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ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 289

ため息のゆくえ 3  あしばんさん

僕は、たっぷりと時間をかけて
ほうけた顔を上げた

何で、ここでスヒョンの名前が出て来るの?

すっかりプロジェクト仕様の頭になってる僕を見透かすように
リタはうっすらと微笑んで口を開く

「準備中の新事業、正確には新事業部の発足だけれど…
 AM社との提携は、ようやく最終段階に漕ぎ着けたところ」

Artists Management 社、俳優やモデルを抱えるでかいエージェンシーだ
そこが米の大手広告代理店と手を組むという話は知ってる
リタの会社はそこに食い込もうとしてる
実現すれば、制作、マネージメント、メディアを抱える米最大の企業になる

「ただ、対抗馬がいて、愚かなことにAM社は悩んでるわけ
 ライバルは今回ウィーバーの広告を手がけた会社の系列の英国企業よ
 そこまではご存知なかったでしょう?」
「…ええ」
「あとひと押しで決まりそうなのよ
 そうねぇ…フットボールで言えば、エンドゾーンのライン上に足が掛かったところ」
「…」
「各国での人材、素材集めにはウソクの人脈も大いに役立ってるわ
 今回のおたくの話に最初に興味を持ったのも、既にこれが動いていたから」

頭の中に、パク・ウソクの薄ら笑いが浮かんだ

「あなたの仰っていた通り、欧州・アジアに弱いのよ、AM社は」
「…」
「で、あそこがこの原石に目を付けてるのをご存知かしら」
「…え…?」
「ウィーバーの広告に惚れ込んだみたいよ」
「…」
「おわかり?…チェ・スヒョンは、AM社が欲しがってるモノのひとつなの」
「…持参金ってことですか?」
「わかりやすい言葉ね」
「直接言えばいい」
「プロダクションに所属していないっていうのは扱いにくいらしいわね
 書面での面会要請には、間髪入れずにNOと答えて来たそうだし
 ウィーバーも、撮影中の監督も一切の情報提供を拒否してるらしいわ」
「そういう契約なんです」
「らしいわね、だからあなたなの」
「そんなこと…」
「必要とあれば、ターゲットが使った爪楊枝まで利用するわよ
 うちがここまで大きくなったのは、デザイナーたちの溢れる才能だけじゃないわ」

しれっとして微笑む紅い唇
僕は、力なくファイルを閉じてテーブルに置いた

よく働かない脳が錆びた滑車みたいにガリガリと音を立てる

もし…もしスヒョンがそんなところと契約したら…
確実に今のままじゃいられない
BHCはおろか…もう丸きり違う世界に行ってしまう

「ウソクから、チェ・スヒョンとあなたが同じ職場だと聞いた時は驚いたわ
 私、子供の頃から教会嫌いで母によく叱られたけれど
 巡り合わせっていうのは、お祈りの数じゃないんだって証明できたわね」
「…」
「あなたとは、いい話ができそうだと思ったのよ」
「引き換えってこと?」
「何ですって?あなたのプロジェクトの話と?
 申し訳ないけど、そんな幼稚な発想はこの場で捨ててちょうだい」

きっぱり否定するリタの目が、肯定しているようにしか見えない
いや、そう思うのは僕が冷静さを欠いてるからだろうか

「人脈って言葉を知らないわけじゃないでしょう?」
「…」
「引き合わせて下さるだけでいいのよ、他には何も求めないと誓うわ
 後は全て私たちの腕の問題、あなたとの仕事は100%別の話」

そこまで言われて、信じられるかとごねるわけにも
感情に任せて反論するわけにもいかない
個人的な問題でこの場を台無しにはできない

普通に考えたら…
相手に恩を売るこのチャンスに喜んで飛びつくだろう
キリョンの腹は…チクリとも痛まないんだから

ヘルプ君が、横で心配そうにこっちを見てる
僕はようやく顔を上げ
ありったけの冷静をかき集めて彼女を見た

「お話はわかりました」
「今夜、お願いできるわね?」
「彼の今日の予定は把握してませんので…」

それは、ホントのことだ

「今日も撮影が入ってるはずですから…確認次第ご連絡します」
「ありがとう、よろしく」

極力静かに立ち上がった僕に、今度はリタから握手を求めて来た



アシスト君を待たせて会議室を出た僕は
ひとり秘書室に直行し、パク・ウソクに会わせろと言った

若い女性秘書は、もう少しで会議室に来るから待てと言ったが
どうしてもふたりで話したい
今ヤツのとこに行かせなけりゃ全てから手を退く
そうなったらあなたもクビだと少しばかり声を荒げた

弱り果てた秘書はとうとう電話ーたぶん相手はヤツ直属の秘書ーをかけ
ペコペコと頭を下げながら話し終えると
強張った表情で「ご案内します」と言って立ち上がった


ヤツは、1階下の開発部の一番奥にいた
パク・ウソクとだけ書かれたネームカードの付いた角の部屋は
2辺が硝子で囲まれていて全て見通せる

さして広くはないが小綺麗な空間の白いデスクの向こう側に
ゆったりと座って電話を掛けてる男
彼の背後の大きな窓には、大通り向こうのビル群が見える

直進したままノックもせずに扉を開けると
案内して来た秘書はさっさと逃げ
部屋の直ぐ外で僕に声を掛け損ねたいつもの男性秘書は硬直し
少し離れた場所に並ぶデスクの社員たちは申し合わせたように下を向く
まったく…何が「単なるいち社員」だ

