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ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

リレー企画 291

(替え歌) 紅蓮の月 ロージーさん  

もう眠らせて
今日を終わらす 本当の闇を連れてきて
窓の外から 紅蓮の瞳
何かを呟く 生ぬるい夜の奥の方

漂えば いつか辿り着くはず
眠る間に 過ぎてゆく
目を閉じて 見なければ
生きてゆけるの

昨日はもう 還らないから
光が欠けてく 真夜の月
誰も知らない 涙の湖(うみ)に
装い-忘れた 迷い子の僕を映してる

彷徨えば いつか明日が見える
見上げれば 星の詩
淋しさも 愛しさも
君がいたから


漂えば いつか辿り着くはず
眠る間に 過ぎてゆく
目を閉じて 見なければ
生きてゆけるの

彷徨えば いつか明日が見える
見上げれば 星の詩
淋しさも 愛しさも
君がいたから

君がいたから…



柴田淳『紅蓮の月』 


沸点7 パセティーク オリーさん  

そのマンションの一室は、意外心にも本人の…
いや今となっては偽名なのだが
ファン・ミンスの名前で借りられていた
大学から1キロばかり離れた所にある新しいマンションで
学生が一人で暮らすには贅沢すぎる物件だ

ここを探しだしたのは僕ではない
郷に入れば郷に従えの諺どおり
こちらの組織に頼んだ
僕の顔もダテではない…としておこう
依頼したのがホテルからの帰り道
返事がきたのが夕刻前
それで早速物件をチェックしにきたわけだ

一応用心しながら中に入る
戸口から真直ぐに伸びた廊下の左右に部屋がふたつ
その向こうにバスルームとトイレ
廊下を抜けた左にキッチンがあり、
窓にむかってリヴィング・ダイニングが広がっている

台所のシンクはカラカラに乾いていて
後ろに備え付けてある冷蔵庫には
飲みかけのミネラルウォーターの瓶と牛乳パックが1本
がらんとしたリヴィングを後にして廊下を戻り寝室に入った

ベッドメークはされていたが、使った形跡はある
クローゼットには衣類が何着かぶら下がり、引き出しには下着類
その脇にダンベルと小さめのスーツケースが置いてあった
ダンベルね…
筋力トレーニングする美少年か

スーツケースには鍵がかかっている
当然、中は調べなくてはならない
小型のナイフを取り出して鍵をこじ開けようとした時
後ろから声がして思わずとびのいた

「なりふり構わずってとこね」

振り向くと局長が立っていた
局長と言っても僕の上司ではないが

「あなたですか。脅かさないでくださいよ」
「さすがに反応がいいのね。それで何か見つかったの?」
「いえ、まだ…」
「そう」

あたりを見回しながら彼女は僕のいる寝室に入ってきた

「ここは何なの?私にも教えてもらえないのかしら?」
アクアスキュータムのトレンチをばっちり着こなした熟女だが、女は女だ
もう約束を反故にしようとしている

「申しわけないけれど、これは僕のイシューですから」
「この部屋を探し当てたのは私の部下よ」
「感謝しています。優秀な部下をお持ちで」
「大学の近辺でファン・ミンス名義で借りられた部屋はないか…ね」
「助かりました」
「私の部下はただ働き?」
「この借りは忘れませんよ」
「ファンと言うと、あのファン財閥と関係があるのかしら?」
「…」
「確か娘と息子がいたわ」
「…」
「教える気はないのね?」
「今回は勘弁してください。そういう約束でしょう?」
「そうだったわね」

彼女はにっこりと笑った

「極東の小さな機関でも、噂は流れてくるわ。たとえば…」
「たとえば?」
「あるテロ組織が壊滅した。MI6のお手柄だけど、彼らは手放しで喜べない」
「…」
「なぜかその組織は莫大な資金を持っていて、壊滅したもののその資金は見つからない。
その資金は見過ごすことができないほどとてもヒュージ。
だからCIAもMI6は今も必死でそのお金を探している…とかね」
「興味深いお話ですね」
「ほんと、面白い話。世界は広いわ」

知的な女性局長は、
開けっ放しになっているクローゼットの中を覗き込みながら話を続けた

「誤解しないで。私は消えたその資金とやらには興味はないの。
たとえ目の前にいるミスターMI6が絡んでいるとしてもね、ただ…」
「ただ?」
「教えてほしいの」
「何を?」
「ギョンビンは関係してるの?」
「…」
「最初、あなたはミンがこちらにいないかと連絡してきた。なぜ?」
「それは…彼がそちらにいるという情報があったから」
「なぜ彼とコンタクトを取りたいの?」
「ちょっと聞きたいことがあっただけです」

クールビューティはゆっくりと僕を振り返った
そしてソフトだが決然とした口調で言った

「私に黙って彼を使わないで」

******

体中に青白い炎を纏ってフランシスが動き出した
彼のしなやかな体は真直ぐに私に向かってきた
その動きをはっきりと見てとれたが
私はただそれを眺めていた
腰のあたりにタックルされ、
のしかかられるようにして倒れた
フランシスは私を押し倒すと、その上に馬乗りになった

