3207018 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

studio PINE SQUARE

studio PINE SQUARE

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

RC200t

RC200t

Freepage List

愛車遍歴


トヨタ スプリンター・トレノ 1.5SR


トヨタ スプリンター・トレノ 1.6GTアペックス


日産 ブルーバード SSSアテーサ


日産 スカイラインGTS-tタイプM


日産 スカイラインGTS25-tタイプM


日産 スカイラインGT-R


日産 スカイラインセダン 350GTタイプS


レクサス RC200t Fスポーツ


楽器遍歴


現行ラインナップ


1970年代後半~ポセイドンのめざめ


1980年代~超大作


2000年前後~リターン・オブ・ザ・マンティコア


2015年前後~21世紀の精神異常者


コロナ禍~キャリー・オン・ウェイワード・サン


ルマン・ウィナー(戦後編)


戦後復興期とジャガーの台頭(1949-1957)


フェラーリ黄金時代(1958-1963)


フォードVSフェラーリ(1964-1969)


グループ6と“走る広告塔”(1970-1981)


Cの時代~ポルシェの壁(1982-1987)


Cの時代~壁の向こうへ(1988-1993)


Cの時代~番外編(バイプレイヤーズ)


GTとWSC(1994-1999)


アウディ帝国の確立(2000-2005)


ディーゼルの時代(2006-2011)


多様化するパーワトレイン(2012-2020)


F1ワールドチャンピオン


フロントエンジンの時代(1950-1957)


Category

Comments

2019.11.12
XML
カテゴリ:ルマン24h
​​ ​タイトル読んでも判るだろうが、ちょっと前に「アメリカ人ドライバーがアメリカ製レースカーで
ルマンを制覇する」を旗印にした​ブリッグス・カニンガムのネタを書いたが、今回はその続き。
 およそ我々愚民のもつ大富豪のイメージそのままに、ワガママ気ままに「そうだ、ルマンに行こう」と
言い出したのかどうかは知らんが(多分、そんな単純なハナシじゃなかろう)、兎にも角にも
吊るしのキャデラック「プチ・パトゥ」と、キャデラックの原形を留めないほどいじくりまくった
「ル・モンストル」でルマンを完走(10位と11位)した1950年。
「ル・モンストル」を作ってる段階で、ルマン参戦が決して気ままな思いつきであるわきゃないけど、
いずれにせよ優勝には程遠いリザルトにガッカリしたのは容易に想像がつく。
アメ車頂点のキャデラックでもルマンは無理かぁ。。。と普通はあきらめるもんだが、そこは大富豪。
既存のクルマでダメならば、ルマンに勝てるクルマを自分で作りゃあいいじゃん。
なんならクルマ好きな人には売ってもいいし。
だったらまず専用の会社を作っちゃおうぜ!ってなわけで、フロリダ州はウエストパームビーチに
「B.S.カニンガム・カンパニー」を創業し、最初の市販車カニンガムC1を製造したことが
第二章の始まり。



吊るしのキャデラック「プチ・パトゥ」と新しいカニンガム・カー達。
クルマは変われども、アメリカズチームである証、白地に青のカラースキームは変わらず。


ビザール1/43 カニンガム C2R ”1951年ルマン24h 18位”
#4 ジョン・クーパー・フィッチ / フィル・ウォルターズ

 1950年の残念な結果を受けて「こりゃ、イチからクルマ作るっきゃねーな」と一念発起した
ブリッグス・カニンガムが自社初のロードカーであるカニンガムC1を経て、ルマンに3台体制で
送り込んだのがC2R(C1も予選は走った)
、自社オリジナルのシャシーにクライスラーのV8OHVエンジンをベースとして、そこに
キャデラックのピストン、コンロッドを組み込んで圧縮比を上げた強化エンジンを載せたC2Rは、
夜間走行中に2台がウェット路面に足をとられてクラッシュしリタイア。
唯一残ったこの4号車が20時間まで2位をキープしたものの、エンジン強化策が裏目に出たのか
エンジントラブルで後退。
チェッカーを受けるためにはスロー走行せざるを得ず、結局総合18位でレースを終えるも、
最終ラップが遅すぎて完走扱いされなかった。
(2016年アイハブノーパワーのTS050と同じ状況だあね)
とはいえ、たった一年で、スポーツカー製造会社を興して、オリジナルのマシンをゼロから仕立てた
結果が18位なら御の字と思うんだが。
マシン自体も、さすがに「吊るしの」キャデラックよりは全然レーシーな出来映えじゃんか(笑)

 なにげにお初のビザール製品。
スパークと同じマカオのミニマックス社のブランド。
スパークと比較すると、ちょっとマテリアルがちゃちだったりする。
ウィンドシールドやミラーステーがかなりプラスチッキーだったり、発売時期の問題もあるんだろうが
現在のスパークのレベルからするとちょっと格下にみえる?
けれど、現在でもスパーク程の手数はないものの、スパークと並行して新商品がリリースされているし
そこらへんはどーゆー棲み分けしてんだろうね?


