細うで繁盛記(ジョーダン・グランプリ)
昭和世代には懐かしい「細うで繁盛記」は、没落した料亭の一人娘が伊豆熱川の温泉旅館「山水館」に嫁ぎ、家族の軋轢に抗いながら旅館を再興するという、実に昭和らしいテレビドラマだった。解決したと思ったらまた無理難題という、今でいうジェットコースタードラマ(といっても実にゆったりとした時間的展開ではあったが)みたいなもんだ。 エディ・ジョーダン率いるジョーダン・グランプリは、幾度もワークスエンジンを失うものの、別のワークスエンジンや優良ドライバーを獲得したり(多分、捨てる神あれば拾う神ある、で買い叩いたんじゃないか?)どこからともなく大口スポンサーを獲得したりで、15年も生き延びた。これはひとえにエディ・ジョータンの人脈と手腕の賜物だろう。 ↑実に7回もエンジンをとっかえひっかえしたジョーダン・グランプリの歴史。 いつかジョーダンをまとめる時が来たら「細うで繁盛記」ってタイトルにしようと前々から考えてた。まぁ細うでというよりは剛腕かも知れないが、剛腕の代表選手のようなトム・ウォーキンショーやフラビオ・ブリアトーレに比べればはるかに大人しいように見えるから、細うででいいじゃん、と。 その細うでエディ・ジョーダンが3月20日に死去した。知らなかったが昨年末にがんを公表して闘病していたのだそうだ。どケチで知られ、チーム存続の為ならなんだかんだ難癖つけてサラリーを出し渋るという悪評もあるが、一方でジャン・アレジ、ジョニー・ハーバート、デイモン・ヒルをはじめマーティン・ブランドル、エディ・アーバイン、ジャンカルロ・フィジケラなど錚々たるドライバーを発掘・登用し、その最たるものがミハエル・シューマッハだろう。そういうところは、かのケン・ティレルとイメージがダブるね。ミニチャンプス1/43 ジョーダン 191 フォード(V8)1991年コンストラクター5位#32 ミハエル・シューマッハスパーク1/43 ジョーダン 191 フォード#33 アンドレア・デ・チェザリス 鮮やかなアイリッシュグリーンに誰もが感嘆の声をあげる、ジョーダン・グランプリの祖にして完成形。逆に言えば初手から完成度の高いマシンを出してしまった成功体験が、後の数年間の混迷を招く結果になったか。ミニチャンプス1/43 ジョーダン 192 ヤマハ(V12)1992年コンストラクター11位#33 マウリシオ・グージェルミン ワークス待遇ではなかったフォードHBエンジンに見切りをつけて、ブラバムとの長期契約を反故にしたヤマハV12エンジンを首尾よくゲット。そこまではよかったが、Ⅴ8エンジン想定のキープコンセプトなボディワークでは、重量バランスや発熱に問題を抱えてまったく勝負できずにリタイアの山。アイリッシュグリーンからサソル・ブルーになっても美しさは相変わらずだったのだけれどねぇ。ミニチャンプス1/43 ジョーダン 193 ハート(V10)1993年コンストラクター11位#15 エディ・アーバイン 待望のワークスエンジンだったはずのヤマハが不発ということで、またもやエンジン交代。自製エンジンを辞めフォードDFRのチューニングをやっていたハートが諸事情により製造を開始したV10エンジンを購入。その出ていく資金のかわりに前作192のモノコックを流用するところがどケチの真骨頂。 #14号車は新人ルーベンス・バリチェロ固定となるも、#15号車は持ち込み資金次第で入れ代わり立ち代わり状態。イヴァン・カペリに始まって(振り向けば)ティエリー・ブーツェン、(全日本F3000でお馴染み)マルコ・アピチェラ、(こちらも全日本組)エマニュエル・ナスペッティと変遷して最後はこれまた全日本組のエディ・アーバイン。アーバインだけがポイント獲得(鈴鹿6位)。レース展開についてアイルトン・セナと揉めた実績(?)あり。スパーク1/43 ジョーダン 193 ハート(V10)1993年コンストラクター5位#15 鈴木亜久里 思い切って初代191へ先祖返りをはかった意欲作。チーム創設以来はじめて前年と同じエンジンだが相変わらず信頼性は確保できずに足を引っ張る。エンジンさえ大丈夫なら十分な速さを示し、ジョーダン初の表彰台とポールポジションを記録した。 