宣伝部氏が先に帰ってから
パク・ウソクは、ふぅと息を吐いて座り直した
黒い制服の給仕が、お茶のおかわりはどうかと聞いて来たが
ヤツも僕も断った
珈琲が嫌いだというワガママ野郎に合わせた紅茶は
名前はわからないけれど、ほんのり甘くてうまかった

「あの…ハリョンは紹介いただいた病院に行ったらしいです」
「そうか」
「ギスから改めてお礼の連絡があると思います」
「わかった」
「…」
「…」
「…あの、もう帰っていいですか?」
「君はクラシックは好きか?」
「は?」
「クラシックのコンサートだ」
「まぁ…嫌いじゃないけど」
「今夜9時半のチケットが2枚あるんだが」
「…」
「何だ、その顔は」
「あなたと?」
「誰が一緒に行くと言った、チケットを2枚くれてやると言ってるんだ」
「あ…ああ、なるほど、んと…」

頭の中には、当然スヒョンの顔が浮かんだけれど
今の状況じゃあまり期待できそうにない
ぐずぐずしてたら、ヤツがスーツの内ポケットから封筒を取り出した

「でも…行けるかどうかわかりません…」
「いい、好きにしてくれ」

決めかねたままだったけれど
取り敢えず、ポイとよこしたその白い封筒を受け取った

店の一方の側には細長い窓が綺麗に並んでいて
濃いブラウンで統一された店内を軽快にしている
その窓の辺りを見てるパク・ウソクは
不本意ながら…スヒョンを思い出させる

何を考えてるのか…
まるで入り込む余地を残さない横顔


いきなり、ヤツが立ち上がった
その視線の先を追うと
あのドーナツショップの未成年の彼女と
彼女にそっくりな、おそらく母親だと思われるような女性が
従業員に案内されて来るところだった

僕は慌ててヤツのスーツの腕を引っ張って引きずり下ろした

「何だ」
「ヤバいじゃないですか!」
「何が」
「逮捕される、逮捕!」
「バカか君は」
「なっ!人がせっかく心配し…」

ムカッ腹を立てた僕の抗議を無視して、ヤツはまた立ち上がった

「まぁウソク、偶然ね!」
「お買い物ですか?」
「ええ、もう帰国まで幾日もないもの、慌ただしくて」
「あまりお付き合いできずに申し訳ないです」
「いいのいいの、あなた忙しいんですもの」
「あ!あなた、この間ドーナツ食べてた方ね?」
「こ…こんにちは」

僕をじっと見つめていた女の子が、とうとう思い出したようだったから
仕方なく立ち上がってペコリとお辞儀をした
母親らしき女性は、笑顔が引きつってるであろう僕に会釈をし
紹介を促すようにパク・ウソクを見た

すごい美女というわけではないけれど
品のある、それでいてクリっとした目が印象的な綺麗な人で
快活そうな雰囲気まで娘とよく似てる

「取引先のカン・ドンジュン君です」
「初めまして、彼のお相手は大変でしょう?」
「はい…あっいえ」
「うふふ…ウソク、お食事は済んだの?お茶はいかが?」
「もう社に戻らなくてはならないので」
「そう、じゃあまた連絡するわね」
「またねオッパ、またねドーナツさん♪」

店の奥に入って行く彼女たちをニッコリと見送ったヤツは
いきなり動いて出口方面に向かう
僕が慌ててその辺のファイルを抱えてテーブルを離れた頃には
うやうやしく見送られつつ重厚なドアから出るところだった

ただでさえリーチの長いヤツの早歩きに合わせて
大通りの歩道を歩いた…ってか小走りだったけど

「あの子、インコー違反じゃなかったんですか?」
「…」
「えっ、まさか母親にはヒミツで悪さをし…」
「バカか!」
「バカバカって言わないでよ!」
「バカをバカと言わずに何と言うんだ」
「これでも一応、あなたのこと心配してやっ…」
「俺の叔母だ」
「へ?」
「あの子は姪だ、文句あるか」
「って…あんな若い叔母さん?」
「ああ」
「ホントに?」

返事がなかったから僕はそれきり続けなかった
考えてみれば、そんな表情のパク・ウソクを見たことはなかったんだけど

「あれ?…会社に戻るんじゃないんですか?」
「ぶらついてから帰る」
「え…」
「何が、え、だ」
「いえ…あなたが ”ぶらつく”ってのがピンとこなくて」
「君は俺を何だと思ってるんだ」
「冷凍機械人間」
「悪魔から、めでたく人間に昇格か」

