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ぴかろんの日常

ぴかろんの日常

コラボ:ただ抱擁の時は過ぎ 2



ソニの父は当時まだ多くはなかった朝鮮語学研究の研究員として
70年代に韓国を訪れた。
そしてちょうどそのころ田舎を出て働き出した母と恋におちた。

・・・・・・

若いふたりにどのような物語があったのか今となっては知る由もないが
父は結婚の決意を親に報告すると言いおき帰国して
それきり戻ることはなかったとソニは聞いている。

母が子供を身ごもっていることを知ったのはその後だった。

母にとってのそれからは地獄のような日々となったが
彼女は決して動じることはなくソニの父の存在を隠すこともなかった。
針のような環境の中子供をひとりで産み育て働いた。
ついに身体を壊してソニのために実家の世話になるまで。

・・・・・・

その母が亡くなってソニはひとり家を出た。
都会で様々な仕事を経験しながら友人を作ることもなく過ごした青春。
そしてはたちを前に出会った男性との初めての恋。
ずいぶん年上の優しい男にソニはのめり込み
それは惨い形で終わりを告げた。

「”死は人を救わない”…あのころ僕も生きることが苦痛だった…
 あれは自分に言い聞かせた言葉だったんだ」

よく晴れた気持ちのいい午後、ジンとソニは公園を散歩した。

ジンの思いもよらぬ言葉にソニは足を止める。
いつも冷静にひとの心を分析している彼の文からそんな影は感じられず
その言葉はにわかには信じがたかった。

心理学者は自分を隠すのもお上手なんですね?
そんな言葉をかけようとした時ソニはジンの異変に気づいた。

手を繋ぎ寄り添って歩くカップルを何気なく見ていたジンの足が
目眩をおこしたようにふらついている。
ソニは咄嗟に彼の身体を支えた。

頭の霧が晴れると
いつの間にか濃いグリーンのベンチに座っていた。
ジンはソニの肩にもたれて深呼吸をする。
さきほどのカップルが夢のように樹々の向こうに消えていくのが見えた。


 Dust in the wind:
 All we are is dust in the wind.
 Dust in the wind.
 Everything is dust in the wind.
 Everything is dust in the wind.
 In the wind....

 Dust in the wind, Kansas ()No. 4


 気まぐれな風に吹き散る塵よりも 心は脆く身の寄る辺なく



また襲われた。
ヒョンジュと歩いた初夏の空気に取り巻かれ
ヒョンジュの香りに支配されてしまった。
ちらちらと降る無数の小さな光がジンとソニを包む。
呼吸が整い落ち着いてくるのを感じながら尚もそのままでいた。
そして何も聞かず肩を貸してくれているソニに
ジンはゆっくりと自分の話をし始めた。

・・・・・・

ジンの目からひとすじ涙がこぼれる。

ソニはずいぶん躊躇して
ジンの手の甲にそっと自分の手を重ねた。
ふたりはそうしたまま木漏れ日に包まれ
錯綜する思い出の中に漂った。






あの日
突然ジンのカウンセリングルームに引きつった顔の院長が入ってきた。
そして彼はヒョンジュの件を問いただしはじめた。

・・・・・・

「いいか、たいした問題に至らぬうちにカタをつけるんだ」
「院長…」
「今なら全てを忘れてやる」
「忘れていただくようなことは何もありません」
「生意気な口をきくな」
「クビにしたらいかがですか」
「わからんヤツだな!君の力と将来を買っているから言ってるんだ!」
「僕は自分に嘘はつけない」
「ここまで築き上げた人生がめちゃくちゃになるぞっ」
「築いたものなどない」

いつかこんなことになるだろうとは思っていた。

・・・・・・

いまいましそうに拳固でデスクを叩き部屋を出ようとした院長に
ジンは低く静かな声で言った。

「彼に直接何か言ったら…僕は許しませんよ」

しかし
そのジンの言葉が守られなかったことを知ったのは
ずいぶん後のこととなる。

ジンは怒りに震える自分を抑え暫く目を閉じていたが
いきなり立ち上がりその部屋に続く待合室のドアを開いた。
そろそろヒョンジュが訪れる時間であったのを思い出したのだ。



 The heart asks pleasure first (楽しみを希う心), Micheal Nyman, () Disc 1, No. 17


 ナイマンのピアノは逸る流れにも 希(のぞみ)憑かれた心にも似る



ドアの向こうの椅子に彼は座っていた。
初めて耳にしたジンの怒鳴り声に戸惑うかのように力なく微笑んだ。
院長との会話に彼の名は出てこなかったが
ヒョンジュがその内容に気づかないはずはない。
ジンは彼を部屋に引き入れドアを締めると思いきり抱きしめた。

