オールフレンチ興亡史(リジェJSシリーズ)
10年ぶりのフランスGP開催だってんで、そのグランプリウィーク中にアップしたかったんだけどさ、毎度毎度のぐうたらで、アップ用の画像撮り終えた頃にはハミルトン優勝でレースは終わってた、という。。。 フレンチブルーも鮮やかな、今年の開催地ポール・リカールとは敵対関係にある?マニ=クールを本拠地とした今は亡きリジェ。人も機材も一級品であるよりもまずはおフランス製であること、オールフレンチに拘るあまり勝機を逸し続けて、結局デビューして数年がクライマックスであとは下る一方のエフワン人生を彩ったマシンたち。スパーク1/43 リジェ JS5 マトラ1976年ベルギーGP 3位#26 ジャック・ラフィー オールフレンチの妄執、リジェのデビューイヤー。ジャック・ラフィーの一台体制で表彰台3回、ポールポジション1回、コンストラクターランキング6位は立派なもの。開幕戦では異様にデカいインダクションポッドだったが、安全性を考慮して高さ規制された第4戦スペインGP以降はこのカタチ。 リジェのシャシー形式JSはチーム代表ギ・リジェの友人でホンダF1で事故死したジョー・シュレッサーのイニシャル。デビューマシンなのに「JS5」なのは、JS1~3はスポーツカーにJS4はスマート・フォーツーとかスズキ・ツインのよーな(つか先祖)マイクロカーの名前に使用済みだったから。スパーク1/43 リジェ JS7 マトラ1977年スウェーデンGP 優勝#26 ジャック・ラフィー この年も基本的に1カー体制(最終戦富士のみ2台体制)。そして参戦2年目にして早くも初優勝。基本線はJS5のモディファイなんだが、ノーズ形状や上乗せウイング、コックピットサイドのエアインレットなどフェラーリ312Tライクで、ついたあだ名はブルー・フェラーリ。初優勝は記録したもののコンストラクターランクは8位に後退。スパーク1/43 リジェ JS9 マトラ1978年スペインGP 3位#26 ジャック・ラフィー しつこく1カー体制。 シーズン前半はJS7を使いまわして、第5戦モナコで様子見デビュー。その後はサーキットによってJS7(と改良型JS7/9)と使い分けて後半戦は頑張る、みたいな使い方。結果13ポイントを稼いで(プラスJS7とJS7/9が6ポイント)でコンストラクター6位に再浮上。 サイドポンツーン形状からウイングカーかと思いきやまったくベンチュリ構造にはなってない。前年ロータス78が速いのに目をつけてサイドポンツーン外観だけを意味も判らずパクったのかも知れない。ミニチャンプス1/43 リジェ JS11フォード1979年スペインGP 優勝#25 パトリック・デパイユ この年から2カー体制。 ずーっとリジェドライバーだったジャック・ラフィーに加えてティレルで奮闘していた開発巧者のパトリック・デパイユが加入。重いマトラV12が撤退したのに伴いリジェ史上初外国製のエンジンとなるフォードDHVを搭載し、今度はちゃんと理論を理解してパクったサイドポンツーンのベンチュリが効果を発揮してラフィーが開幕2連勝。デパイユもスペインで自身二度目の優勝を記録。開幕5戦で3勝2位一回と好調な滑り出し。しかしながらデパイユがプライベートで怪我して戦線離脱すると急速に戦闘力が低下して前半の勢いを維持できなくなった。それでもコンストラクターランキングは3位に躍進。 ちょっとラフィーの26号車に飽きちゃったこともあって、ここはJS11の立役者デパイユのスペイン優勝車をチョイス。なんだけどミニチャンプスがやらかしてる。これがスペインGP仕様というならば、ボディサイド踊り子の前の月桂冠はブラジル2位が正解なのに、ブラジル1位が貼ってある。写真撮ってから気がついたよ。まあエッフェのデカールがまだ残ってるから今度修正しておこう。スパーク1/43 リジェ JS11/15 フォード "1980年ベルギーGP 優勝"#25 ディディエ・ピローニ グランドエフェクト効果ここに極まれりの1980年。 