こっちに目を向けぬまま「ドアを閉めろ」と手で合図され
その通りにすると、視界はそのままに広いオフィスの音は遮断された

ヤツは、外貨金利だかの話を滔々と続け
こっちがいい加減イラついて来た頃にゆっくり受話器を置く
そして、初めてドアの前に仁王立ちになってる僕に顔を向けて
何しに来たと言わんばかりに顎を上げた

「その様子じゃ、商談は何とか無事だったようだな」
「無事じゃないってのは、どういう場合ですか」
「あからさまに不機嫌な顔をした子供が、後先を考えずに大事な話を
 一蹴しようとした例がある…つい最近の経験だがね」
「同じ手を使ったわけ?」
「手?」
「知ってたんだろ!交換条件を」
「交換?彼女がそう言ったのか」
「…」
「言っていまい?彼女はうちの社長みたいに単純じゃない」
「あなたが口添えしたんだろ?」
「君は、リタの事務所とのコンタクトを切望していた
 うちはあそことの長年の取引実績がある、たまたま向こうに欲しいものがあった
 その欲しいものと君に接点がある、当然の行動だろう」
「僕にひと言あってもいいだろ!」

パク・ウソクは、デスクの上で指を組んで呆れたような顔をする

「先に言ったら初めからまともな話にならないだろう」
「バカにすんな!」
「君の弱点をカバーしたまでだ」
「な…」
「従弟の件で、君が情に流されやすいのは充分に見せていただいたからな
 出資者として見過ごすわけにはいかない」
「お節介なこった」
「危険回避と言ってほしいね」

ヤツは、ニヤついてた口元を戻すと、ふと真面目な目になった

「いいか、あそことの共同作業は必ずキリョンのプラスになる
 君のところのスタッフだけでは限界が見えている、君の危惧もそこだろう?」
「…」
「違うのか?」
「…いや」
「なら問題はない、目的を忘れるな」

それはそうだ…わかってる

「彼女が君を使って利を生もうとするのも当然のことだ
 俺にムカつく暇があったら、こっちからも利用する方法のひとつも考えろ
 気を抜けば自分たちのペースを見失って足元を見られるぞ」
「…」
「どんな女かわかっただろう?
 ギスが契約書にサインをするまで、侮れないんじゃないか?」

悔しいけど、こいつの言ってることは当然のこと
文句をたれてる場合じゃない…

見るからに部屋に入った時の勢いを失った僕をじっくり眺めてから
パク・ウソクは、妙に静かに口を開いた

「そんなに困ることなのか?」
「…え?」
「君の上司に降って湧いた話が、そんなに困ることか?」
「…」
「愚問か?」
「それは…個人的なことだ」
「そうか、なら尚更冷静になることだな」
「…」
「何もかもを、平和に美しく手に入れようなんて思うな」
「あなたにわかるもんか」
「何が」
「な…何がって…」
「君と彼の仲をか?」

一瞬、頭の中が空白になったあと
全身がカッと熱くなった

「か…かんけ…ないでしょ…」
「君の個人的な問題に興味はないが
 こっちの利益になるか不利益になるかの判断ぐらいはさせてもらう」
「ど…」

どういうつもりでそんなことを聞くのかって言葉を呑み込んで
一度逸らした視線をヤツにぶつけた

「何も言いたくない…あなたになんか」
「なるほど」
「それに…平和に美しくなんてこれっぽっちも考えてない」
「ほう」
「確かに僕は欠点だらけだろうけど、嘘はつきたくない
 もしそうでなくちゃ仕事を続けられないって言うなら、きっぱりやめる」
「…」
「申し訳ないけど…僕にとっての仕事ってのはそんなもんだ
 あなたが利用しようって男は、そういう奴だって思っておいて」
「俺も甘く見られたもんだな」
「後悔しながら生きたくないだけだ」
「…」
「人も金も右から左に動かすことしか頭にない人には、わからないだろうけど」

ヤツは、思いがけなく黙り込んで少しだけ椅子を回転させ
弱い冬の陽射しが入る窓の外に目を向けた

「ふん…まぁそういう見方もできるな」

手ひどい反論だか揶揄だかが返って来ると思ってた僕も
なぜか落ち込んだ気分になって黙り、唇を噛む
噛んだ唇は、あのリタの紅い口元を思い出させた

「でも…感情に…流されやすいのは…気を付けます…」

やっと掛けた言葉にも、ヤツは「ああ頼む」と答えただけだった



その硝子の部屋から出た僕は
パク・ウソクの秘書に、さっきの女性秘書に謝っておいてくれと頼んで
広いオフィスを横切った

ギスに「うまく行きそうだ」という報告の電話を入れ
そして、迷ってからイヌせんせに電話をした
予定表ではスヒョンは定刻に店に出るはずだが、確認すると言う
僕は、もし予定通りなら「予約」を入れてくれるように頼んだ