思いがけず、ふっとほころんだヤツの横顔を見て、僕は歩調を緩めた
正直言ってドキリとした
それほど、ヤツが自然に笑うことは少ないんだけど

「もういい、帰って明日の準備でもしてくれ」
「はい」
「やけに素直だな、気持ち悪い」
「あなたこそ、僕を何だと思ってんですか」
「そうだな…敢えて言えば、ピーピーサンダルだな」
「何だよソレ!」
「知らないか?幼児が履く…」
「知ってるよ!知ってるから聞いてるんだ!」
「さぁな…閃いただけだ」
「せめて生き物で閃けよっ!」

ヤツは、ちょっと笑って肩をすくめると
踵を返して雑踏を歩いて行ってしまった

その後ろ姿に
なぜか、スヒョンの腕の中でみた夢を思い出した

静かで、寂しくて、でも…
どんな夢だったろう


Linkage5  仲介 オリーさん  

僕にできることはありませんか
僕にできることは…
何か僕に…

先生が消えたゲートに向かって何度かそう呟いた
結局何もできないことはわかっている
それでも…

どれくらいそこに立っていたのだろう
ボーディング終了の告知が掲示板に流れたのを見て
やっと僕はその場を離れた

駐車場においてある車に乗って
それでも、まだすぐにエンジンをかけられずにいた
そしてふと思い出した
先輩にもらった資料のことを…
後で見るつもりで、ずっとそのままになっていた
僕はダッシュボードを開いた

******

まだ体の中にアルコールが残っている
体は宙に浮いたような感じなのに、実際には鉛のように重く
昼近くなってもベッドから抜け出せずにいた

イナに酷い事をした
弱くて臆病な僕は…あんな酷い事を
イナはテジュンさんと出て行った
シャツをちゃんとしろよと言って
ちゃんとしなくちゃいけないのは
僕だ…

テジュンさんが言っていた
弟はもう大人だ
僕の心配性が弟の妨げになる…
妨げどころか
もっと悪い…

ああ、でもラブが電話をくれた
僕を待っていると言ってくれた
甘えていいって言ってくれた
本当に?
こんな僕なのにいいのかい?

突然恐ろしい考えが頭に閃いた
昨夜、ラブからの電話が幻想だったとしたら
あの電話が僕の願望の賜物だったりしたら…
あわてて飛び起きた

昨夜の酩酊が恨めしかった
ベッドの上に座り込み、しばらく携帯を握りしめていた
覚悟を決めて番号を押す
途中でフリップを閉じる
また開いて番号を押す
やはり閉じる
開いて…
だめだ、まだ話せない

******

先輩から極秘にもらった資料は、中東のテロに関するもので
CIAやMI6が回してきたものをまとめたものだった
当然のことながら、その内容は各国が共有できる程度の情報にとどまっている
彼らが独自に持つ大事な情報は開示されていない
それでも、その世界から遠ざかっている僕にとっては興味深いものでもあった
僕は必要な個所に絞って、資料を読み進めた

10年に渡るソ連のアフガニスタン侵攻は、ソ連にもアフガンにも将来的に暗い影を落とした
1988年に米国・ソ連・アフガン・パキスタンの間で停戦協定が結ばれ、1989年にソ連は完全に撤退した
膨大な費用を費やしたソ連は路線の転換を余儀なくされ、その3年後に連邦は崩壊する
アフガンもまた国土の大半が焦土と化し、大量の難民が周辺国家に溢れだした
そして10年の間、共同でソ連と戦った多くの派閥が、
今度は覇権をめぐって互いに争う戦国時代となり第一次内戦に突入することになる

******

携帯をベッドの上に置き、のろのろと起き上った
それからシャワールームへ向かった
熱いシャワーを浴びて、体だけでもしゃんとしないと

思い切り栓をひねると
熱いお湯がシャワールームの床を勢いよく落ちてゆく
そのお湯の下に身を投じると、たちまち熱いお湯が体を叩いた
もっと打ってくれ
もっと強く
僕の体を貫くくらいに…

幸せでいて欲しい
いつまでも、ずっとずっと
そうすれば
僕も幸せでいられる
お前の幸せが僕の幸せなのに
あの人といつまでも幸せでいて欲しいのに
あの人と…
あの人…