…大丈夫…大丈夫だから…

狂うほどヒョンジュが愛しかった。
覆い被さるように激しくくちづけソファに倒れ込む。

・・・・・・

こうしてヒョンジュを抱きしめていることだけが真実に思われた。

自分が求めるものは間違っていない。
挫折というものを知らぬジンにとって
それはあまりに当然の権利のような気さえした。
どんなに苦しくても君を手放したりしない…

あまりに深く心奪われていて
ジンはヒョンジュの気持ちを考える術を持たなかった。

・・・・・・

その電話はあまりに突然だった。
ヒョンジュの叔母から。
ヒョンジュの姿が見えなくなったと。

病院を辞めるつもりで仕事の整理を始めていたジンは
頭の中が痺れるような嫌な予感をねじ伏せて
家族や警察と共にあらゆる事故を考えて捜索に加わった。

そして唐突に
唐突にあの海を思い出した。



 Miserere mei, Deus (ミゼレーレ), AlLegri, () No. 1

 Miserere mei, Deus, secundum magnam misericordiam tuam.
 Et secundum multitudinem miserationum tuarum, dele iniquitatem mean.
 Amplius lava me ab iniquitate mea: et a peccato meo munda me.
 Quoniam iniquitatem mean ego cognosco: et peccatum meum contra me est semper.



ヒョンジュが突然見たいと言い出した海。
ジンの一番好きな海が見たいと言ってきかなかった。
垂れ込めた雲が海面に映り少しうねっている。
グレーと深緑の果てしない水面を見ながらヒョンジュはとても満足そうだった。

「この色好き?」

ヒョンジュは微笑んで頷くと砂浜に座ったジンの肩に頭を預けた。
ジンが煙草を取り出すと自分にもと目がせがむ。
初めてのことだった。
仕方なく手渡すと、たったひとくちを時間をかけて吸う。

遥か遠くの雲の切れ目から海面に光が降りそこだけが輝いていた。
まるでそこに全ての祝福が注がれているように。

「あそこに行けば陽が降り注いでるんだな…」

ジンの言葉を聞きながら
ヒョンジュは長い間その光の彼方を見ていた。

彼はゆっくりと空を見渡し
そしてジンの頬にそっと手を添え目の奥を見つめた。
その潤んだ瞳は”ずっと側にいるから”と言っているようにも思え
ジンの中に静かな安堵が広がる。

ジンはその身体を柔らかく抱きしめ唇を重ねた。
ふたりは砂浜に横たわり
飽きることなくくちづけを交わした。
そしてそれが
ふたりの最後のくちづけとなった。


p2-1海辺のふたり


 あなたを自由にしてあげたい この場所から
 少し悲しいのは なぜ・・・ wow

 明日の今頃には ぼくは どこにいるんだろう
 あなたを 思ってるんだろう yeah yeah yeah
 
 You will always be inside my heart
 きっと 何度 生まれかわっても
 I hope that I have a place in your heart too
 Now and forever you are still the one
 今はただ抱きしめていて
 あなたを憶えていたいから・・・(日本語詞 Rosy)

 First Love, Hikaru Utada () No.4


 追憶の岸辺に波はただ寄せて 名残りの歌のピアノをたたく



まさかと疑いながら警察に申告したその海で
ヒョンジュは発見された。

家族たちと共に呼ばれた病院の地階。
どうやってそこまで辿り着いたのかは今でも思い出せない。
ジンはその色のない部屋に入ることができなかった。
足が動かない。
叔母たちが入って行くドアの隙間から目に入った白い布。
暗い廊下にひとり佇んでジンは頭の中が冷えていくのを感じた。
何も見えなくなった。
何も聞こえなかった。
そこがどこなのか…次第に感覚がなくなった。

その日
ジンの”時”も停止した。


 Quoniam si voluisses sacrificium, dedissem utique : holocaustis non dedectaberis.
 Sacrificium Deo spiritus contribulatus : cor contritum et humiliatum, Deus, non despicies.
 Benigne fac, Domine, in bona voluntate tua Sion : ut adificentur muri Jerusalem.
 Tunc acceptabis sacrificium justitiae, oblationes et holocausta: tunc imiponent super altare tuum vitulos.