携帯を閉じてついた長いため息は
誰のためのものだったろうか



 Linkage 8 フランシス1 オリーさん

「体に気をつけろよ」
クリスがそう言って右手を差し出した
それを固く握りしめながら私は頷いた
急ぎ足でバーゼルから戻り、私はもう一度あそこへ帰ることにした
その強行軍を心配顔しながらも、クリスは空港まで送って来てくれた

「ピーエリーブには時々連絡を取ってみるよ」
「ああ、頼む」
「と言っても、あちらの方がしっかりしてるからなぁ」
「確かに。だが彼も一人で大変だろう。話だけでも聞いてやってくれ」
「一番いいのは、お前が早くこっちに来ることだよ」
「わかってる…」
「見つかるといいな」
「え?」
「例の青年さ」
「そうだな」
頷きながら、私の胸は黒い雲に覆われていた


思いがけずピーエリーブの口から出た一言で
私はあの青年の正体を知ったのだった

バーゼルで一晩過ごし、
翌日、ピーエリーブと再び館を訪れた
できれば事務所だけでも早急に移したという彼の意向をくみ、
館の使い道について協議をするためだった

館の1階の奥まった場所に
かなりの蔵書が部屋の天井まで詰まっている部屋があった
それはまるで小さな図書館と言ってもいいくらいだった

「ここは手をつけずに事務所に、君の執務室にしたらどうだろう」
私の言葉にピーエリーブは頭を振った
「これは祖父自慢の蔵書のコレクションです。理事長室の方が合うでしょう」
「いや、そうすると私は仕事をしなくなるだろう…
興味深い本が山のようにある。まるで宝の山だ」
「それはあり得る、エリックはこういうの好きだから」
「お前に言われたくない」
「でも図星だろ」
「それは困りますね。では本はさっそく処分しましょう」
「やめたまえっ」

思わず私が声を荒げたので、クリスとピーエリーブは顔を見合せて笑った
「すみません、冗談ですよ。僕も手放したくありません」
「当然だよ、これは素晴らしい。目録はあるのかな?」
「わかりません。探せばあるかもしれませんが、祖父はそこまでしたのかどうか…」
「それなら君に新しい仕事だ。さっそく目録を作成してくれないだろうか」
「財団の初仕事が目録作りですか」
「文句でも?」
「いえ…ありがとうございます。
このコレクションの価値をわかって下さって嬉しいです」
「これだけで、館の値段が上がっただろう」
「伯父がこのコレクションは売らないと言うのでは、と心配していたのですが、
すべて込みという約束でバルガティ氏が交渉してくれて…」
「伯父さんが本に興味がなくて助かったね」
「ええ」
ピーエリーブは静かに微笑んだ

はっきりとは口にしないが、
親代わりだったという祖父がいなくなって
一族と彼の間にはしっくりいかないものがあるようだ

名家が何代にも渡って繁栄することは非常に難しい
その多くが没落してゆくが、原因は外的要因もさることながら、
圧倒的に多いのは内部からの崩壊だ
一度築いた物を維持しながら延々と引き継いでいくことは
想像以上に困難で、必ずどこかで歪みが出てしまうものだ
後継者選びはその最たるものだろう

彼のような人材が一族の中にいて、主流派でない場合
それを活用しようとするか、排除しようとするかは半々の確率だろう
館を売りに出したという彼の叔父にとって
先代のお気に入りだったピーエリーブは
甥とは言え、煙たい存在だったのかもしれない
彼が一族に固執しない理由はそれなりにあるのだろう
だが、彼は彼のやり方で祖父の遺志を引き継いでいくだろう
残されたコレクションとこの館を守ることで

図書室の隣に小さな書斎があった
「もしよろしければ、こちらの部屋をそのまま僕が使いたいのですが…」
ピーエリーブが遠慮がちに言った
「昔、祖父とよくこの部屋で過ごしたので」
「思い出の場所だね」
「はい」
「だが、君のコンピュータが入ると狭くないかな?」
彼の事務所には、数台のコンピュータが入っていたのを思い出した
「それは大丈夫です」
「ならオーケーだ。さっそく引っ越したらどうだろう。手狭ならその時また考えよう」
ピーエリーブは微笑んだ

ひととおり館の中をめぐり大体の予定を立て終わると
ピーエリーブは改めて感慨深げに言った
「これで随分と肩の荷がおりました。これからが大変ですけど」
「そうだね、大事業の始まりだ」
私たちは、未知への期待と責務の重大さを感じつつ
軽い興奮状態に陥っていた
規格違いの天才だけは、何とかなるんじゃないのぉと、のほほんとしていたが

それから館を後にして、市内のレストランで遅いランチを取った
その頃には、私たちはすでに旧知の友人のようになっていた
ここにもう一人いてくれたら…そう願うのは虫のいい話だが
食後のコーヒーを飲みながら、密かに胸の疼きを感じていたが
ピーエリーブがふと漏らした言葉が私の耳に届いた

「あとは、あの青年が見つかればいいんですけど…」
「あの青年?」
「すみません、これは今度の計画とは関係ありません。
僕がバルガティ氏に個人的に頼まれたことでして」
「サラが君に?」
「バルガティ氏が世話をしていた青年の面倒を見てほしいと。
孤児だった青年を引き取ったとかで」
「サラはそんなことをしていたのか」
「ええ。航空券とチェックを送ったのですが、連絡が取れなくて…」