「嘘つきめ…嘘つきめ…」
フランシスは呻きながら拳で私の胸を打った
その瞳には憎悪の炎で燃え上がり
頬は上気して、薄いピンク色に変わっている
そして赤い唇からは罵りの言葉が容赦なく飛び出す

青年が本当の感情を表したのを初めて見たと思った
私は抵抗することなく、その責めを受けた
なぜなら痛みは私の傷を癒してくれている
その痛みが激しければ激しいほど
私は許されているような錯覚を感じた

もっと打ってくれていい
もっとだ…

どんな言葉よりも、
この痛みが私を許してくれる
だから…

フランシスの手が喉元にかかった
「あの人がお前を…そんなはずはない…絶対に…」
そう呻きながら、その手に徐々に力が入る
それにつれて体の細胞が酸素を求めて悲鳴をあげ始めた

結局、
私が許されるのはこれしかないのだろう
簡単な事だ

サラ
このままお前の所に行ってもいいか?
このままお前に会ってもいいか?
このまま…

いや…
お前のすべてを賭けて遺した物を形にしなければ
お前は会ってくれないだろう

だが、私がいなくても、あの青年が
ピーエリーブがクリスと共にやってくれる
私でなくとも…

消えてゆく視界の中に
サラの笑顔が浮かんだ

許して…くれるのか…

突然、喉元からの圧迫が消えた
何が起こったのかわからないまま目を開いたが
回りの景色はぼやけていた

ぼやけた世界に焦点が合うと、
私の脇にフランシスと君が横倒しになっているのが見えた
君がフランシスに体当たりをしたのだろうか
私は思わず上体を起こした

戸口の方角から男が二人駆け寄って君をおさえ込んんだ
両肩を掴まれた君は床から顔を上げ、ゆっくりと私に視線を向けた
その瞳の色を見て私は我に返った

先生、なぜここにいるんですか…
先生、なぜここに来てしまったんです…

君の瞳は叫んでいた

******

女は僕を見つめたまま視線を離さない
仕方なく僕は答えた

「そんなつもりはありません、けれど約束もできない。彼は今フリーのはずだ」
「そうフリーよ。でもフリーの意味が違う。あの子はもうこの仕事からフリーなの」
「…」
「あの子はこの仕事には向いてない。
だから別の世界に行くと決めた時、私は止めなかった」
「向いてない?十分有能だと思いますがね」
「能力の問題じゃない。向いてないのはあの子の性格。それをわかっていてこの世界に呼んだのは私だけど…
それであの子は傷を負った、取り返しのつかない傷を…だから止めなかった」
「傷?」
「婚約者を目の前で亡くした、式の当日に。仕事関係の逆恨みだったわ」

僕は息を飲んだ
その話は初耳だ
局長はなおも僕から視線を離さない

「あの子は真面目すぎる、正しいと思ったらどんな事があっても真直ぐに進む。
この世界ではそれがどんなに危ないことか、あなたならわかるでしょ?」
「正義を貫くことは大切ですよ」
「嘘つきね。正義なんて立場が変わればどうにでも変わる。よくご存じでしょ?」
「…」
「とにかく、あの子にはこの世界の仕事をさせたくないの」
「あなただってオックスフォードに行かせりしたじゃないですか」
「あれはお膳立てまでの予定だった…」
彼女の視線が遠くに流れたた

「あの教授にはちょっかいを出してくれるなと言ったはずです」
「確かにそうね。でもあなたは詳しい情報をくれなかった」
「言えることと言えないことがあります」

局長は視線を僕に戻した
「テロ組織のリーダーが教授のお友達だったなんてね」
「思ったより展開が早かった。読めなかったのがミスと言えばミスですが」
「過ぎた事は仕方ない。でもこれからはあの子を使わないと約束して」
「お約束はできませんね」
「お願いよ」
「どんな過去でも過去は過去だ。
あなたのあの子は過去に縛られてダメになるような奴じゃない、違いますか?」

落ち着き払ったクールビューティに多少揶揄を含んだ言葉を投げた
彼女は黙って踵を返し出口に向かった
そして出口の手前でゆっくりと僕を振り返った

「仕方ないわね。でも今日ここであなたに頼んだ事実はあなたと私の間に残る
それだけで今は満足しておく。何かの時にはあなたは思い出してくれると信じるわ」

若い女のようにくどくど哀願したりしないところはさすがだ

「確かに私の老婆心ね…でもあの子の事は他人とは思えない。
実際、あの事件さえなければあの子は私の甥っこになるはずだったの」

その言葉の意味がすぐには理解できなかった
マンションの扉が開いて彼女が姿を消し
オートロックのカチリという音を聞いてから、その意味がやっとわかった
殺されたギョンビンの婚約者はあなたの…

僕は走りだした
ドアを開けて廊下を見ると、彼女はしっかりとした足取りで歩いていた

「今回のご協力に感謝します。あなたに借りがあることは忘れません。
それと…姪御さんの事はお気の毒でした」
一瞬彼女の足が止まった
が、振り返る事はなく彼女はまたヒールの音を立てて歩きだした

