つれづれなるままに

2017/10/09(月)12:14

二本目 赤尾由美さん

赤尾由美さん この方を語るについては、やはり伯父さんのことを語らないわけにはいかないでしょう。 ここまで別段、隠していたわけではありませんが。。。 赤尾という名字で故赤尾敏さん(元衆議院議員、大日本愛国党党首)を思い浮かべた方もおられると思います。 赤尾由美さんは、その赤尾敏さんの姪御さんです。(お孫さんではありません) 赤尾敏さんといえば、数寄屋橋交差点前(現在は築地に移転しているが、かつてこのあたりに朝日新聞東京本社があった)で連日演説していた「右翼の怖いおじいさん)というイメージをもたれる方も少なくなかろうと思います。 しかし、私が、赤尾敏さんへの強い印象は、昭和天皇崩御の朝、宮城前で、マスコミに囲まれ憔悴しきった表情の赤尾敏さんです。(それはとてもお声掛けするような感じではありませんでした) 私が、初めて赤尾由美さんにお目にかかったとき(次世代の党を応援するイベントだったと思います)そのイベントでは、登壇されることもなかったのですが、ある意味、ひときわ大きなオーラを放つ方が数人に囲まれて、にこやかにお話しされていました。 私が、お声かけしても、にこやかに対応してくださいました。 そこにはコワモテの赤尾敏さんの姪御さん=怖い人では全くありませんでした。 その際に、昭和天皇崩御の朝の宮城前の印象をお話ししたところ、由美さんは「当時、本当に倒れるのではないか」というくらい憔悴していた」とお答えくださいました。(いつものスマイルで) 私は、ここまで、取り立てて、赤尾敏さんのお名前を出さなかったのは、先入観として「怖い人なんじゃないか、近寄りがたい人なのではないか」といい印象を最初に持っていただきたくなかったからです。 勿論、佐藤和夫さんとのインタビューではこのことは触れられていますから、隠蔽したということではありません。 その後、数回お声が消させていただきましたし、facebookでは気軽に友達承認もしていただきました。 「近寄りがたい人」では決してありません。ぜひ、東京にお住いになられている方、東京で仕事をされている方、演説を聞きに行く時間的余裕のある方は、ぜひ、彼女と触れ合ってみてください。 何か幸せを貰ったような気分にさせてくれます。 出版記念イベントでは、私の愚問にも丁寧にお答えいただきました。 「何を聞いているのか」については、その本質をしっかりと見抜ける方であると思います。(私の質問には、時々、毒を込めた、皮肉交じりの、相手の知識を問うような質問などをさせていただくのですが、頓珍漢な答えをされる方、全く知識のない方そのような資質が暴かれることもあるのですが、赤尾由美さんは、「スマート」(クレバーなどという表現より。こちらのほうが合うように思います)な方だと思います。 最近の政治家には「風圧」を感じるような方は、めっきりおられなくなったように思います。 赤尾由美さんは、決して「風圧」を感じさせる方ではありませんが、どこにいても「存在感」がある方だと感じます。 このような方も、最近、残念ながら減ってきているように思われます。 講演などを聞きますと、平沼先生、青山先生などのように、一発で聴衆を虜にするという術は、御持ちにはなっていないようには思いますが、「引き出しの多さ」など、後でじんわりと印象を書き立てる、まあ漢方薬のような、お話となるのではないかと思います。 河添恵子さんや杉田水脈さんのような「日本刀のような切れ味」ではありませんが、自らの経験をもとにしたお話は、かえってだからこそ、心の奥底にしみわたる魅力とでも言うのでしょうか、やはり、そこは「怒って」話するのではなく、にこやかに話されるから、というのが、違いでしょうか。。。 少ししゃべり始めると「早口」になる傾向も見られますが、聞きづらいスピードでは決してありません。 さて、今一度赤尾敏さんのお話に少し戻します。 赤尾敏さんは、参議院選挙に出馬しながら「参議院の廃止」を訴えておりました。 今、少なからぬ方が「一院制」など持ちだしていますが、その多くは「衆議院議員」で、一院制というのはつまりは。自らの職責は確保しながら、「参議院を廃止する」という話です。 なぜ彼らは「一院制」とだけ言うのでしょう? なぜ「衆議院の廃止」とは言わないのでしょう? 赤尾敏さんの主張は、自らをもって、自らの職を失わせる。このような覚悟があるのです。 皆さん、「一院制」を掲げるからといって「国家のことを考えている」などと思わないでください。まず彼らにあるのは。「保身」あるのみなのです。 「一院制」は憲法改正を伴いますかrら、廃止するのは「衆議院」でも「参議院」でもどちらでもよいのですよ。。。 明らかに赤尾敏さんの主張は真の政治倫理としての「私との決別」の覚悟があるのです。 先日も書いたと思いますが「脱しがらみ」とは、政治家の「心の問題」でしかないのです。お世話になった方、応援していただいた方、それよりも「国家の在り方」において、彼らの要望に応えることが「国家意思を示す」「国家にとって損失」になると思えば、彼らの要望に応えない。それだ県も話なのです。 「しがらみ」という何やら「お金を支援してもらった」「票を投じてくれた」「お友達だ」などという関係を断つことでは断じてないのです。 「脱しがらみ」という人は、そのような関係が生まれれば、自分は「国家のためには動けない」という単なる一大衆にすぎないということを言っているのです。 今保養な方々には「国家の存亡をかけた」決断はできません。 そのあたりの「無私の心」を赤尾由美さんは、評価しています。 これは主張の違いにかかわらずに、「評価基準を見直す」べきものではないでしょうか。。。 だからこそ。究極の危機管理とは、「祖国のためにいかに命を捨てられる」という覚悟を持てるか否か。 こう主張する赤尾由美さんの「覚悟」が感じられます。 まさに「脱しがらみ」であり、真の政治倫理たる「私心との決別」ということが、すでに理解されているということでしょう。 今我が国における政治不信は、「政治家が国民を信用しない」「国民が政治家を信用しない」という負の連鎖に陥っているからだと思います。 「私心と決別した政治家」は、国民の政治不信に「一服の漢方薬」として効いてくるものと思います。 文責 上田 和哉

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