「それは心配だね」
「手を尽くして探してはいるんですが」
「ロンドンにいるの?」
「教えてもらったのはロンドンの住所でした」
「まさか、あの事件の時…」
「それはありません。組織とは関係ないと聞いています。
実は送った航空券は払い戻されていて、チェックも換金されていました」
「何かあったんだろうか…」
「僕がロンドンまで迎えに行けばよかったのですが、
一度こちらまで来たことがあるので、心配はしていなかったのです」

「名前は?」
「フランシス・ガードナーです」
「イギリス人?」
「ええ、実際は東洋系のハーフだそうですが」
「え…」
「イギリスとコリアのハーフと聞いてます」

そこで稲妻のように私の脳裏にある顔が浮かんだ
まさか…

「君は、君はその青年に会ったことがあるんだね?」
「ええ、一年前に一度だけ。ほんの挨拶程度でしたけど。
バルガティ氏が顔だけでも覚えていて欲しいと言って」
「どんな、どんな感じの青年だった?」

ピーエリーブはわずかに目を細めて言った
「とても印象的でした。一言で言うと、美男子ですよ。
薔薇のような華さがある半面どこか影があるような…」
「ああ…」
思わず漏れた私のため息に、ピーエリーブの方が驚いた
「ご存じなんですか?」

「もう少し詳しい事情を聞かせてほしい」
「僕もあまり詳しくは知らないのですが、両親が相次いで亡くなって
里子に出されたそうですが、その家で折り合いが悪く、
街をうろついていたのをバルガティ氏が引き取ったそうです。
頭のいい子なので、何とか学校に入れてやりたいと言っていました。
それで去年の秋にはこちらへ来て、準備をする予定だったのです」
「そうですか…」
「本人も承諾済みの話だというので、すぐ来てくれるものと思っていたのですが。
ただあの事件と時期がほぼだぶってしまって…」

そこでピーエリーブは、彷徨っていた私の視線を捉えて言った
「心当たりがおありなんですね?」
「いや、確かではないのだが…」
そうは言ったものの
心の中ではあの学生がフランシス・ガードナーなのだと確信していた

クリスとピーエリーブに、
私のクラスにロンドン帰りだと言う学生がいた事を話した
ピーエリーブは、出国していることは思ってもいなかったと唸った

「でも何のためにエリックの所へ?まさか…」
クリスの言葉に、ピーエリーブがきっぱりと答えた
「そのまさかだと思います。もし事件の詳細を知ったとすればその可能性が高い…」
「でもあれは事故みたいなもんだろ?」
「その理屈が通じるかどうか。
あの青年はバルガティ氏をとても慕っていましたから」

そう、何らかの方法であの事件の事を知り
そして、サラを撃ったのが私だと知ったとしたら…

二人の会話を聞きながら、私は記憶の糸を辿った
あの青年は必要以上に私とミン君との仲を疑っていた
事件の事を知っている証拠ではないか
そして最後に言った台詞は何だったか…
あの写真を見せに現れたあの時・・・
確か、後悔すると…
そうだ

『今にわかるよ。僕の気持ちが・・きっと、わかる時がくる』
『後悔するよ、こんな風に僕を無視したこと。きっと後悔するから…』

その言葉を思い出した瞬間、私はクリスに向かって言っていた
「クリス、私は戻らなければ。ミュンヘンへ帰ろう」

一緒に行きましょうというピーエリーブの申し出を断り
私はクリスとバーゼルを後にした
ピーエリーブは別れる間際、私の腕を取って囁いた

「フランシスとバルガティ氏は何というか…とても親しい間柄だったと思います。
ですからフランシスがあなたに悪意を抱いているとすれば…とても心配です」
「それは覚悟している」
「やはり、僕も一緒に行きましょう」
「いや、君はこちらで待機していてくれた方がいい。
彼をこちらへ連れてこれるかもしれない」
「そうですか…ではくれぐれも気をつけて」
「十分な打ち合わせができずに申しわけなかった」
「いえ、時間はたくさんあります。あせらずにいきましょう」
「ありがとう」
「必ず連絡をください。お待ちしています」
「わかった」

私の切羽詰った気持ちをこの青年は理解している
すべてを話していたら、彼は私が止めても一緒に来ただろう
フランシスが悪意を抱いているのは明らかなのだ
その悪意が私の辞職でおさまったのか
それともまだ続きがあるのか…
確かめなくては
ピーエリーブと固い握手をかわし
私はクリスの車に乗り込んだ


次の日の昼の便で私はミュンヘンを後にした

「エリック!」
ゲートに向かって歩き出した私にクリスが声をかけた
ふりむくと、くちゃくちゃ頭が両手を振っていた
「すぐ会おうなぁ!」
「もちろんだ」
私も手を振って答えた

ああ、すぐ会おう

クリスは私がゲートに消えるまで手を振っていたに違いない

そう、またすぐ会おう…

真っ青に澄み切った冬の空に向かって、機体がゆっくりと動きだした


 沸点2 Cell-phone1 オリーさん

痛みと冷気で気がついた
目を閉じたまま、どこにいるのか想像してみた
回りに人はいるのだろうか
あの元警官と車のふたり、そしてたぶんあの青年

回りは静かで人の気配はしない
ゆっくりと目を開くと、暗闇が広がっていた
しばらく目を開けているとしだいに闇に目が慣れてきた
段ボールの大箱が数個置いてあるが倉庫にしては狭い空間
窓がないのは地下なのだろうか