エレベーターにその足音が吸い込まれた後
僕は再び部屋に戻った
そしてトランクの鍵を壊して中を調べたが何もなかった
この部屋には何もない

フランシス・ガードナーは別の場所にいる
もしかしたら、ミンは別のルートから彼にたどり着いているのでは
古巣に手助けを求めず、一人で…

いつの間にか夜になっている
しばらくの間迷ったが、携帯でミン兄に連絡した
店が終わった後に連絡をくれるという、奴にしては随分と協力的な受け答えだ

あいつも弟も、平坦な人生ではなかった
もっとも人の事を心配している立場でもないが
どんな奴でも何かを抱えているもんだ
ひたすらハッピーに人生を全うできる奴なんていやしない
そうでも思わなきゃ、やってられるか

まぬけに口を開けているトランクに蹴りをひとつ入れてから
それをクローゼットに突っ込んで部屋を出た
ガキのくせにこんなマンションに住みやがって
待ってろよ
その金がどこから出てるか、とっつかまえて吐かせてやる

外に出ると、街の灯りがチカチカして目の奥が痛かった

******

「お兄さん、たまにはいい事するじゃん。つい興奮しちゃったよ。
もっと別な方法で楽しまなきゃね。止めてくれてありがとう」
フランシスはそう言いながら立ち上がりしなに、倒れている君の腹部に蹴りを入れた
私は思わず起き上ったが、君は無表情だった

「今夜はさ、ここで二人で過ごしなよ。水入らずでさ」
ついさっき憎しみに燃えた瞳で私を組みしいた人物とは別人のようだ
君をおさえている二人に合図をすると青年は出口に向かって歩き出した

「ミスター・ガードナーっ!」
私は彼の後ろ姿に向かって叫んだ
だがフランシスが振り返ったのは扉の所だった
「そうそう、言い忘れてた。この部屋ってさ、めっちゃ頑丈にできてるんだってさ。
あのピアノがバカ高いらしくて、この家の持ち主が用心してるらしいよ」

「フランシス、話はまだ終わっていない」
「今シャッター降ろすけどさ、逃げるのは無理だからね。入口には見張りがいるし。
今夜はここでゆっくりしてなよ、特にそっちのお兄さん、わかった?」
「フランシスっ!」
私は立ち上がって声を張り上げた
だがフランシスは私の問いかけには答えなかった

「お兄さんの様子でも診てあげたら?でも医者は呼べないよぉ」
高笑いを残してフランシスは扉の向こうに消えた

部屋の中に沈黙が訪れた

振り返ると君は座り込んだまま床を見つめていた
私が君の方へ踏み出すと同時に君は下を向いたまま言った
「あの青年の正体を知っているんですか?」

私は君の前に膝づいた
「それより、大丈夫か?随分ひどい様子だが」
君は大きく息を吐いてから私を見上げて言った
「僕は大丈夫です」
「とにかく椅子に座ろう」
そう言って私が君の腕に手をかけた時、窓の方から機械音がした
シャッターが閉まる音だった
自動のシャッターが上からおりてきて
部屋に差し込んでいる夕陽がみるみる削りとられてゆく
私は君の手を離し、部屋の灯りのスイッチを探しに入口へ向かった

扉の横のスイッチを入れると天井の豪華なシャンデリアが灯った
ほっとため息をついて振り返ると
その灯りの下で君がゆらりと立ち上がっていた
その姿があやうくて、私は思わず駆け寄った

「坐ろう」
「先生…」
「随分やられたようだね」
「打撲ですから、ほっておけば直ります」
君は単調な口調で言った

「それより先生…」
君は私を見上げた
その瞳はやはり語っていた
なぜ…と

私は君の瞳には答えず、ロココ調の長椅子の方へ君を誘った
君は体が痛むのか唇を噛んでゆっくりと腰をおろした
君の隣に腰をおろすと、君は低い声を絞り出した

「とうとう先生に手を出しましたね」
「あれは…」
「気がついたら、先生が…」
君はそう言うと、また唇を噛んだ

「先生、先生だけなら逃げられます。僕が何とかしますから」
君が私にそう言うのは二度目だと気がついているだろうか
思えば奇妙な縁だ、私と君は…
私は君の手首に視線を落とした
手錠が擦れてわずかに赤くなっている
いつも私は君を巻きこんでしまう…

「まだ彼に大事な話をしていない…」
「彼の名前…フランシスと呼んでいましたね」
「そうだ」
「なぜわかったんですか?」
「ドイツで色々な事があってね。君にも聞いてもらいたいのだが」

そう、君にも聞いてもらいたい
もう一通手紙が残っていた事を
その手紙に何が書いてあったかを
あの彼が誰なのかを
そして
私は何を成さなくてはいけないのかを

聞かせてください、と君は言い、
私はドイツでクリスに会った事から順番に話し始めた
君は黙ってじっと聞いていた

******

これがすべてだ
先生は長い話の最後にそう言うとほうっと息を吐いた

銀行に残された手紙、それは叶うことのない愛
友に託した手紙、それは揺るぎない意志
人はここまで強くなれるものなのか…

何かを話すのも躊躇われ、僕は黙っていた
どんな言葉であれ
あのテロリストと呼ばれた人の愛と意志の前では意味はない
ただひと言だけ言葉が口をついて出た
「すごい人ですね、あの人は」
先生はつと手を伸ばし僕の手を握りしめた

