一人暮らし
一人暮らしがしたかった。出来るタイミングもあったけど、経済的・防犯の理由で却下されてしまった。その後、自分でも経済的という面で辞退してしまったけれど・・・。やっちゃんは一人暮らしをしていた。実家は東京で就職した会社で決められた配属先が群馬県だったのだ。一人暮らしと聞いた時、「おおお!」と思った。私が出来ないことをいとも簡単そうに実現している人が身近にいるとは!単純に羨ましかった。(本人の意思じゃないけれどね。)全て自分のお金で暮らしていて、実家ともちょっと遠い。いくら一人暮らしでも実家が近くてはあまり意味はないと思っているから。雑音が聞こえて来ないというのは気分が害されなくていい。ま、私にとっては、だけどね。。味も素っ気もない部屋だったけど、可愛がっていた猫や亡くなったおじいちゃんの写真が飾ってあったのは好ましかった。寝る場所もベッドではなくうちにもありそうなお布団だったのもアットホームな感じを受け、居心地の良さが増した(笑)お母さんからの葉書もまだ見知らぬ恋人の家族に好奇心をそそられたりしてね。。離れていても家族とちゃんとお付き合いが出来るのはステキなこと。間もなくここは私の心の避難所となる(笑)本当に行く気はないけれど、本当にイヤなことがあったらすぐ、ここに来ようとずっと思っていた。実際、避難した回数は2年間で2回だったと思う。その内1回は今、私達が住んでいるこの部屋だった。彼は結婚する3ヶ月前に新居に引っ越していた。避難所はもう1つあった。高校時代からの友達の家。子供2人と暮らしている。1度、彼女等がそれぞれ仕事・保育園に行っている間に留守を預った。その時、私は完璧なマレッジ・ブルーだったのだ。一人暮らしの彼の部屋は6畳と8畳が1つづつ、小さなキッチンにバス・トイレ。彼以外の住人は皆、家族(または夫婦)だった。近所にはスーパー、薬局、本屋さん、15分歩けば駅。ちょっとした食べ物屋さんもあり、週末婚にはうってつけ(笑)早くからうちの親には彼とのことは公認となっていたので、急に泊まることになっても連絡入れれば何ともなかった。それでも続くとイヤな顔されると思ったので、たまに友達の名前を言ったりもした(笑)土・日の午前中は隣にある野球場から軽やかにキーン・・・と鳴る金属バットの音や、場内アナウンスで目が覚める。そして夕方5時になるとどこから流れているのかわからないが、「遠き山に日が落ちて」の曲と共に「おうちに帰りましょう。」という放送が聞こえて来た。私はもう帰っているもん、と一人で安心した。私は彼の部屋に「私物」を置かなかった。私から見て、いかにも「女がいる部屋」にしたくなかったのだ。見える場所に自分の物を置くのは独占欲の表れだと思っている。少しの着替えと2人で出掛けた時のお土産が少し。それでも彼は「小宰相の物が増えた。」と、それは満足そうにしょっちゅう言っていた。度々ドイツに出張に行っていた時、いつも成田まで迎えに行きたかったが上司と一緒の時が多くなって来て、更に飛行機が大幅に遅れることがあってからは彼の部屋で待つようになった。「留守中、いつでも来ていいよ。」と言われていたけど遂に1度も行かなかった。1度、送りに行った時もあって、その時はわざと自分用に買った物を入ってすぐの場所に置いていった。また、ここに帰って来られるようにと。彼はお料理が上手だ。調味料はうちと変わらないくらいあって、うちに無いようなものがあると感激した。初めて朝食を作ってもらった時、ただのトーストと目玉焼きとサラダだったがとてもキレイだった。白いお皿にくっきりと目玉焼きが浮かんでいる。お鍋をする時に見た、野菜を切る手つきも好き。お鍋が終わった後に入れたうどんも美味しかった。忘れてしまったけれど、ちょこっとした物をよく作ってくれた。「恋人の家で恋人の作るご飯」を食べるのは嬉しくて楽しい。当時、私はキッチンに立つことあまりしなかった。掃除したり洗濯をすることもなかった。押しかけ女房みたいな感じがしたから。いい気な女になりたくなかった。でも、何回か作って彼を驚かせたこともある。絵に描いたようでこそばゆかったけど。今は二人暮しになって私の物は溢れ、彼の物は息を潜め、私に聞かなくてはどこに何があるのかわからないと彼は言う。ご飯を作るのも洗濯・掃除をするのもいつも私。寝るのも私が持って来たダブルベッド。彼にとってここが常に「心の避難所」であって欲しいと思うけれど。。