体のあちこちが痛み、後ろ手に縛られた腕が麻痺していた
コートはもちろん、背広も脱がされていた
しくじったという思いがじわじわと胸を締め付けた
だが、相手が動いたのだ
何かが始まる…

しばらくすると、遠くから人の声が聞こえ
鍵を回す音が上の方から響いた
やはり地下室なのか
ドアを開き、灯りがついたのであわてて目を閉じた
階段を降りる複数の足音が聞こえた

そしてその足音が頭の上で止まり
まだ寝てるのか?という声がした
そして次の瞬間、腹に蹴りが入った
お兄さん、起きなよ
あの青年だ…

目を開けるとはたしてあの青年がこちらを見下ろしていた
いい格好だね
青年はおかしそうに声をたてて笑った
ちょっと起こしてあげなよ、話もできない
先ほど車から出てきた二人のうちの一人が腕を取り
無理やりに起こして壁にもたれさせた

ねえ、そんなに会いたかった?
光栄だなあ、お兄さんに探してもらえるなんて
青年はへらへらと笑っていた

顔を上げて青年を見据えた
そして、できるだけ冷静な声で青年に問いかけた
なぜあんな事をしたんだ
青年は相変わらずへらへらしながら言った
あんな事ってどんな事?
その笑いは確信的だったので、くっと頭に血がめぐった

先生は大学を辞めた、君の手紙のせいだ
ふふん、本当の事を教えてやったまでさ
できればあいつがクビ切られるとこ見たかったよ
青年はそう言いながらゆっくりと片膝をついた
目線が同じ高さになった

目の前にきた青年の顔に向かって言葉を投げた
先生は辞職したんだ、解雇じゃない
青年の目が鋭く光った
ふん、どっちだって同じさ、あいつは居場所をなくしたんだ
人を貶めて楽しいのか?
そう聞くといきなり頬に平手が飛んだ

貶めるかあ…あんた全然わかってないね、お兄さん
もう一度、別の頬に平手が飛んだ

君は誰だ?
何だって?
君は誰だと聞いたんだ
はん?
ファン・ミンスじゃない
一瞬青年の顔色が変わったが、すぐに笑顔が張りついた

大学の事務の女性に会ったよ
けっ、あの女がゲロしたのか?
いや、彼女は君をまだ信じてる
ばかな奴、もうとっくに用済みなのにさ
そうだろうな
女ってさ、どうしてああ身の程知らずなんだろうねえ
どういう意味だ?
あんな女でも相手にされてるって勘違いするんだぜ
そうさせたのは君だろう、悪いと思わないのか?
別にぃ、あいつだっていい思いしたんだ、おあいこだよ
勝手な理屈だ

そこで青年はじっとこちらを睨んだ
そして冷たい声で言った

あんな女の事はどうでもいいのさ
お楽しみはこれからだから
お楽しみには役者が欠かせないんだよ
せっかく少しづつ準備してきたのにさあ
ねえ、あいつどこ行ったのさ

青年の顔がまた目の前にきた
間近で見てもきれいな顔だった
透き通るような白い肌にすっきりと通った鼻筋
赤く薄い唇と魅力的な茶色の瞳
瞳は今、獲物を前にしてらんらんと光っている

挑発するような言い方をしてみた
あいつって誰だい?
思った通り、青年は敏感に反応した
髪の毛を掴んで頭をぐらぐらと揺らした
わかってんだろ?あいつって言えばあいつだよっ!
ここんとこホテルにいないじゃないか、どこ行ったんだよっ!
知らないね、見張ってたんじゃないのかい?
言い終わらないうちにまた平手が飛んだ

お兄さん、ヨレヨレなんだからさあ、強がらないで言っちゃいなよ
あいつどこ行ったのさ
知らない、知っていても君には教えない
ちっと舌打ちをして青年は髪の毛を掴んでいた手を離し
両脇に視線を飛ばした

このお兄さんにちょっとわからせてあげなよ
その言葉に、それまで脇に立ってじっとしていた影が二つ動いた
駐車場にいた二人だ
あの元警官はいない

両脇から腕を取られて立たされると拳が腹に入った
くずおれそうになるところを引き起こされて、さらに殴られた
片方が支えて片方が殴る
手順よく二人は事を進めた
手慣れた感じから
こういう事をよくやる連中なのだと思った
少しでも被害を小さく
ただそれだけを考えて、体を丸めた

どれくらいその時間が続いたのだろうか
意識が途切れそうになったその時
突然異質の音が響いた

やめろ!
青年が鋭い声をあげた
男たちの攻撃がやみ、体が床に転がされた
音はまだ響いている

携帯だ
あの音は自分の携帯の音だ
背広のポケットに入れておいたはずの…
床の上でそう思いついた途端、着信音が消えた

きゃははは!

