万雑634_家持が天平勝宝三年の一月に作った歌3首(大伴家持_134)
万雑634_家持が天平勝宝三年の一月に作った歌3首(大伴家持_134)次は、天平勝宝三年(751年)1月に、家持が作った歌3首(4229、4230、4234)です。1月2日に守の館で宴会を開いた時、4尺も積もった雪を見て作った歌;4229_「新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが」※_「新しい年の初めは、これからも毎年、雪を踏みならしてこうして集まりたいものだね」と歌っています。1月3日に内蔵縄麻呂の邸宅に集まって宴会をした時に作った歌2首;4230_「降る雪を腰になづみて参り来し験もあるか年の初めに」※_「降り積もった雪の中を腰まで埋もれて、難儀して参上したかいがありましたね、年の初めに」と歌っています。4234_「鳴く鶏はいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそ我が立ちかねて」※_「鳴く鶏は繰り返し鳴くけれど、降る雪が千重に積もっているので、私は立ち去りかねています」と歌っています。備考;大伴家持の経歴と関連する出来事養老2年(718年)ころに生まれた天平8年(736年)家持が19か20歳で秋の歌4首(1566~1569)あり天平10年(738年)内舎人としてお目見え天平10年(738年)4月3日に弟の書持に贈った歌3首(3911~3913)天平10年(738年)家持の7月7日の七夕に作った歌(3900)天平11年(739年)6月;家持の妾が死去天平11年(739年)8月;家持と叔母の坂上郎女との相聞歌(1619)天平11年(739年)9月;家持と坂上大嬢との相聞歌(1625、1626)天平12年(740年)6月;家持が坂上大嬢へ贈った歌(1627、1628)※_天平12年8月29日藤原博嗣が政府批判、9月3日挙兵、藤原博嗣の乱天平12年(740年)に聖武天皇の伊勢行幸に従駕※_聖武天皇伊勢行幸;10月29日に立って、11月2日から11日まで滞在※_天平12年12月15日、聖武天皇の勅命により平城京より久迩京に遷都天平12年から天平15年ころ、家持は坂上大嬢を娶ったようですが?天平15年(743年)8月;秋の歌5首(1597~1599,1602,1603)あり※_天平16年(744年)2月、難波京に遷都天平16年(744年)2月;安積皇子(享年17歳)が死去天平16年(744年)4月5日;佐保の旧宅で作った歌(3916~3921)※_天平17年(745年)5月、都を平城京に戻す天平18年(746年)正月;天皇の詔に応えて詠んだ歌(3926)天平18年(746年)7月に越中守として越中国に赴任※_越中国在住中の歌が223首ある天平感宝元年(749年)4月14日から7月2日までの元号天平勝宝元年(749年)7月2日に聖武天皇から孝謙天皇に代わった天平勝宝二年(749年)3月頃;家持の妻の坂上大嬢は越中に居ました天平勝宝3年(751年)に帰京天平勝宝7年(755年)に難波で防人の検校に関わる天平宝字2年(758年)に因幡守として因幡国に赴任※_万葉集の末尾(巻20_4516)は家持が天平宝字3年に作った歌です天平宝字6年(762年)に帰京天平宝字8年(764年)に薩摩守として九州へ神護景雲元年(767年)に太宰少弐に転じて大宰府へ神護景雲4年(770年)に帰京(民部少輔)延暦4年(785年)_8月28日死去家持の作った歌の掲載巻別の歌数;巻第三;21首(長歌3首、短歌18首)_済巻第四;64首(長歌0首、短歌64首)_済巻第六;9首(長歌0首、短歌9首)_済巻第八;51首(長歌2首、短歌49首)_済巻第十六;2首(長歌0首、短歌2首)_済巻第十七;76首(長歌9首、短歌67首)_済巻第十八;69首(長歌10首、短歌59首)_済巻第十九;103首(長歌17首、短歌86首)巻第二十;78首(長歌4首、短歌74首)以上