そうか、あの人だ…

酔いがすっかり冷めた頃、僕はシャワールームを後にした
火照った体をきれいに拭って、僕は身支度を整えた
それでも迷って
それでもすがるような気持ちで
それでも…

散々考えた末に、やはりあの人に会いにいくことにした

ちぎれたボタンとシャツを持ってフロントに行き
クリーニングと直しを頼んだ
シャツをちゃんとしてくださいと言うと
トンプソンさんはかしこまりましたと丁寧にシャツをしまいこんだ

それから僕は、あの人の会社へ向かった
僕にできることはこれしかない

受付であの人に面会を求めると、アポイントがあるかと聞かれた
ああ、そうか
そんなものが必要な立場なのだ、あの人は

「アポはありませんが、僕の名前を伝えてぜひ会いたいと伝えてください」
僕は可愛らしい受付の女の子に愛想のよい笑顔を作った
僕の得意技はまだ通用するだろうか
「お待ちください」
女の子は受話器を持ち上げた

短い会話の後、女の子は受話器を戻した
「お会いになるそうです。エレベーターで5階に行ってください。
右手の突き当りが室長の部屋です」
「ありがとう」
僕は女の子にお礼を言った
女の子は、よかったですね、と言ってにっこりと笑った
僕もにっこりと笑った
通用したぞ

エレベーターの中でもう一度考えてみる
引き返すなら今だ
だが…
自分ではどうしようもない事をあの人に伝えたい
そうすることが正しいかどうかはわからない
だが、伝えたい
ギョンビン、もしお前がこの事を知ったら、怒るだろうね
でも僕ができることは、これしか思いつかない
ごめん

******

1992年派閥間で和平がなり、翌年には和平文書が調印されたが
それも束の間のことだった
1994年には再び大規模な軍事衝突が起こり第2次内戦が起こる
この時に台頭したのが、イスラム原理主義勢力のタリバン
それまでタリバンはひとつのゲリラグループにすぎなかったが、
パキスタンからの援助を受け、1996年にカーブルを征圧しアフガニスタン・イスラム国の成立を宣言する。

最初にあの人の名前が挙がったのは、この前後であった
タリバンがその地位固めに入り北部同盟を追い詰めていく過程で
そのタリバン実行部隊の若きリーダーとして、密かにCIAやMI6からマークされていた

少数民族で構成されていた北部同盟は、
勢力を拡大したタリバンに追いやられ苦しい戦いを続けていた
そして2001年9月リーダーであるマスード将軍が暗殺され、さらなる窮地に陥る
が、その直後世界を揺るがす大事件が起こる
911の同時多発テロ…

******

言われた部屋のドアをノックすると
中からどうぞ、と声がした
そっと扉を開くと、
部屋の奥の大きなテーブルの回りに数人のスタッフと一緒のあの人の姿が見えた
ワイシャツの袖をまくって立っている姿が美しい

「やあ、よくいらっしゃいました」
その人は、片手を上げて僕に笑顔を向けた
「すぐ終わりますから、ちょっとそこにかけて…」
片手がそのまま横にずれ、脇にある応接セットを指した
僕は軽く会釈をして、ソファに近づいた

「もっとインパクトの強い物が欲しい。派手という意味ではない。
意味はわかるね?映画の性格を反映させてもう一度練ってみてくれ、大急ぎだ」
その人は、すぐにスタッフの方に向き直って指示を出していた
スタッフは頷いて、大きなデスクに広げられた何枚もの紙を回収しはじめた

テーブルからその人は離れ、僕の近くにやってきた
僕は立ち上がった
「お仕事中すみません」
「いえ、ちょうどよかった、一区切りついたところです」
その人は、仕草で僕に座るように促し、自分もソファに腰をおろした
どこから見てもやり手のビジネスマン

「初めてですね、こちらに来てくれるのは」
「ああ、そうですね。立派な場所なのでびっくりしました」
「すべて借り物です。雇われですからね」
その人は屈託のない美しい笑顔を浮かべた
その笑顔が弟の物なのだと思うと、僕は少し安心した

スタッフが彼に挨拶をして出て行くと部屋は静かになった
僕は急に落ち着かない気分に襲われた
その人はつと立ち上がると
机の上のインターフォンに向かいコーヒーをふたつと言った

僕はどうやって切り出そうかと考えながら
部屋がきれいだのデスクが斬新だのと、関係のない話題を振りまいた
それもすぐにネタがつき、部屋はまた静かになってしまった
が、扉が開き女性がコーヒーを持って入ってきたので
僕は小さくため息をついた