それでも、先生から聞かされた遺志を引き継ぐ壮大な物語と
今のこの状況が、僕の頭の中で絡み合ってもつれていた

本能は逃げろと言っている
だが先生はフランシスと話ができると思っている
先生を置いて逃げることなどできない
どうすればいい…
ふと薄汚れたシャツと手錠がかかった手が目に入り、
自分のふがいなさに腹が立った

先生が体の傷を心配をしてくれたが、大丈夫だと突っぱった
ろっ骨の何本かにヒビが入っているだろうが、折れてはいない
全身、特に腰に痛みが残っているが、時間の問題だろう
それよりもこの手錠だ
後ろ手でないのがせめてもの救いだが、かなり動きが制限される

彼、フランシスに先生の気持ちは通じるだろうか…
ほぐれた糸を解いて、新たに結び直すことができるだろうか

先生とあの人との繋がりを知った今
これまで以上の憎悪が彼の内に生まれたのではないだろうか
『もっと別な方法で楽しまなきゃね…』
あれはどいういう意味だろう…

いずれにせよ、先生に新しい道ができた今、無事にここから出さなければ…
何としても…
どうしたらいいだろう

出口の方を見つめて考えにふけっていた僕の耳に、先生の呟く声が聞こえた
「立派なピアノだ」
顔を上げると先生の視線は、グランドピアノに向けられていた

「スタインウェイ、しかもコンサート用だ」
「高価な物らしいですね」
「高級外車も顔負けだよ」
「すごいな。先生はピアノを?」
「子供のころ天才少年と言われたこともある、と言ったら君は信じるかな?」
「本当ですか?すごいな」
「いや、冗談だよ」
「でも弾かれるんですね?」
「もう随分と弾いていない」

先生は立ち上がってピアノの所へ歩いて行った
そして屋根を持ち上げ、付きあげ棒で支えた
とたんにピアノが翼を広げて優雅な姿に変わった
それから前に回って蓋を開くと、立ったままさらりと複雑な和音を弾いた
「手入れはきちんとしてあるようだ」

次に、脇にどけてあった椅子を運んできてピアノの前に坐り
また立ち上がって椅子の後ろで高さを調整した
調整が終わって椅子に座ると先生は僕を振り返った

「いいかい、ミスタッチを指摘しないでくれたまえ」
「しませんよ、というか、わかりませんから大丈夫ですよ」
先生は微笑んで、ピアノに向きなおった
僕は椅子に深く坐りなおした

先生はふっと小さく息を吐き、腱盤の上に手を広げ、それをきゅっと握りしめた
そしてまた手を広げると、もう一度息を吐いてうつむいた
その数秒後、美しいピアノの音色が聞こえてきた
見事だった
ゆっくりと、静かで、美しい…

音色が天井まで届き、部屋全体を包んでゆくのが目に見えるようだった
シンプルだが印象的なメロディライン、どこかで聴いた馴染みのある曲
それが心の中にまで入りこんで体中に沁みわたった

まるで体の中を春の陽射がふりそそぐような
それでいてどこかで冷たい風にさらされているような
不思議な感覚が僕を包んだ

そうなのか…

この演奏には、先生の思いのすべて込められている
哀しみ、願い、苦悩、祈り、希望…
すべてがピアノを通して語られている
そして、そのすべてを飲みこんでこの曲はなお美しい
緩やかで、美しい…
怨讐、悲哀、それらをすべて乗り越えてただ美しい

説明のできない熱い物が内から突き上げてくると
涙が湧いてきて、頬を伝わった

自ら奏でる音と会話をするようにゆるやかに動く体
鍵盤を見つめる落ち着いた横顔
演奏している先生の姿とともに、
僕はこの楽曲を一生忘れないだろう

こんな素晴しい演奏なのに、なぜ涙が出るのだろう
なぜ…


ねえ、先生の弾くピアノがすごく素敵なんだ
だめだよ、そんな顔しても
聴けば、あなたも涙が出る
本当だよ
きっとあなたも泣くから…
だめだってば…
そんな顔しても…


先生の指が静かに鍵盤から離れた後も、僕の涙は止まらなかった



教授の弾いた曲: 
ベートーヴェン、ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章 by Freddy Kempf



沸点8 メモリー オリーさん  

「まるで女の名前じゃん」
「何?」
「あんたのセカンドネーム、これ本名だろ?」
「パスポートを見たのか」
「だって、ここに落ちてたもん。あんたやばい仕事してるんだろ?
本名でパスポートなんか作って大丈夫なの?」
「アメリカに行く時だけだ」
「何で?」
「別に」

「アメリカに行く時だけは本人でもオッケーってこと?」
「大した意味はない」
「ふぅん…でもサラっていいよね、語感が奇麗だ。あんたのことそう呼んでいい?」
「だめだ」
「何で?女みたいだから?」
「昔…その名前で呼ばれた事がある。思い出したくない」
「わかった、昔の恋人だね。振られたんだろ」
「余計な詮索をするな」
「あたりだ!振られたんだね」
「いい加減にしないか」


『サラは、私の初めての相手だ。愛していた、とても…』


マジだったのかよ…

だとしたら、何であいつなんだ…
何であいつにやられなくちゃいけないんだ
何で…

昔の恋人にやられるなんて最低だ
あんたは世界一強くて、世界一カッコよくて、
世界一俺を大事にしてくれて…

畜生!
畜生!
畜生!