スパーク1/43 カニンガム C4R ”1954年ルマン24h 5位”
#1 ブリッグス・カニンガム / ジョン・ゴードン・ベネット

 多分、カニンガム・カーのなかでは一番有名なヤツ。
1952年から54年にかけてルマンに参戦して、のべ7台中5台が総合10位以内で完走、
うち3位表彰台1回と新興メーカーとしては上出来の戦績を残した。

 余りあるパワーと速さでルマンファンの度肝を抜いたにもかかわらず、欧州の評論家筋からは
「あんだけデカくて重けりゃ、そりゃパワーも速さも出るだろうが、それじゃ勝てねえよ」と散々。
まぁそうかなぁ・・・と素直に認めたブリッグスは、でかいクライスラーエンジンは譲れないとして、
他の部分を出来得る限り小さく作ろうとして、C2Rに比較して幅15センチ、長さ40センチほど
切り詰めて出来たのが、前面が大きく切れ上がったフロントフェンダーが特徴のC4R。
 これまた開発期間一年未満の突貫工事で作ったのに、3年も第一線で戦える競争力にはビックリ。
なにか開発陣も想定しなかった良い化学変化があったんだろう。
なにせ、ジャガーDやEを設計したマルコム・セイヤーをして「シャシーには効果的な筋交いがない。
もしリアの片輪をジャッキアップしたらボディはドアが開閉しないほど大きく捩れるだろう。
まったくもって理論的根拠なしに作られてて、こんなのが完走できるのは不思議」と言わしめるほどの
大甘設計だったが、起伏のあるワインディングだらけのせせこましい欧州ならいざ知らず、
基本フラットで直線と緩いカーブのアメリカ大陸を走るのには別に問題にならなかったんだろう。
 また運もあったのかも知れん。
最初の年なんて、予選でブレーキライニングにひびが入ったのにスペアパーツがないままにスタート。
しばらく走ると今度はクラッチが滑り始めるトラブル。
それでもブリッグス・カニンガムが一人で24時間走り切って4位入賞だもんね。
クルマはトラブルでガタガタで慎重に操らなきゃいかんけど、相棒は細かい気配りなんて出来ない
豪放磊落な乗り手だから、交代しようものな絶対完走出来へん、一人でやったれ!ってことらしい。
(まあ、自分が作ったチームだし誰にもあれこれ言わせねえよって)
 54年は、熟成の域に達したのかノントラブルで2台出場の2台とも入賞。
3位に入ったスピアー/ジョンストン組の2号車のあと、この1号車は5位でフィニッシュ。

 C2Rがビザールブランドだったのに、C4Rはスパークブランドでの発売。
やっぱりウィンドシールドとかライト周りの出来映えはワンランク上。
GT40なんかは、既存のビザールブランドにエッチングなどを見直してスパークで出し直してるから
C2Rもそうしてくんないかなぁ。

 ちなみにこのC4Rは、当時のまんま残っている。
最初、ブリッグス・カニンガムが自身の自動車コレクションを披露するためカリフォルニア州
コスタ・メサに建てられた「カニンガム・オートモティブ・ミュージアム」に収蔵され、
そこが閉館した後、旧友マイルズ・コリアー(50年の吊るしのキャデラックのドライバー)家に
売却されて、フロリダ州ネープルズの「レブス・インスティチュート」で公開されている。
 ちょうど今期のスーパーボウルが開催されるのはマイアミのハードロック・スタジアムだから、
ついでに寄ってみるといいぞ(誰宛て?)
そのハードロック・スタジアム、2021年からのF1グランプリ開催を狙ってるらしい。

 C4Rを擁してルマンを戦った3年間は、優勝こそ記録出来なかったものの、B.S.カニンガム・
カンパニーとしてのクライマックスであり、その挑戦は「勇敢なる失敗」と絶賛された。
けれどもIRS(アメリカ内国歳入庁)にとってはハナシは別で、「カニンガム・カンパニーみたいな
小規模生産のカーメーカーは、創業開始から5年経っても収益が出なきゃダメ」が当時のルール。
そりゃあもう「会社」じゃなくて「道楽」でしょってこと。
なにせ5年間のルマン遠征に対して、売りに出されたクルマはたったの25台。
C2Rシャシーにクライスラーエンジンを載せてトリノに送り、カロッツェリア・ビニャーレで
ミケロッティデザインのボディを架装する、という手間ひまをかけた市販車「C3コンチネンタル」が
25台売られただけだったんだから、収益もへったくれも(笑)
そもそも儲けようってハラがあったかどうかも怪しいもんだ。
 結局、ブリッグス・カニンガムはこの後、C5R、C6Rとマシンを仕立ててルマンに挑戦するが、
上述のIRSの判断もあって会社を畳み、1951年から55年に渡るカニンガム・カーによる偉大なる
ルマン挑戦は幕を閉じるのであった。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.07.29 18:09:51
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.