鈴木亜久里はレギュラードライバー(エディ・アーバイン)の出場停止処分中に代打出場。細かいことはこちらの過去記事を参照。ミニチャンプス1/43 ジョーダン 195 プジョー(V10)1995年コンストラクター6位#15 エディ・アーバイン 信頼性の低いハートエンジンに見切りをつけ、マクラーレンから三下り半を突きつけられたプジョーエンジンを拾ってあげる。けど三下り半の理由が信頼性不足なんだから、それならハートエンジンでもよかったんじゃね?とも思える。前年までで冠スポンサー(サソル)を失ったので、自動車メーカー系ワークスエンジンを積むことがチーム運営上マストだったのかも知れない。 エンジン自体はマクラーレン時代よりもブローすることが少なく、チーム初のダブル表彰台(カナダGP)を記録するも、ジョーダン自社製のギアボックスが不調でレースを落とすことが多かった。ミニチャンプス1/43 ジョーダン 196 プジョー(V10)1996年コンストラクター5位#12 マーティン・ブランドル プジョーエンジン2年目。大口冠スポンサーにベンソン&ヘッジス(タバコ)を迎えて、前年のように様々なスポンサーカラーで雑多なカラーリバリーから単色へ変化。但し当初はテレビ映りを意識してオーカー(黄土色)単色だったが評判は良くなく、第6戦モナコよりシャンパンゴールドに変更。マシンデザイナーのゲイリー・アンダーソンは一貫してハイノーズ嫌いだったが、クラッシュテスト基準の変更で否応なくハイノーズへ移行。2台で合計12回の入賞を記録したが表彰台はなし。初ハイノーズでデータ不足だったか?ミニチャンプス1/43 ジョーダン 197 プジョー(V10)1997年コンストラクター5位#11 ラルフ・シューマッハ チーム初の同一エンジン3年目は、プジョーエンジンの信頼性パワーも充分。前年と同じ入賞12回だが表彰台3回のおかげでポイントは前年よりもアップ。冠スポンサーの意向で全身黄色となり、売却によるチーム終焉までイメージカラーとなる(個人的にはどこかしアイリッシュグリーンは残しておいてもらいたかったが)。ミニチャンプス1/43 ジョーダン 198 無限ホンダ(V10)1998年コンストラクター4位#9 デイモン・ヒル 3年間組んだプジョーが、オールフレンチの夢に抗い切れずにプロスト・グランプリへ鞍替えするかわりに、プロストから宙に浮いたかたちになった無限ホンダエンジンを獲得。前半戦は変更されたレギュレーション(ナローボディ、溝つきタイヤ)へのマッチングに苦慮し無得点が続くが、後半戦に巻き返して完走わずか8台のサバイバルレースを生き残ったベルギーGPでチーム待望の初優勝(ヒル)。2位に同僚ラルフ・シューマッハが入り初ワンツー・フィニッシュのおまけつき。ただしワンツーのためのチームオーダーに起因してラルフはチームを去ることになる。マテル・ホットウィール1/43 ジョーダン 199 無限ホンダ(V10)1999年コンストラクター3位#8 ハインツ=ハラルド・フレンツェン 99年シーズンがジョーダン・グランプリの頂き。2年目の無限ホンダエンジンと開発上手のデイモン・ヒルに加えて、速い(が不運が多い)フレンツェンが新加入して、チーム浮上のキーは揃った。完走すればほぼ入賞圏内の好戦績でフレンツェンが2勝を挙げて四強の牙城を崩してコンストラクター3位。ヒルもフレンツェンも自分らを追い出したウィリアムズを下しての戦績に溜飲が下がる想いだったのではなかったろうか。マテル・ホットウィール1/43 ジョーダン EJ10 無限ホンダ(V10)2000年コンストラクター6位#6 ヤルノ・トゥルーリ 無限ホンダとは安定の3シーズン目、前年大活躍した199の改修機となれば、更なる飛躍が期待されたが、エディー・ジョーダンF1参戦10年を記念してEJ10と名付けられたマシンは、タイヤへの負担が大きく「新品時は超速で走れるけど3周もするとリアがダメになる(トゥルーリ談)」ほどだった。マシントラブルによるリタイアも増え、直近のライバルであるウィリアムズやベネトンはともかくも前年無得点のB.A.R.にすら遅れを取りコンストラクター6位に後退した。ミニチャンプス1/43 ジョーダン EJ11 ホンダ(V10)2001年コンストラクター5位#11 ハインツ=ハラルド・フレンツェン ホンダエンジンを(有償だが)獲得。