******

ホテルに戻ってパソコンを開くと
ラリーからの報告はまだきていない
時差を計算して
いくらあいつでも仕方がないかと自分を納得させた

それよりあいつだ
いつになく対応がいいと思ったらこれだ
店はとっくにはねてるはずなのに連絡がない
あいつの携帯に連絡を入れた
随分と呼び出しをしてからあいつが出た

「よう、久しぶりだな」
「…」
「連絡をくれるって言ったじゃないか」
「…」
「おい、だんまりかよ、何とか言えよ」
「二度と連絡するな」
「何?」
「二度と僕のこの携帯を鳴らすなっ!」
「何怒ってんだ、あの人に聞いてくれるって話はどうなった」
「その件は忘れろ」
「どういうことだよ?」
「うるさいっ!お前とはもうこれっきりだっ!」

怒鳴り声とともに通話は一方的に切られた
あいつがこんな怒り方をしたことは初めてだ
いや…二度目か

昔ベルリンで、エロスの化身のような金髪を僕が横取りした時もあいつは怒った
でもあれは仕方ないよな
仕事が入ったからデートはキャンセルだなんていう伝言を僕に託したお前が悪い
僕をメッセンジャーに使ったお前の落ち度だ
こんなイケメンを女がほっとくわけないじゃないか
ま、結局彼女はG・クルーニーに似た濃い目のイタリア野郎に持ってかれたけどな

それにしてもだ
いきなり縁切りかよ
理由もわからないじゃないか

どいつもこいつも…

糞ったれ!

******

「それより、お前いつまで街に立ってるつもりだ?」
「いつまでって、ずっとさ。食ってけないもん」
「一生街に立てるわけないだろ」
「先の事なんかどうでもいいよ」
「一緒に来るか?」
「え…」
「俺と一緒に来るか?」
「どういう意味?」
「一緒に暮らすか?」
「面倒見てくれるんの?」
「条件を守ればな」
「どんな?」

「俺の事を詮索しない、二度と街に立たない、勉強する。この三つだ」
「勉強は嫌いだ」
「嫌いでもやるんだ。いつか学校へ行ける」
「学校なんか行きたくないよ、興味ないし」
「なら、今夜で最後だ」
「…」
「どうする?」

「あんた、どこに住んでるの?」
「あちこちだ」
「そっか、やばい仕事してるんだもんね」
「住む場所は心配いらない」
「あんた、金持ち?」
「いや」
「じゃ、だめだ」
「来ないのか」

「行けないよ、行きたくても」
「なぜ?」
「稼ぎの一部をテッドの所へ持くって約束になってるんだ。それであそこで商売できる」
「ソーホーの売れっ子がピンハネされてんのか、あきれたな」

「誰かに後ろ盾になってもらわなきゃあそこに立てない。
テッドはあのあたりじゃ一番顔がきく。だから仕方ないのさ」
「街に立つのをやめたらそれで終わりだろ?」
「やめる時は金をまとめて払わなきゃいけないんだ」

「どこの世界も一緒だな。搾取する者とされる者と…」
「何?」
「いや、テッドにはどこに行けば会える?」
「あんた…」
「その金とやらはいくらだ?」
「あんた、本気なの?」
「いくらでお前は自由になれるんだ?」
「テッドに金を払ってくれんの?」
「だからいくらだ?」
「高いよ、無理だよ」
「言ってみろ」
「2000ポンド」
「…」
「だから言っただろ。いいよ、無理しなくて」

「明日の昼、ピカデリーサーカスの噴水の所で支度して待ってろ」
「え?」
「テッドの所へ案内するんだ」
「あんた、ほんとは金持ち?」
「いや。だが2000ポンドは安い」
「安かないよ。俺には絶対無理だもん」
「お前が2000ポンドで自由になれれば安いもんだ」
「…」
「とにかく、明日の昼だ。忘れるなよ」
「忘れっこないよ、待ってる。ピカデリーの噴水のとこだね」
「そうだ」
「信じていいんだね?」
「ああ」

だけど俺は信じちゃいなかった
どうせ、その場かぎりの気休めだろうって
前にもそんな事は何回かあった
だから俺は信じちゃいなかった
あんたが、次の日
ほんとに噴水の所に立ってるのを見るまで

******

どうやって自分の部屋に帰ってきたのかよく覚えていない
あの人が軽く頭を下げ、目の前で扉が閉まった映像はぼんやりと思い出せる
だがどうやって部屋に戻ってきたのか、よく覚えていない
気がつくと、自分の部屋のベッドの上に腰かけていた

「もう戻りません…ミンがこんな冗談を言うと思いますか?」

あの人の声が頭の中でこだましている

もう戻りませんだって?
一体どういうつもりなんだ
自分が何をしたかわかってんのか?
馬鹿…野郎

突然、テーブルの上の携帯が鳴ってびくりと震えた

誰だ
こんな時に…

普段は気にならない着信音が、なぜか僕をひどく怯えさせた

誰だ
もしかして…お前か…

やっと足が動き出して、携帯の所へたどり着いた
フリップを開いて耳元にあてた

「よう、久しぶりだな」

声を聞いた瞬間、頭に血がのぼった
そうだ、こいつだ
こいつが姿を現わしてから、ろくな事がない
いや、すべてがこいつのせいなんだ
ボストンのことも
手紙のことも
あいつが撒いたタネだ
糞ったれ野郎!