サイドポンツーンのダウンフォースで充分事足りるようになったF1マシンにはフロントウイングすら無用の長物。前年、速さに恵まれたリジェは80年用のマシンに新機軸を持ち込まず前年マシンの細部を詰める方策を取ってJS11の改良型JS11/15で戦う。 怪我の癒えないデパイユに換えてティレルでエッジの効いた走りを披露してた新進気鋭のフレンチドライバー、ディディエ・ピローニに#25号車を与え、のちに因縁浅からぬことになるゾルダーで自身の初優勝を記録する。 しかしチームを牛耳るラフィーよりも先に勝ったことでピローニの居心地は悪くなる。ラフィーがいつ何時もナンバーワン待遇を要求し、嫌気がさしたピローニは一年でリジェを離脱する。もしもリジェでの待遇が見直されて翌年のフェラーリ移籍がなければ、ジル・ビルヌーヴもピローニももっと長いF1人生を過ごしたかもしれない。 ウデの衰えをナンバーワン待遇で補うラフィーと待遇の悪さを自分のウデ一本で覆そうとするピローニの思わぬ相乗効果でリジェ史上最高のコンストラクターランク2位となる。スパーク1/43 リジェ JS17 マトラ1981年オーストリアGP 優勝#26 ジャック・ラフィー エンジンにマトラが復帰。 名機JS11系シャシーを正常進化出来たJS17の戦闘力は高く、優勝2回含む表彰台7回、入賞2回とコンスタントにポイントを重ね、最終的にチャンピオンとわずか6ポイントまで肉薄のドライバーランク4位を得る。しかしながらコンストラクターランクはセカンドドライバーの不調(3人交代して全員ノーポイント)により9位へ後退。 この年までがリジェ栄光の歴史(ってほどでもないか)。ここを境に戦績は緩やかに下降線をたどり、それでもオールフレンチに拘るあまり資金だけは潤沢なB級チームへと成り下っていく。スパーク1/43 リジェ JS19 マトラ1982年オーストリアGP 3位#26 ジャック・ラフィー この時代、空力の最適解はロータス79を祖とするマシン群なのは明白なのに、何をトチ狂ったのかリジェは大失敗作ロータス80理論を採用。より長い逆翼断面形状を得たいがためにリアサスペンションもアンダートレイをサイドパネルで囲い込んじゃった。 アンダートレイをリアサスの後ろで跳ね上げるのはその後のリアディフューザーの奔りとも言えなくないが、まあ本家同様てんで走らなかった。リタイア続出のサバイバルレースを生き残って3位表彰台をゲットしたのは大金星だろう。スパーク1/43 リジェ JS21 フォード1983年アメリカ西GP DNF#25 ジャン=ピエール・ジャリエ 長年リジェの看板だったジャック・ラフィーが遂にウィリアムズへ移籍して、ジャン=ピエール・ジャリエとラウル・ボーセルの2台体制となる。 1982年の死亡事故2件を含むアクシデント対策としてフラットボトム規定が施行された83年、サイドポンツーン内の補器類レイアウトなどはそのままにアンダーパネルをフラットにするチームと、ベンチュリ構造が得られないならサイドポンツーンなんかいらねえじゃんとゆーチームに分かれた。JS19が既にサイドポンツーンなしだったリジェはためらいなく後者を選択。 フラットボトムで極端に少なくなるダウンフォースを補器類をリアセクションに集中することでトラクションを稼ぎ、リアヘビーな車体はシトロエン製のハイドロニューマチックサスでコントロールしようって魂胆だったが、地力がないのにあれこれ詰め込み過ぎた結果チーム史上初の年間ノーポイントに終わる。 フレンチブルーにジタンタバコは相変わらずだが、フランス以外のスポンサー(ラウル・ボーセル絡みのブラジル企業)がデカデカとついたのは始めて。 とゆーリジェ興亡史。この後のマシンもいくつかあるんだが、かなり飛び石状態、特に日本がF1ブームだった時代(1987~94)のマシンがずっぽり抜け落ちてる。オニクスのしょーもないモデルはいくつか市場にも残ってるが、今の目には耐えられないレベルだし、ここはひとつスパークに期待するってことで。