目の前にコーヒーがおかれ、その人が女性にありがとうと言い、
彼女が頭を下げてさがった
その人がカップを手に取り、コーヒーに口をつけた
僕もつられるようにカップに手を伸ばした
それからその人が一口飲んですぐにカップを元に戻し、僕を見つめたのを感じた

「それで、ご用件はでしょう?わざわざここまで来てくださった…」

その人の瞳が真直ぐに僕に向けられているのを感じながら
また僕は迷い始めた
いいのだろうか…

******

アメリカはテロの首謀者とされたオサマ・ビンラディンの引き渡しをタリバンに要求するが、拒否される
そこでアメリカは北部同盟を支援するという報復に出る
支援を受けた北部同盟は息を吹き返し、やがてタリバンを圧倒していく

この頃からあの人の名前は出てこない
北部同盟を追い落とす直前まで頻繁にその名前が挙がっていたのに
ぱたりとその名前が消えたのだ
なぜだろう…
CIAもMI6もその姿を見失ったのか
それともマークがはずれたのか

オサマ・ビンラディンはCIAが育てた
ソ連のアフガン侵攻をアメリカは黙って見ていたわけではない
アメリカもまた巨額な金をアフガンに投入している
アフガンの不穏分子を教育し、対ソ連のゲリラに仕立てた
その中にオサマがいたというのが、今では一般にも広く知れ渡っている
あの人もまたそうだったのかは、不明だ
年代を考えれば、該当していないと思われた

******

「わざわざ仕事場にいらしてくださったご用件は何でしょう?」
僕の沈黙に対して、その人はもう一度僕に賽を投げた
僕がここにいること自体がすでに手遅れなのだ
カンのいいこの人はすでに何かを感じている
僕は腹をくくった

「僕が今日ここへ来た事を、ギョンビンには知られたくありません」
そう言うと、その人はわずかに身を乗り出して僕の視線を捉えた
「わかりました。ミンに何かありましたか?」
その対応の変化に、僕は乗った
サーファーが待っていた波に乗るように
僕は頷いて話を始めた

最初はオックスフォードで起きたあの事件
ひとつのテログループが壊滅したその裏に秘められた話
そして教授と行ったボストン行きの目的
ボストンの銀行に残されていた物
それによって教授が受けたさらなる傷と哀しみ
それは弟には知られてはいけない事だったのに
僕の不注意で台無しにしてしまったこと

僕はそこまでを一気に話した
その人は黙ってじっと僕の話を聞いていた

「あいつの気性を考えると、あなたにはたぶん何も話してないと思いまして。
これは僕の勝手な思いですが、あいつがこういう状況にいると
あなたに知っていてもらいたくて…それで…迷ったんですが、ここに来ました」
僕は最後の言葉を何とか吐き出した
体から力が抜けた
言ってしまった
ごめん…
ギョンビン、ごめんな…

こんな時でも、長い間の習慣は出てしまうものだ
僕はその人の視線が、
話の途中からコーヒーカップに注がれていたことに気づいていた
僕の話をどう思っただろうか
僕もその人の視線の先のカップを見つめた
今、互いの視線はカップを通じて絡まっている

何も言わないその人の態度に、僕の心の波が高くなる
話したことは失敗だったか
余計なことだったか…
僕は何をしたんだろう…
波が防波堤を超えそうになった時
その人は視線を僕に戻し、言った

「申しわけないことをしました」
「え…」
「本当に申しわけありませんでした」

******

後からロジャースさんが教えてくれた
北部同盟との闘いで、あの人が弟をなくしたことを
それがあの人に大きな影響を与えたのは間違いないのだろう

次にあの人の姿が確認されたのは同時多発テロから3年ほど経ったロンドン
グループがロンドンに潜伏していることのみ記されている
ロンドンで最近起こった爆破事件との繋がりはわからない

それからはロンドンのみならず
ある時はニューヨークでその姿を捉えられ
ある時はルクセンブルグで、フランクフルトで、東京で
これらの都市は、金融の要の都市ばかり
たまたまだろうか
それとも何か意味がある?