青年の歓声が地下室に響き渡った
電話だったよ、彼氏から
青年の発した彼氏からという言葉にぎょっとした
なぜなら、この空間に絶対に入れてはいけないもの
それは彼の存在だったから

残念ながらお兄さんは忙しくて出られませんでした
青年は楽しそうに笑った
今度かけてきたら代わりに出てあげようかなあ
苦労して床から顔をあげると
青年は想像通りの顔をして微笑んでいた
卑怯者…その言葉を飲み込んだ瞬間
再び携帯が鳴った

青年は笑いながらゆっくりと僕を見下ろし、
それからまたフリップを開いた
今度はメールだよ
えっとねえ、ああ困ったねえ
店が始まる時間だって、お兄さん、どうする?
青年は片膝をついてこちらの目を覗きこんだ
その瞳は喜びに満ち溢れ、きらきらと輝いている

その顔じゃ、ちょっとあの店には出られないねえ
赤い形のよい唇は歓喜のせいで動きが滑らかだ
心配させるといけないから代わりに返事しておいてあげるね
ええっと、どうしようかなあ
そう言いながら、青年は器用に携帯を操っている
ああ、できた、いい感じ
青年は満面の笑顔を浮かべた
ねえ、これでどう?

青年はフリップを目の前に差し出した
それを読んで全身に鳥肌が立った
何度となく葛藤してきた事が目の前で現実になっていた
いとも簡単に
最悪のやり方で
それだけは
だめだ…

ねえ?これ送ってもいい?
青年が嬉々として自分の顔を覗きこんでいるのを感じたが
携帯に打ち込まれた文面から目が離せずにいた
心の底から凍りついていく

やめてくれ…

そう叫びそうな自分を必死で抑え込んだ

また青年の声の調子が変わった
ねえ、あいつどこ行ったのさ、言いなよ
青年の目を見つめると、冷たい光を放っていた

さっさと言いなよ、知ってんだろ?
知らない
嘘つくなっ!
本当だ、知らない
知らないわけないだろっ!
嘘じゃない、本当に知らないんだっ!

へえ、そんなにあいつをかばうのか
ならこれは送ってもいいよねえ

だめだ、やめてくれ!
それだけはやめてくれ!
哀願の言葉が口から飛び出しそうになり
必死で唇を噛んだ

言えよ、あいつの居場所をっ!
いらいらした調子で青年が怒鳴り上げ、
自分は痛みを感じなくなるほど唇を噛み続けた
一度屈したらおしまいだ
次も、その次もなしくずしだ
だから…
でも…

しばらくの間、睨み合っていたが、
ふいに青年はにんまりと微笑んだ
わかったよ、お兄さん、じゃあ送るね
青年の親指がするりと動くのを見て、思わず目を閉じた
体中の血が逆流するような錯覚を覚えた

少しは自分の立場がわかったかな、お兄さん?
これであんたがいなくても心配する人はいないよ
青年が歌うように言った

そうなのだろう
こんな場所で縛られて殴られている自分のことは
誰も気にかけないだろう

メールを受け取った彼は僕に背をむける
僕が消えた理由は背信以外の何物でもないのだから
でも
それ以上にもっと怖いことがある…

ちぇっ、思ったより頑固だったな
お兄さん、一晩ここで頭冷やしなよ
気がつくと、青年は二人の男を従えて歩き出していた
灯りが消され、また闇が広がった

広がった闇の中で
自由にならない体の分も加わり、想いだけが狂おしく交錯した

すでにメールは彼の元へついているだろう
取り返せない
取り返せない…
どうしよう
どうすればいい…

そのメールを信じないで
たとえ自分を許さなくていい
でも、そのメールを信じないで
僕のためでなく、あなたのために
お願いだから…

あの人はそんな事に慣れてない
そんな事をしたら、あの人は心を閉ざしてしまう
傷ついたことも隠して闇に落ちてしまう
ひとりでひっそりと孤独に落ちてしまう
誰も責めず…誰も許さず…
氷の中に埋まってしまうから
お願い
信じないで…

闇の中でしばらく祈ってみたが
胸は絶望でふさがれるだけだった
このまま帰れなかったら
メールは真実になる
先生は本当に旅行に出ているのだから

今朝見渡したあの部屋が思い出された
ふたりの部屋、
暖かくて、彼の香りがするあの部屋
あんな風にあの部屋を見渡したのは
もうそれが自分の手の届かない物になってしまう
その予兆だったのか…

取り返せない
取り返せない

傷ついた体のことは意識の外に飛び
ただ、メールの文面だけが頭の中で暴れまわっていた



『先生とふたりで旅に出ます。もう帰りません…』


沸点3 Cold night1 オリーさん

痛みは冷気と相まって体を麻痺させている
縛られて転がされている不自由な状況を
夢で見たのか、それとも現実に感じているのか
その境目もはっきりしないまま、
闇の中をのたうちまわった

そんな時、いきなり灯りがついて体が震えた
階段を降りてくる足音がした
ひとつの影が階段を降り切り
真直ぐにこちらに歩いてきて、すぐ近くで足を止めた

随分派手にやられたじゃないか
影がしゃべった

見上げると、灯りを背にした男がこちらを見下ろしていた
声で元警官だと言ったあの初老の男だとわかった
後ろから自分に鋭い一撃を下したあの男…
黙っていると、男が膝を折ってさらに話しかけてきた
痛むか?
その声に、ほんのわずか良心の響きがこもっていた

