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piled timber

逃走

 ガチャーン、ガラスの割れる音が響くと共に周りの目が僕に一斉に注がれた。書いている今だからそう考えるのかも知れないが、あの時僕はただお気に入りの先生の気を引くためだけにガラスを素手で割ったのかも知れない。

 周りの園児が騒ぎ初めて、初めて気がついた小林先生は、僕の方に近づいて来た。「血が出てるよ・・」そんな声が聞こえはしたが、僕は流れ出る血の事よりも、大好きな先生に叱られる恐怖から逃げるように幼稚園の中から走り出ていた。
 
 家から幼稚園までの道のりは大人の足でも十五分以上かかる距離だった。当然、幼稚園児だった僕の足では二十分はかかる道のりだった。幼稚園から逃げ出した僕が行く先は、当然自宅しか無かった。懸命に走る私の背中から先生の声が聞こえていたけど、僕は走り続けた。

 今では舗装路となっている道路ではあるが、当時はまだ砂利道で、車が走れば砂埃が舞うような道を僕は先生を振りきるように走っていた。今考えて見れば先生が何故追いつけなかったか甚だ疑問が残るところであるけれど、とにかく先生に追いつかれる事は無かった。「待ちなさい」と背中に声を聞いてはいたけど、僕は一度として立ち止まる事無く走り続ける。どう考えても何処かで立ち止まりそうな気がするのだが、三十年以上も前の記憶だけれど止まった記憶は無い。

 こうして僕は自宅まで、先生の声を肩越しに聞きながら逃げついた。しかしそこは終点では無く、更に僕は裏山の林檎畑に上って行った。当然の様に先生も僕の後を追って山に入っていった。しかし幼稚園児に山の登りはきつかったのだろう。小林先生の声がみるみる近づいて来た。

 山の中腹では、母がいつものように農作業をしていた。その母の膝に抱きつくように僕はしがみついて行った。僕の記憶はそのように覚えている。母と先生は何か話をしていたのと、僕の怪我をした右手の半分乾いてしまった血を拭きながら手当をして貰った記憶がある。
 ガラスを割ってしまったのはたぶん何かにイライラしていて、それで好きな先生にかまって欲しいが為にあんな行動をとってしまったのだとは思うが、ガラスを割ったという行為は覚えていても理由なんかは記憶の隅にも無い。

 逃げる場所は、あの幼かった頃から母の元でしか無かったのを今更ながら感じてしまう。あれから何度母の元へ逃げ込んだ事だろう。生活や、仕事に追われる事に、何故か母の顔を見るだけで立ち直れたのが、今では逃げ込む先が無くなってしまっている事に気づいている。
 そして逃げ場所が無くなった今、「逃げる」行為をしないように自分を押さえるようになってきている。良いか悪いかは自分では判らないが、無鉄砲に生きて来れたのも「逃げ場所」が有ったからのような気がしてならない。


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