そしてここ2年ほどは
ボストンに、ジュネーブに、バーゼルに、そしてミュンヘン
訪れた都市はさらに数を増していた
この人は世界各地で一体何をしていたんだろう

******

その人はかすかに笑みを浮かべながら言った
申しわけないと
だがその人は本当は笑ってなどいないのだ
ただあまりに美しいので
微笑んでいるように見えてしまう
こんな男がいるのだ…
僕はしばし現実を忘れ、その事に感動した

「本当ならば、僕が気づいてやるべきことでした…」
あなたにご心配をおかけする前に、こんな所までご足労いただく前に、
とつけ足してその人は窓の方を見た
その瞳はクリスタルのようにキラキラと光を放ってはいたが
先ほどまでの自信に満ちたビジネスマンのそれとはうってかわって
恐ろしいほどの哀愁を表現していた
何という人だろうか

「あなた方の仕事は、あまり公にできない性質のものだと思っていたので、
僕も敢えてあまり詮索はしなかったという事も事実です。けれど…」
その人は窓の外を見ながら独り言のように静かに呟いた
ミンは何度かシグナルを出していたような気がします
僕はそれを見落としていました
そして…
自分の事ばかりに気を取られていました

僕は窓に向けられたその人の憂いに満ちた横顔を見つめた
あなたを追い込むためにここへ来たわけではない
「あなたのせいではありません、弟はあなたには絶対に知られたくないと思っている。
だから、僕が今ここにいるんです」

その人は僕の言葉に反応し振り返った
「そうかもしれませんね…ミンは僕に言わない。
言うとすれば、最後の最後…あの人の所へ行くと決めた時でしょう。
いや、その時ですら言わないかもしれない」

最後の最後
僕の心臓がどくんと大きな音を立てた
そんな事にならないように
今、僕が…

「そんな時は来ない。弟はそんな事はしない。
するべきではないし、してはいけない。だから…」
思わず興奮した僕に、その人は静かに話しかけた
「問題は…」
「問題?」
「お話をすべて聞いた今でも、僕にできる事は何もないということです」
その人の瞳の色がさらに深くなった
「僕にはミンの苦悩を取り除くことはできません」
「それは…」

そうなのだ
その人にも何もできない
弟はその人に助けを求めたりはしない
自分で考え自分で決め…
それが最悪の事態を引き起こすかもしれない
その人はすでにそれを予測している
なぜなら、その人もまた弟を知っているから
僕と同じくらいに
もしかしたらそれ以上に…

******

ボストンへ行った理由だけはわかっている
先生への手紙…
毎年書き換えられていたあの手紙
あんな風に
あんな風に、人を愛せるのか

あの時、僕が先生に銃を渡さなければ
あの時、先生が撃たなければ
あの時、僕が撃たれていれば
あの時
あの時

あの場面が頭の中ではじけたように蘇り
体が空洞になったような気がした
風が吹き抜けたことさえ気づかない
何も感じる事ができない

あの場面を思い出すといつもそうだ
僕は空っぽになってしまう

******

それから僕らは長いこと静寂の世界にいた
話す事はすでにないような気がした
僕は何をしに来たのか
その人に告げた事は果たしてよかったのだろうか

その人が突然話を始めた
指を組んで、その指先を見つめながら

「僕はこんな風で、いつも何も気づかなくて…本当に申しわけなく思います。
いつも僕が我儘を言って、ミンが怒って…それでもそばに来てくれて…
いつも振り返るとそこにミンがいてくれる、そんな暮らしに慣れてしまって…
こんな事があったなんて気づかなくて…ずっと甘えてばかりでした」

僕に話しているのか、自分に言い聞かせているのか
その人は一言一言を確かめるようにゆっくりと話した
その人の言葉の一つ一つが僕の胸を掴んできりきりと締めあげる

「あなたを責めに来たわけではありません。そんなつもりは…」
たまりかねて僕はその人の言葉を遮って言った
その人はうっすらと微笑んだ
「わかっています。来てくれて本当によかったと思います」
「弟がこの事を知ったら、僕は許してもらえないでしょう」
「そんな事はありませんよ。お兄さんの気持ちはよくわかります。
ミンはもっとよくわかっているでしょう、あなたの気持ちは」

涙が出そうになった
そうだろうか
僕の気持ちをあいつはわかってくれているのだろうか

「これから、できるかぎりミンのそばにいてやります。
少しでもミンが穏やかになれるように、どこにも行かないように祈りながら。
僕ができるのはそれくらいです。それで許してもらえるでしょうか?」