 いたわしきその魂の離れゆく 御身にそぐわぬ 地上(ここ)より永遠(とわ)に

 残される闇にさすらう魂を 憐れみたまえ 守らせたまえ



事故として処理されすべてが終わってから
ヒョンジュの叔母がひっそりとあの2通の手紙を持ってきた。

・・・・・・

手紙の1通の封を開けたのはずいぶん後のことだ。

 もう苦しまないでください。

ヒョンジュが逝ってから一度も出ることのなかった涙が堰を切った。
僕のためだ。
僕のためにヒョンジュは一番確実な方法を考えた。
ヒョンジュの真っ白な愛情は迷うことなく自分のすべきことを決めた。

・・・・・・

あの光注ぐ海の彼方を目指して
鳥のように飛び立ったのだろうか。
ただ生まれてきたところに還っただけなのだろうか。
ジンに抱(いだ)かれる夢をみながら。
ジンは悲鳴をあげた。

・・・・・・

天も底も見えぬ沈黙の中にたったひとり残された。






「大丈夫…ですか?」
「ああ…大丈夫」
「気分が悪くなったら言って下さいね」
「ありがとう…あなたのおかげで少し気が晴れた」

ジンはテーブルの向こうのソニに目を向け微笑んだ。
その日はジンが初めて彼女をディナーに誘っていた。
ここのところほとんど会えなかった詫びと
ジンの心の内を知ってから気にかけてくれる彼女への礼のつもりもあった。

・・・・・・

ジンはキャンドルの向こうで少し楽しげなソニを眺める。
うす桃色のブラウスの彼女はとても美しかった。

何もなかった頃にはとても及ばないが
ソニと会っていると自然に近い自分でいることができる。
お互いの淀んでいた澱を少しずつ吐き出しながらも
決して傷を舐め合うような関係ではなかった。

・・・・・・

しかしこうして穏やかな時間を過ごしていると
呵責を感じるのも事実だ。
大事なものを置き去りにしてひとり呼吸をしようとしているようで。
そしてそんな想いはソニにも伝わっている。

「辛かったら…辛い顔して下さいね」
「え?」
「母がよく言ってました…涙が溜まったら泣け、笑いたかったら笑え
 どっちか迷ったら迷った顔を見せてちょうだいって」
「…」
「だから私こんな我が侭になっちゃったんですけれど」
「…」
「先生?」
「ありがとう…」


p2-3罪も痛みも



 I need to be in love, Carpenters () Disc2 No.4

 The hardest thing I've ever done is keep believing
 There's someone in this crazy world for me.
 The way that people come and go through temporary lives,
 My chance could come and I might never know.
 ・・・・・・
 I know I need to be in love,
 I know I've wasted too much time.
 I know I ask perfection of a quite imperfect world,
 And fool enough to think that's what I'll find.


 この夜に 潤びゆきたい このままに 罪も痛みも置き去りにして



車のライトが交差するきらびやかな大通りを歩きながら
ジンはソニに片手を差し出した。
ソニはそっとその手に自分の手を置き
ふたりは手を繋いだまま何も喋らず夜の都会を散歩した。

そんなささやかな静寂に突然の高い音が割り込む。

ジンの携帯の向こうに妹の震える声がした。
父親が倒れて救急で運ばれたという。
ジンはソニと共に病院に向かった。
そこはあのソニの勤め先の病院だった。

・・・・・・

酸素マスクを付けた父は以前会った時よりずっと小さく見えた。
脳梗塞と診断された彼はここ1週間がヤマだと告げられている。

・・・・・・

その日からジンはできるだけ父の元を訪れた。
ソニもそれとなく気を遣って様子を見に行く。
容態が安定したのは2週間ほどした頃だ。

まだチューブをつけ目を開けられるだけの状態ではあったが
わずかに言葉に反応する父を見つめながら
ジンは目に見えない何かに感謝した。

ジンの生活はすっかり落ち着いたものになっていた。

窓からの陽射しを感じてベッドから起き
仕事の手が空いた日の午後は父を見舞う。
病院の庭でほんの少しソニと会って話したあと
家に戻って残りの仕事を片付ける。

尚空いた時間には父の病の勉強をし
おそらく半身麻痺になるであろうと言われた父の将来のための
様々な可能性の模索や母たちとの話し合いをする。
一時は憔悴していた母が少しずつ元気を取り戻してくれたのも
ジンのささやかな励みになっていた。
母にはこれまで心配をかけ申し訳なく思っている。