開幕前テストでは絶好調でチャンピオン争いの一角を担うと思われたが、開幕と共にエンジニアが大量離脱して開発が進まず、同じホンダを積む直接のライバルB.A.R.がコケたおかげでコンスト5位を得ることが出来た。 ジョーダンのマシンとしては最も高く鋭いハイノーズで、その形状からノーズアートが蜂から鮫へ変更された。これまでエースドライバーとして活躍したフレンツェンだったが、母国ドイツGPを前に突如解雇される。理由は「ホンダ供給の条件として佐藤琢磨のシート確保があった」「マシン開発にのすべてに異議を唱えた(フレンツェン談)」「フレンツェンのパフォーマンス不足(ジョーダン談)」など言われたが真相は不明。ミニチャンプス1/43 ジョーダン EJ12 ホンダ(V10)2002年コンストラクター6位#10 佐藤琢磨 一般的にロータスがタバコパッケージをまとってF1に登場した1968年から長い間、タバコブランドはF1チームの重要な資金源だったが、実はタバコ広告の規制は5年後の73年から早くも始まっていた(ドイツ国内で)。更に1981年、喫煙者のみならず喫煙者周辺の人間にも副流煙や呼出煙による健康被害いわゆる受動喫煙によるリスクが提唱されると、タバコ広告の禁止は世界的な流れとなる。 少なくない予算を出して広告も出来ないとなればタバコメーカーのメリットは減り、したがって予算を縮小するのは企業としてごく普通の判断、ということでベンソン&ヘッジスはジョーダンの冠スポンサーを降りることになり、国際宅配便のDHLがメインスポンサーとなるが、それまでの無駄遣いのツケもふくらみチームは資金難に陥る。 それまで経験不足からポイントを獲れるレースを落としていた新人・佐藤琢磨が鈴鹿で値千金の5位入賞し、直ライバルのワークスホンダのB.A.R.をうっちゃってコンスト6位となるも、潮目を変えるまでには至らなかった。ミニチャンプス1/43 ジョーダン EJ13 フォード(V10)2003年コンストラクター9位#11 ジャンカルロ・フィジケラ DHLがスポンサーから撤退して、規模縮小したベンソン&ヘッジスが再びマシンの大半を覆うが、別に大幅増額したわけではなく、つまるところ予算は大幅減少。資金難に喘ぐチームの常套手段である前年型を改修、すなわち前方視界改善のためノーズを修正し、ホンダからフォードへエンジンを載せ替えるためリデザインした程度のEJ13はしかし、雨によるクラッシュ続出で大混乱のブラジルGPで、序盤に最後尾まで堕ちながらもワンストップ作戦を敢行して、赤旗終了にも助けられ望外の優勝を手にする。ジョーダン・グランプリの参戦200戦目での記念ウィンであり、フォードにとっても(今のところ)最後の勝利である。ミニチャンプス1/43 ジョーダン EJ14 フォード(V10)2004年コンストラクター9位#19 ティモ・グロック ベンソン&ヘッジスは残ったものの、マシン全体を覆うほど資金的に貢献しているわけではなく、弱小チームの証である数々の小口スポンサーがマシンを飾る。EJ13の改良型であるEJ14はつまるところ3年落ちのマシンであり、当然戦闘力も低い。第8戦カナダGPではトップから2周遅れの11位、12位でゴールするもトヨタ系4台の失格により繰り上げダブル入賞した。ミニチャンプス1/43 ジョーダン EJ15 トヨタ(V10)2005年コンストラクター9位#18 ティアゴ・モンテイロ ジョーダンとは名ばかり、創設者エディ・ジョーダンは既にチームにいない。資金難から開幕前の1月にロシアの投資会社ミッドランドに売却したが、コンストラクター登録期間の問題で2005年はジョーダンを名乗る。EJ14の改修型ということは実質4年落ちのマシンは、信頼性だけを頼りにグランプリに臨み、ミシュランタイヤ勢が棄権したった6台出走の第9戦アメリカGPでモンテイロは3位表彰台。チーム15年の終焉に花を添えた。 ミッドランドにわたったチームは、その後スパイカーF1、フォース・インディア、レーシング・ポイントとなり、現在はアストンマーティンF1へと至る。その辺のマシン群も全部入手あるが、それらはまた別の機会に。R.I.P. エディ・ジョーダン