怒鳴り散らして電話を切った
もうお前とは二度とかかわらないからな
Never everだ!

勢いで携帯を投げつけようとして、ふと思いとどまった
もう一度フリップを開いた
息を吸い込んで、震える指でお前の番号を操作してキーを押した

すぐに電源が入っていないというメッセージが流れてきた
それで今度こそ、携帯を投げつけた

******

あんたが2000ポンドの札をテーブルの上に置くと
椅子にふんぞり返っていたテッドはにやりと笑った
それからゆっくりと体を起こしてあんたに言った

「話はわかった、これは手つけとして預かっておくよ」
テッドはまたにやりと笑った
「手つけ?」
「そうさ」
「2000と聞いたが」
「それはあいつが初めてここへ来た時の話さ。あれから随分出世した。今じゃ一番の稼ぎ頭だ。
それもこれも全部俺のおかげだ、2000が20000になっても不思議じゃないだろ?」

「そんな話は聞いてないよ」
俺は思わず声を上げた
テッドは俺を振り返り、凄みのある声を出した
「そりゃそうさ。今決めたことだ。俺がこの街のルールだ、知ってんだろ?」
「そんな・・・ひどいじゃないか!」
テッドは俺を完全に無視して札に手を伸ばしてあんたに言った

「今日はこれだけ預かっとく。領収書はいらないよな。
残りの18000、用意できたらまた出直して・・・」

けれどテッドは話を最後まで終わらせることができなかった
手に取ったポンド札を指ごと口の中に突っ込まれてしまったから

あんたはテッドの手首を握りながら、顔を近づけて低い声で言った
「確かにお前の言うとおり。2000が20000でも安いってもんだ。
だがお前にはこれ以上出すつもりはない、そんな義理はこれっぽちもないからな」

俺はテッドが目の前で目を白黒させているのを見て唖然とした
今までテッドを脅かそうなんて奴にはお目にかかったことがなかったから

「お前がお前のルールで動くように、こちらにもこちらのルールがある。
口の中の金が手切れ金だ。遠慮せずに取っておけ、そして覚えておけ。
たった今からあいつは俺の物だ。これからは一切手だしするな」

テッドはただ目をきょろきょろさせているだけだった
今まで見たことのない場面だ
つまり俺はテッドが脅えているのも初めて見た

「今後もしあいつに指一本でも触れたら、お前の首は吹っ飛ぶ。どう吹っ飛ぶかは想像にまかせよう。
吹っ飛んだ首は…そうだな、ピカデリーの広場にでも転がして、鳩にくれてやる。
首から下はテームズに流してやろう。ロンドンっ子なら最高の栄誉だろ?」

あんたは静かな声で物騒な話を言ってきかせた
テッドはポンド札を口にくわえたまま、だらしなく涎をたらした
それでもあんたはテッドの手首をおさえたまま続けた
「もう一度確認しておく。この街でこのままお山の大将を続けたいなら、二度とあいつに手を出すな。お前のとこは今日で卒業だ」

うめき声を上げながらテッドは何回か頷いた
それであんたはテッドの手首をはなした
それから俺の腕を取って、行くぞと言った
俺はテッドがどんな顔をしているのか興味があったけど
振り返らずに、あんたと一緒に部屋を出た

『すげえや!あのテッドを脅すなんて信じらんないよ!』
俺はあんたにそう言いたかったけど言わなかった

なぜだかあんたがそう言われるのを嫌がるような気がしたから
だから、ただ黙ってあんたについて行った
これからずっとあんたについて行くんだと決めて

俺は嬉しかった
夜の街から解放されたことよりも
あんたに会えたことが
あんたについて行ける事が

ものすごく嬉しかった…

俺の回想は
部屋にやってきた見張りのひとりのおかげで途切れた

「奴らがピアノを弾いてます」
「ピアノ?」
「音が…」
見張りは視線を廊下の先へ飛ばした
俺は廊下に出た
確かにピアノの音が聞こえた

「ぶん殴ってやめさせますか?」
見張りが俺に聞いた
俺は答えずに廊下に出た
音がはっきりと聞き取れるようになった

「どうします?」
見張りがもう一度聞いた
俺は、ほおっておけと言って手を振った
見張りは戻って行った
俺はその場所に立ったまま、その音に耳をかたむけた

俺はこの曲を知っている

なぜなら、よく聴いたことがあるからだ
あんたの好きな曲だ
一日の終わりによく聴いていたっけ

あんたがこの曲を好きだったのは
そういうことだったのか…
そうなのか?