そして「お兄さんが帰ってきてくれたみたい」
と嬉しそうに微笑む妹にも素直に感謝した。

・・・・・・

 Drowning, Backstreet Boys, () No. 13

 Cause everytime I breathe I take you in
 And my heart beats again
 Baby I can't help it
 You keep me drowning in your love
 And everytime I try to rise above
 I'm swept away by love
 Baby I can't help it
 You keep me drowning in your love


 その人に走りだしたい恋心 言い聞かせても 言い聞かせても



ソニの生活も一見まるで同じようではあったが
彼女自身に気づかぬ部分に変化があった。

患者のシーツを替える時以前よりずっと丁寧に整える彼女がいた。
同僚に最近柔らかくなったなどと言われたりもした。
疲れて帰る小さな部屋もどことなく明るく感じる。
およそ女性らしからぬ殺風景な部屋に
小さなサボテンが置かれたのもその頃だった。

毎日ではなかったがやってくるジンの姿を
正面玄関の硝子ドアの向こうに見つけると心揺れる。
前庭の鮮やかな緑の中を歩いてくるジンは
印象派の絵のように美しく感じられた。
そして必ず想う。
ジンの傍らにはいつもヒョンジュがいるのだろう。
空気のように寄り添いヴェールで彼を包んでいるのだろうと。
ジンの微笑みの底の切り刻まれるような哀しみを思えば
胸の奥が熱く痛むのを感じる。

・・・・・・

ジンに深く横たわる悔いの想いにだけは
決して口を挟むことができない…そんな気がしていた。






その日の午後
ジンは紙袋をかかえたソニを家に迎えた。
ジンの誕生日。

・・・・・・

「ソニさんの手料理っていうのもいいな」とつい軽口を言ってしまい
冗談のつもりだったがそんな言葉を口にした自分にひどく驚いた。
そしてこの歳でその台詞にきまりが悪くなったことにも苦笑した。

ソニは正直言えば嬉しかった。
ここのところのジンの表情は初めて会った頃とはずいぶん違う。
深い憂いの影は変わらないが
時折優しい明るい目をするようになった。
それはあのフリーダのスイカの絵を見ていた瞬間の彼の目を思い出す。
そしてそんな彼に惹かれている自分にとうに気づいてもいた。

それでも返答に一瞬戸惑ったのは
いつだったかジンがヒョンジュと過ごしてやれなかった
誕生日の話をしていたことを憶えていたからだ。

水面(みなも)の鏡とそこに映る月のように寄り添っているふたつの心。

ジンの中で過去と”今”がせめぎあっているのがよくわかる。
自分がそんな場所に入り込んでいいものか迷い
そしてまた入っていきたい衝動にも揺れる。

・・・・・・

 Goodbye girl, David Gates

 All your life you've waited
 for love to come and stay,
 and now that I have found you,
 you must not slip away.

 I know it's hard believin'
 the words you've heard before,
 but darlin' you must trust them just once more.

 今まで君は”本当の愛”に
 めぐり会えずにいたんだね
 でも今日からは独りじゃない
 僕はどこにも行かないよ

 僕の言葉を信じられない
 君の気持ちはわかるけど
 お願いだ もう一度だけ
 信じて欲しい 愛しいひと (訳詞 Rosy)


 強がりも淋しい夜もさようなら 勇気を出して素直になるの

 溢れだす痛みの記憶とめどなく やはり私はグッバイガール



ソニの予想のできない明るさは楽しかった。
ジンはそれを素直に出せずにいたが。

・・・・・・

母と妹以外の女性が立ったことのない台所。
いつもは灰色の空間に人の気配がする。
誰かがいてくれるというのは嫌なものではないと
ジンはぼんやりとその温かい物音を聞いていた。

彼が部屋から出ると
テーブルの上にはささやかだが暖かい料理が並んでいた。

・・・・・・

ゆっくりと食事を楽しみながら
ふたりは今までになく多くを語った。

・・・・・・

食事の後ワインとともに過ごすゆったりとした時間。
ジンはソファで楽しそうに微笑む彼女に満足していたが
ほんのり赤みの射す頬を美しいと感じた時
言いようのない感覚に陥った。

やはりそこに座っていたヒョンジュを思い出すのはいつものことだ。
静かに本を読んでいた彼の幻影はいつまでも心を捕らえ
自分の肩にもたれて詩を読む彼の香りには今も包まれる。

