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サービス第一の人だった。 独特の間で魅了する森繁節。インタビューでもパーティーのスピーチでも、聞き手が喜ぶのを知っているから毒舌を忘れなかった。 取材に同行した女性カメラマンをからかって困ったこともあったが、これも好色ぶりで笑わそうとするサービス。このサービス精神が、舞台、映画、テレビなど様々なジャンルで活躍した役者・森繁の根底に流れる根本原理だった。 反骨の人でもあった。戦前は軍事教練に抵抗したため、早大を追われた。86年には、「一生懸命やっている者から入場税を取るという根性が我慢ならん」と、舞台入場税撤廃の先頭に立った。その反骨精神は、困難な治水事業を幕府から押し付けられて苦しむ男たちを描いた名舞台「孤愁の岸」に結実した。 そして、大陸的人情の人であった。自ら中国から引き揚げてきた人だけに、中国残留孤児のことを伺った時、「残す親もつらい。が、生みの親より育ての親。楽じゃない暮らしの中で一生懸命育ててくれたんです。今の日本の親、できますか」。涙ながらの言葉に聞く方も目頭が熱くなった。 この懐の深い情は、竹脇無我や西郷輝彦ら、多くの後進を育てたことに表れたし、生涯の当たり役、「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテヴィエを造形する過程でも大きく役立った。成長するため、親の意に反して巣立つ娘たちを、優しく包み込む。 88歳の誕生日の直後、自宅を訪ねると、庭でひ孫を抱いて、「この子、1歳。僕、88歳」と言っておどけていたが、大好きな芝居の話になると、「舞台は出がすべて。出た瞬間にバーッと周囲を圧倒しなきゃねえ」と両手を上げた。 それは「屋根の上――」の「トラディション(しきたりの歌)」を踊る時のテヴィエの手だった。 演劇評論家・河村常雄(元読売新聞専門委員) ※この記事の著作権は、ヤフー株式会社または読売新聞に帰属します。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.11.10 22:37:19
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