何とか言ってくれよ
答えろよ
答えてくれよ…
何で黙ってんだよ…
畜生…


沸点9 トラップ オリーさん  

キーボードに触れても、画面は暗いまま
世界中とつながり、莫大な情報に触れ、瞬時に誰とでも交わる
そこから新しい企画のコンセプトも、プレゼンの資料も、
難なく生み出すことができる
すべてを自分の手の中におさめ、それを駆使して高みに登ることができる
だが、
電源が落ちればそれまでだ
活気あふれる画面は黒いまま何も映さず、もたらさない
世界のすべてを手に入れていると思っていたのは錯覚だ
スイッチひとつで暗闇に落ちる

今の僕のように…

深夜、部屋を後にしてオフィスにやってきた
お兄さんと話をしてから何かが変わった
そう、彼に伝えたことで現実が確かなものになったのだ
認めたくないことが、はっきりとした形になってしまった

暗いオフィスのデスクに座り
随分長いあいだ、
真黒なパソコンの画面を見つめていた

時は休むことなく進み、夜が終わればまた朝が来る
あの部屋で朝を迎えたくなかった

今朝、目を覚ました直後だけ現実を忘れた
その一瞬だけ、すべてを忘れ安らぐことができた
だが次の瞬間には、時が雪崩のように動き出し
あっという間に今に追いついてしまった
無防備で空になっていた心に
ミンの後ろ姿が映るまで何秒かかっただろう

そして一日が始まった

何度あれを繰り返せばいいのだろう
いつか何事もなかったように、
日々を送ることができるようになるのだろうか

答の出ない問いを呪文のように繰り返し
反応のないキーボードを叩いた

大丈夫だ
こんな時はそうは続かない
大丈夫だ

いつか



忘れる


******

ラリーの報告は
短い時間にかかわらずよくできたものだった
可哀相な孤児が、施設から養子縁組に出され、
そこからさらに夜の街へ流れて行った所までつきとめていた

嘆かわしいことではあるが、時折起こる不運が
フランシスにも起こっていた
養子縁組に出された家庭は、
彼についてくる補助金を目当てに彼を引き取った
当然環境は悪く、フランシスは2年もしないうちにその家を出ていた
にもかかわらず、その夫婦は補助金をもらうため彼の失踪を隠していた
その夫婦は今でも二人の孤児を引き取って育てていることになっている

何年か前までソーホー一帯の裏の世界を仕切っていたテッドという男に
ラリーは直接会っていた
街は今ではアフリカ系移民のジョーという男にとって代わられていた
すっかり落ちぶれたテッドは、パンパンに膨れた体に
ひたすら安い酒を注ぎ込んでいるらしい
フランシスとバルガティのことは憶えていた
顔写真を確認したそうだが、その際ラリーに恨みごとを言ったそうだ
上玉を2000ポンドのはした金で引き抜かれたと

知らぬが仏とはよく言ったものだ
その男の正体を知ったら、飲んだくれのテッドは
今でも首と胴体がつながって、
毎日安酒を飲める自分の境遇に感謝することだろう

それからの事はさすがのラリーも時間切れだったようだ
だがひとつだけ重要な確認をしていた
最後のアジトになったロンドン市内のアパートに
フランシス名義の部屋も借りられていたのだ
堂々と本名で借りてたってのはどういうことだ?

ラリーの報告を一通り読み終わるとすでに日にちが変わっていた
いい兆候だ
集められた破片が少しづつ形になっている
ここまで来れば、いつもならテンションがあがって
最後のヤマに向かって猛チャージをかけるところなんだが・・・
モヤモヤとして消化不良を起こしかけているこの気分は何だ?

やはり気にいらないのはあれだ
帰国したばかりの教授が消えた
あいつの弟も連絡不能
とどめに、あいつのヒステリー絶縁電話
ここらあたりがまとめて気にいらない
大いに気にいらない


だが、まあ今日はこのあたりで寝ることにしよう
何たって睡眠不足はお肌に悪いからね

…にしても

あの糞ったれ野郎っ!

Damn!
*ss-hole!
Motherf*cker!!

神よ、深夜に汚い言葉を使ったことをお許しください…

*******

窓から差し込む朝の光が眩しくて目が覚めた
思いのほか寝過ごしたかもしれない
ゆっくりと体を起こした

夢の中で
あんたと話ができたような気がしていたけど
何も覚えてない
かわりに、
あの曲が頭のどこかでずっと流れていたような気がする

あいつが弾いたから、あんたが気に入ったのか
それとも、
あんたが気に入ってたから、あいつが弾いたのか
別にどうでもいいけどさ

なあ、
あんたはあいつを許せるのか?
そんなわけないよな
あんたと俺はずっと一緒にいるはずだったんだ
ずっとずっと、いつまでもさ
それなのに、ひどいよな

俺は絶対に許さない
あいつがあんたのこと、愛してた…なんて関係ないさ
いや、むしろあいつにとってもいいことかもしれない
一生俺たちにしたことを後悔して暮らせるんだから
そうだよな?

ここへ来てから、あんたは返事をしてくれない
ただ笑ってるだけ
何でだよ
あんなにいろいろ話してくれて
俺の話もいっぱい聞いてくれたじゃないか
何で返事してくれないんだよ

でもいいさ
あんたも本当は賛成してるんだろ?
なあ、そうだろ?