しかし今日はその映像が揺れた。
ブレたヒョンジュの瞳にソニの瞳が
ヒョンジュの唇にソニの唇が重なり息苦しさを感じる。
腹の底のうずきに鉛が落ちるような感覚だった。
ジンは困惑のため息をつき視線をそらす。

・・・・・・

ソニは古びた写真を見ているジンの横顔を見ていた。
いつものことだがそういう時の彼は何かを”見て”いるわけではない。
ジンの目がふと遠くを彷徨う時間には
もうずいぶん慣れてしまったような気がしていた。
ヒョンジュへの想いに漂っていることは承知の上だ。

しかしその日のソニの心臓はその名に痛みを感じた。
ジンが愛し今も愛し続けているであろう男。
ジンがそのすべてを慈しんだ男。

彼女はあまりに突然熱く渦巻き出した自分の感情に戸惑い
いたたまれなくなり立ち上がった。
そのままそこにいると窒息しそうだった。
まだそれほど遅い時間ではなかったが
長居してしまったことを詫び玄関に向かう。

ぼんやりしていたジンは急に帰ると言い出したソニに驚き
戸惑いながらその後を追った。

・・・・・・

「帰らないで」
白いうなじに頬を寄せてやっとのことで声を絞る。
硬直したソニの身体をこちらに向け抱きしめて
もう一度同じ言葉を繰り返した。
自分の衝動に困惑し声がかすかに震えているのがわかる。

ジンはただ身体を強ばらせている彼女を抱きしめた。

そしてそっと頬にキスをし
その唇をゆっくりと滑らせ彼女の唇に柔らかく重ねた。

ソニはふわりと包まれたジンの香りに思わず強く目を閉じた。
混乱し取り乱した身体が熱くなる。
次第に深くなるくちづけに頭の中が霞みはじめ
心のどこかで望んでいた自分を自覚する。

しかし
巧みに絡みはじめたジンの舌に応えようとした瞬間
彼女の身体にいきなり電気が走った。
咄嗟に悲鳴にも似たうめきを発してジンを突き離す。
見る間に涙で曇るソニの瞳。

・・・・・・

ソニの中に強烈なフラッシュバックが起こった。

もう遥か昔のことのようになったあの日々。
おまえだけだと囁く男との出会いに
生まれてきてよかったと初めて感じられた日々。

しかし彼女の中に小さな命が宿った喜びを告げたその夜
彼には捨てる意志のない家族があることを知った。

・・・・・・

ジンは彼女をそっと抱き起こし今度は静かに抱きしめた。
そして彼女のずれた腕時計を直してやった。
その下には自分を葬ろうとした名残がひっそりと覗く。

彼は震える小さな肩を包みながら目を閉じた。

「悪かった…」

低く優しい声が沁みる。
「すみません…もう…」
忘れたと思っていたのに…

p2-2ソニの涙


・・・・・・

漆喰の壁にグラスが当たり砕け床に散った。
その音は思ったより鈍いものだった。

ソニが帰った後
ジンはふたつの自責の念に怒りに似た気持ちをおぼえた。

ひとつはソニの気持ちを何もわかっていなかった自分に。

・・・・・・

そしてもうひとつは…ヒョンジュへの後ろめたさに。

ヒョンジュを亡くした頃
死んだような時間を過ごしながらやがて空腹をおぼえた自分に腹を立てた。
その時の自嘲的な想いによく似ている。



 The eagle will rise again, The Alan Parsons Project, () Disc 1, No. 9

 But show me how to follow you and I'll obey.
 Teach me how to reach you, I can't find my way.
 Let me see the light...Let me be the light.

 And so,with no warning,nor last goodbyes,
 In the dawn of the morning skies
 The eagle will rise
 Again.


 今はまだ傷心を抱く翼やも やがて飛翔す 朝陽の中に



床に座り込みグラスの破片を見つめるジンの目から涙がこぼれた。 

ヒョンジュ…僕はどうかしてるのか?
僕の中には変わらず君がいながら彼女に惹かれる。
僕は楽しいと感じ…うまいと感じ…冗談を言い…笑う…
いったい何をはしゃいでいるんだ。
君はもう二度と笑って食事などできないのに。
透き通った朝日も…雨の匂いも…海の波の音も…春の風も
何ひとつ感じることができないのに。
なぜ僕はこんなに普通に生きようとしているんだ。

”また笑ってくれたジン へ”

ヒョンジュ…僕はどうしたらいい…
どうやって笑ったらいいんだ…
ジンは自分の腕を抱きながら声を殺して泣いた。



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