僕は首を横に振った
許すとか許さないという事ではないと言いたかったのに
ぜひそうしてやってくださいと言いたかったのに
なぜか首を振っていた

その事を確かめたかったのだ
その人の言葉を聞いて僕はやっとわかった
ここに来た理由を
その人が弟を…
十字架を背負ってしまった弟を変わらずに愛してくれるだろうか
その事を確かめたかったのだ

そばにいてやってください
ずっとずっと
決して放さずに…

よろしくお願いします
僕はそれだけ言って頭を下げた
それで終わった

その人は、エレベーターまで僕を送ってくれた
「ミンは今日、先輩に会うと言っていました。
何か新しい仕事でもあるのでしょうか?」
「さあ、それは聞いていません」
「そうですか」

「ひとつ、言い忘れた事があります」
ここまで来たら、すべて話しておこう
僕達はエレベーターの前で立ち止まった

******

人は自分の無力を自覚じた時に絶望する
人は自分が不運に遭遇した時に絶望する
そこから這い上がるには、
莫大なエネルギーと強固な意思と気の遠くなるような時間が必要だ

先生、あなたは強い
すでに祈りの言葉を体現しています
ご自分のことだけでも辛いはずなのに
こんな僕のことまで気遣ってくれて

僕は何を返せばいいですか…
あなたがしてくれた事に
僕は何を…

******

「何か?」
「あの先生は大学を解雇されました」
「解雇?何かトラブルでも?」
「以前、店にやってきた大学生を覚えてますか?刺のある綺麗な子です」
「ああ、覚えてます。写真を持ってきた…」
「それです。似たような写真で、弟と教授が映っているものを大学に送ったんです。
貶めるような内容の手紙と一緒に。びびった大学が教授を切りました」
「ばかな・・・」
「まったくです」
「彼はどうしました?」
「騒ぐのは得策でないと思ったのでしょう。あっさり大学を辞めたようです」

「辞めてどうされるのでしょう?」
「わかりません。ついこの間のことです」
「この国で外国から教授を、しかも優秀な教授を招聘できることはめったにない。
そのあたりの事はまったく考慮していないわけですか。残念ですね」
「まったくです。ただ…」
「その事も、ミンは知っているわけですね?」
「そうです」
「わかりました」
「あの・・・」
「何でしょう?」
「教授も立派な人です」
「…」
「ボストンまで一緒に行って、わかりました。
あの手紙のことは弟には言わないようにと、あちらから言ってくれました」
「そうですか…オックスフォードで少しだけ話したことがあります。
あの時からあの人の葛藤は続いていたのでしょうね…」

何を話したのかは、その人は言わずそのまま僕をエレベーターへ誘った
「じゃあ後で店で」
「はい。今日は、その、急にお邪魔してすみません」
「いえ、よく来てくださいました。ありがとうございます」

その人が軽く頭を下げている間にエレベーターの扉は閉まった
僕は大きく息を吐いた

先ほどの受付嬢に挨拶をして、僕は街へ出た
街の空気は、すでにぴんと張り詰め冬の気配を漂わせていた
冬か…
またコートの襟を立てて歩く季節がやってくる
どんなに寒くても、どこかにひとつ暖かい場所があれば
それで人は生きていける
どんなに凍えても…

ラブ、何してる?
迎えに行こうか?
一緒に店に行つてくれるかい?
僕は携帯をポケットの中で握りしめ
結局それを使うことのないまま
店の時間まで街をうろついていた

だめな奴…

******

僕は車の中で考えた
無力な僕に何ができるか…

とりあえず、先生の履歴を汚したままではいけない
先生の解雇は不当だ
大学にそのことを認めさせなければならない
僕は写真に写っていたもう一人の当事者でもあるのだから

それからあの青年に会わなければ
これ以上、先生の人生が土足で踏み込まないように
何とかしなければいけない

この考えは
僕にわずかな活力を与えた

時計を見ると、かなり時間が過ぎていた
市内に戻るには夕方のラッシュが始まるすれすれの時間
明日、大学に行ってみよう
僕はそう決めて、エンジンをかけた

******

その夜、寝しなに彼がそっと僕の手を握った
「どうしたの?」
「何?」
「手なんか握って…」
「いいだろ、握りたいんだ」
「何だか子供みたい」
「いいじゃないか」
「あ、怒った?」
「別に」
「ならいいけど」

僕は握られた手をそっと握り返した
彼がその手をまた握った

僕は
まだこんなに幸せで…


















































© Rakuten Group, Inc.