寝床にしていたソファから立ち上がって窓際に立った
さっきから陽の光がとても眩しい
だがそれもあまり気にはならない
朝が生気を与えてくれる感じは久しぶりだ

俺はやれる
やってみせる
やっとここまで来た
もう少しだ
あと少し…あと少しだから待っててくれよ
また一緒に暮らそう
ふたりで一緒に・・・もうすぐだからさ

俺は両手を大きく広げ、昇りかけた太陽に向かってお辞儀をした
舞台に立った役者がアンコールに呼ばれた時のように

それから、テーブルの上の携帯を掴んでフリップを開いた
考えていたとおりの文を打ち込み・・・送信
メッセージはあっという間に送られた

これで相手がどう出るか
どっちに転んでも俺のストーリーは壊れない
とりあえず昼まで待とう
それで決行だ

俺はもう一度窓際に立って
体中で陽の光を受けとめた

******

それは突然に始まった
昨夜はうつらうつらしながらも、
最後には疲労に負けて深い眠りに落ちてしまっていた

いきなり体を起こされて腹部に衝撃を感じた
それからは薄い闇の中で、僕はただ殴られた

もう朝になったのだろうか
それともまだ夜の続きか

先生の怒声が響き、一瞬奴らの動きが止まった
うずくまったまま顔を上げると
先生が肘掛椅子に縛りつけられていて
叫ぶことをやめない先生が頬を殴られているのが
狭くなった視界に映った
僕は声を絞り出した

「その人には手を出すなっ!」

僕は苦労して立ち上がり、先生の方へ歩き出した
ひとりが僕の方へ戻ってきて殴りかかった
それをよけて、さらに先生の方へ近づいた
先生の唇の端からうっすらと血が滲んでいるのが見えた
もう一度僕は言った

「その人には手を出すな」

先生のそばにいたもう一人が僕に向かってきた
僕は蹴りを入れてそれをかわしたが、よろけて体勢をくずした
ふたりがまとめてかかってきた

それからのことはよくわからない
ただ、
僕を呼ぶ先生の叫び声がだんだんと遠くなっていった

******

ちっくしょう!

携帯が壊れた
昨日投げつけた携帯の液晶部分にヒビが入っていた
ウンともスンとも言わない
ちっくしょう!
少し手加減して投げるべきだった…

ろくに寝られずに朝を迎えた僕は
しゃくだけれど、やはりあいつに連絡を取ることにした
だが、携帯が死んでしまっていた

備え付けの電話でマリオットに連絡しようとしてやめた
直接行ってやる
2・3発お見舞いして、少しでも落とし前をつけてやろう
ジャケットをひっつかんで部屋を出た

あの人の部屋の前まで行ってみた
中からは何も気配が感じられない
しばらく立っていたが、今は何もできることはない
そう思ってエレベーターに乗り込んだ
閉まった扉の銀色の壁に自分の姿を見つけた
くずれた姿勢を正して呟いた

連れ戻すのは僕の役目だ
何が何でも探し出して連れ帰ってやる
だから、少しだけ時間をください…

地下まで降りて車に乗り込んだ
駐車場をフルスピードで突っ切って外に出た
朝の光が眩しい
世界はこんなに明るいのに
なぜだ…

お前は間違ってる
何度考えても、お前は間違ってる
だから言ったんだ
かかわるなと…
僕の言う事を聞けばよかったのに
たまには素直に言うことを聞くもんだ
僕は兄貴だぞ、バカ野郎が
ほんとにお前は・・・

マリオットの車寄せに突っ込んだ
ドアマンが駆け寄ってきてキーを預かると言ったが断った
「すぐ戻る、このままにしておいてくれ」
ここは駐車禁止だと食い下がるベルボーイを怒鳴りつけた
「すぐ戻るって言ってるだろ!」

僕の声に驚いてドアマンがわずかに後ずさりした
「悪かった、ほんとにすぐ戻るから」
僕はそう言って彼の肩をたたいてホテルの回転ドアをくぐり抜けた

******

そのメールに気づいたのは
朝の打ち合わせがすんでからのことだった
オフィスで朝を迎えた僕はそのまま仕事に入った

携帯を持ち歩くのをやめていた
仕事以外、使うことはあまりないからだ
オフィスにいる時はデスクの上に置いておけば事足りる
別に必要不可欠のものではない
そう
別に不便などないのだ

デスクの上でその携帯がメール受信のライトが点滅しているのに気づき
なぜだか、胸がざわざわとした
フリップを開くと、そこにメッセージがあった

読み終わると、僕はすぐに背広を掴んで部屋を出た
あわてているキチャンに、重要な案件のフォローを頼み
今日の予定はすべてキャンセルしてくれと言い残して駐車場に向かった

あの町は一度だけ行った事がある
いつだったか、遠い昔、一度だけ
あれから変わったろうか
あの静かな温泉町は…
急いで市内を抜け、ひたすらアクセルを踏んだ

僕はその時気づくべきだった
ミンは絶対にあんな事は書かないと
思えば最初のメールからそうだったのだ
僕は気づくべきだった
どこかおかしいと

お前があんなメールを打つはずはないのに
自分の気持ちを、人の気持ちを
天秤にかけるようなやり方をするはずはないのに
僕の目を見て言えないことを
お前がするはずがないのに
簡単な事だったのに

なぜ信じてやれなかったのか…

僕は
ただひたすら車を走らせた
ただ一言が言いたくて

ただ伝えたくて

迷っているなら戻ってこい、と
僕はお前を失いたくない、と


何があっても

******











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