大したことないです
そう答えると、男は笑った
見かけによらず気の強い兄さんだな
その声にはさらに親しみがこもっていた
強がってるわけじゃない、一番効いたのはあなたの突きですよ
男の目線を捉えて答えると、男はまたくっくっと笑った

悪かったな、あの二人じゃあんたはやれない
そうわかっちまったから本格的に手助けしちまった
男はそう言って肩をすくめた

感じる間もなく膝までくだけた、大したものです
正直な自分の感想に男は満足そうに頷いた
剣道では署内で俺に勝てる奴はいなかった
元警官っていうのは本当だったんですね、と言うと、
男は苦笑いを浮かべた
嘘だと思ったか?
ええ
遠慮なく言うと男は視線をはずした

最後まで勤め上げてれば、少しはまともな暮らしもできたろうが…
まあ色々あって、途中でおっぽり出されちまった
じゃあ、車を退職金で買ったというのは?
ありゃ今回の報酬だよ、あんたを無事ここに連れてくるって条件なんだ
最初あんたが入って来た時には正直ビビった
なぜですかという問いに男はあっさり答えた
あちこち付け回して写真を撮ったのはこの俺さ

そうだったのか…
ファインダーの中の被写体がいきなり現れた
飛んで火に入る何とかだったのだ
迂闊だったな
そう思うと、また先ほどの事が鮮明に蘇ってきた
今は何時くらいだろう
もう店は終わった頃だろうか…

*****

そのメールは衝撃的な内容だった
僕は何を感じたのだろう
何も感じなかった
いや、
正確に言えば、メールを見た瞬間、
それを理解することを体全体で拒絶していたのだ

そして、それから僕がした事と言えば
店にきっちり出ていつも通り、いやそれ以上に接客をして
終わった後もいつも通りに皆と話をした
お兄さんにはミンは当分先輩の仕事を手伝うようだと報告をした
それから、不自然でないくらいの時間に店を出た
そういつも通りに
いつも通りでないのは、一人だったことだけ…

車に乗り込みエンジンをかけると思い切りアクセルをふかした
マンションの駐車場に車を停め
エレベーターに飛び乗り、部屋に上がった
エレベーターの扉が開くのももどかしく
急いで部屋のドアを開けてみた

だが
そこはあっけないくらい何も変わりがなかった

ベッドのコンフォーターは整えられ
朝脱ぎ捨てたパジャマはきちんとたたんでその上に置かれている
その脇のサイドテーブルには
読みかけの本には栞が挟まれ閉じられている
ソファに投げだしたバスタオルは片づけられ
乱れた書類は、整然とした山になっていた

いつも通りだ
いつもミンがしてくれたこと…

振り返ってクローゼットを開けてみると
服もほとんど残っている
ひとつだけ確実にないものがあった
この間買ったばかりのコート

あのコートを着ていったのか…

******

男はいきなりポケットから紐を取り出し、踝のあたりを縛り始めた
兄さん、あんた何者だい?
逃げるといけないから縛ってこいってさ
素人じゃないだろ?
黙っていると、男は足をきっちり縛り終えて出て行った

袋叩きにして
後ろ手で縛り上げただけでは足りないのか
あの青年の美しい笑顔が頭に浮かんだ
何がしたいんだ?

しばらくすると男がまた戻ってきた
ここは冷えるだろ、兄さんのコート持ってきてやったよ
男がそう言いながら、肩にコートをかけた
いい上着だな、新品かい?

男の問いには答えなかった
答えると
大事なものがさらに消えていくような気がした
こんな時に着てくるんじゃなかった
汚したりしたら何て言われるか

いや、もうそんな事は気にしなくていいのか…
また胸が苦しくなった

それをこらえるために
こんなことしていいんですか?と話をかえて男に聞いてみた、
相手は笑った
あんたは当分逃がさないようにしとけばいいらしい
こんな場所にほっとくと凍死しちまいます、って言ってやったよ
何が目的なんです?
本当は外人さんの方を最初に連れてくるはずだったんだ
連れてきてどうするつもりなんです?
さあな、俺はドライバーだから、ただ運転するだけ

鉄パイプは持つじゃないですか
あれは、ほら、あんたが普通じゃないから
あの人はいませんよ
何?
本当にここにはいません
ほお
男は目を細めた

そりゃまずいなあ
俺の仕事はあの外人さんとあんたをここに運ぶって約束なんだ
そうしたらあの車が俺の物になる
だが一人いないとなると、どうなるのか…俺にもわからん

ここはどこです?
どこかの金持ちの別荘さ
別荘…市内じゃないんですか?
ま、詳しくは教えられないが、別荘ってのは普通は市内にはないだろ

少しづつ饒舌になってきた男に思い切って言ってみた

逃がしてください

*******

あれを着ていったのか
あのコートを
ふたりで買ったあのコートを
ミンに似合うとひらめいて買ったあのコート

あの時の様子が瞬時に思い起こされた
なぜあのコートが目に入ったのだろう
一時の気まぐれか、それとも何か意味があったのか…
ただ、あれを着て冬の街を歩くミンの姿が浮かんだ
その姿を見てみたいと思った
プレゼントにはならなかった
結局僕も買ってもらったのだから…

自分のコートに目をやってみる
最初にミンが試着したのはこっちだったな
そう言えば、まだ支払が済んでいないはずだ
そこまで考えて、ふと我に返った
そんな事に何の意味がある…

バスルームに行ってみると
歯ブラシも、シェーバーも、香水もそのままだった
すべて残して、すべてそのままで
出て行ったのか

息苦しくなって部屋を出た
無性に喉が乾いていた
キッチンに行って水を飲もうとグラスを取り出そうとした時
目の前のボードに、朝使った食器がしまわれているのに気がついた

いつも片づけろと言われ
いつもそれをしなくて
いつもお前が文句を言いながら片づける
そんなことが続くものだとばかり思っていた
ずっと
ずっと続くのものだと…

突然、突風が体の芯を貫いた

『だから、これをあそこまで運ぶだけだってば』
『…』
『「何でできないの?やる気がないの?』
『「いや…』
『「洗うのはもういいって言ったでしょ、
せめて片付けてくれってお願いしてるだけじゃない』
『それが人にお願いする態度か』
『どうしてそうなの、もういいよ』

皿一枚のことであんなに突っかかって
いつもお前は文句ばかり言うから…
たかが皿一枚、カップひとつのことで
いつも文句ばかり言うから…
だから
だから僕は…

*****

そりゃ、だめだ。俺も車が欲しい
男は頭を振った
なら、RRHのミン…
いえ、マリオットホテルのミスター・ロジャースにこの場所を教えてください
それだけでいいんです、マリオットのポール・ロジャースです

また外人か?そいつ何者だ?
英国大使館の職員です
大使館職員?おいおい、勘弁してくれ。
俺ぁ大ごとに巻き込まれたくない、ただ車が欲しいってだけだ
助けてくれたら大ごとにならずに済むんです、お願いします

しばらくの間、お互い見つめ合った

この男は悪い人間ではない
自分の勘がそう囁いていた
賭けるのはこの男しかいない
男の目にわずかな逡巡の色が浮かんだ

だが、沈黙の後
男の口から出た言葉はやはり否定的なものだった
悪いな、兄さん、こっちにも都合があるんでね
車の他に金ももらっちまってる
僕も払ったでしょう
男は笑った
桁が違うよ、二つばかりな
何ならそっちからもらった金は返そうか?

首を横に振って言った
いえ、お願いします。
マリオットのポール・ロジャースに伝えてください
僕がここにいる事を
だが男は立ち上がった

それから、今夜はほんとに冷えそうだ、と言うと隅の方へ姿を消した
男が消えた方から物音がしていたが、しばらくすると男は戻ってきた
手には大きな布を持っていた
随分でかいカーテンだな、だが何もないよりましだろ
そう言って男はその布を床に広げた
これとそのコートで今夜は我慢しなよ
そう言うと男は階段の方へ歩き出した

だが途中で止まると振り返った
兄さん、あんた只者じゃない
縛られてこんな所に置かれても落ち着いたもんだ
だが気をつけなよ、あいつらはプロじゃない。この意味はわかるな?
あの若造は知らんが、後の二人は腕っ節だけが自慢のノータリンだ
プロなら加減がわかる、あいつらはわからない
命が惜しけりゃ下手に刺激するな、いいな?

そう思うなら、マリオットホテルへ行ってください
もう一度言ってみた
男は手を横に振ってから階段を登りはじめた
入口まで登り切った男に叫んだ

マリオットホテルへ!

返事はなく
ドアは静かに閉められた

男が敷いてくれた布で苦労して下半身を包み
コートにくるまった
このコートが心まで温めてくれればいいのに…

目を閉じると
あの瞳が
暗く彷徨ったあの瞳が
自分を見つめた

ごめんね…
こんなことになるなんて
でも
あの迷いを突き詰めれば、結局はこうなったのだろうか…

違う
いや、違わない
どっちだろう…

一晩中
あの瞳がこちらを見つめていた

******

部屋に戻ってもう一度中を見渡してみた
何も変わらない
ただ、いるはずの相手がいないだけ…

お前の苦しみを共有できなかったことの天罰か
打ち明けて話をしていればよかったのか…
そうなのだろう
どんな事があってもそばにいてやると
言ってやればよかったのだ
一緒に苦しんで一緒に寄り添って歩いてこうと

実際、そうするつもりだったのに
その気持ちを伝えなかった
なぜ言わなかった
お兄さんがあそこまで踏み込んでくれたのに
その気持ちを役立てることができなかった
なぜ…

ポケットから携帯を取り出し
最後のメールをもう一度見てみた

『もう帰りません…』

それだけで終わりか
その一言で終わりか
僕たちのすべてがそれで終わりか
何てあっけない…

待て…
そうだ
まだ返信をしていない
そうか
本気にした? 冗談だよ
案外そんな返事が来るかもしれない
だとしたら、大目玉だ

返信を打ってみた
だが、相手の携帯は電源が切られていて
メッセージは行くあてもなく、戻ってきた

本当に行ってしまったのか
この部屋にすべて残して…
行ってしまったのか…

お前の物に囲まれて
お前の影に囲まれて

ここで、ひとりで息をしろというのか…





















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