櫻井よしこ氏が本日付産経新聞にコラムを書かれている。
少なからぬ国民は「喝采」の声を揚げ、「その通り」と膝を叩くものと思う。
「政治」というものが、「正論」さえ掲げていれば、それで事足りる。
というなら、これほど「政治」というものは楽なことはない。
残念ながら、大衆とは、オルテガが指摘しているように、「皆と同じであることを喜ぶ」のである。そしてその皆と同じである。という中には、かなり独善的な「皆と同じ苦労を喜ぶ」以上に「皆と同じ幸福を味わいたい」そう願うものである。
そのような大衆の支持が得られなければ、「政治」はうまく回らない。その政策の推進力に大きな違いが出てくる以上、決して国民に啓を蒙く努力を疎かにしてはならないのである。
確かに変わらなければならないのは第一義的に「政治家」のほうであることは疑いがない、従って「政治家」はその職責をもって、ことに対応することが求められる。
ここでも、だが、を用いるが、それでも大衆というものは「正論」よりも嫉妬心に照準を合わせたような「感情論」を好む。
このことを忘れてはならないのである。
我が国のような民主主義国家は、そのような国民によって選ばれる。というシステムを採用しているのである。だから「民主主義」は駄目なのだ。などと言いつのることも可能だが、それもまた、国民を説得する困難さからの逃避行動に他ならない。
さらに、大衆社会のマスコミというものは、「国民が望む(とされる)」ようなことに照準を当てたがる。ものなのであり、これを批判だけしても詮なきことである。
私は、「野党批判」「マスコミ批判」だけを繰り返していても、それはそれで、批判する人々の「優越感」をくすぐる自己満足でしかない。
いやもっと言わせていただければ、そのような怠惰な「正論」の主張こそが「感情論」「感傷論」が跋扈する温床となっている。ということである。
「正論」を語っても国民は理解してくれない。
これが転じると「国民軽視」となり、わが論に従ってさえいればよい。という傲慢になる。傲慢さに国民が付いてくるはずなどないのである。
国民を無視。国民軽視。
その先に待ち受けているのは「独裁」でしかないことをもっと理解してもらいたい。
勿論これはコロンブスの卵のようなもので「国民への不信」「政治家への不信」は重なり合って「政治不信」に行き着くのである。
私は、櫻井よしこ氏を尊敬するが、「与党政治家」「総理および閣僚」の鵜の目鷹の目で与党政治家の粗探しをする中で、そのような追及のターゲットとなるような「言動」を行ったことに対する批判。これがないのが残念である。
「強行論さえ言えばよい」「正論」さえ語ればよい。
櫻井氏がそのような姿勢でないことは「憲法改正」における段階的改正論を支持していることからも十分理解できるであろう。
だからこそ「惜しい」と思わざるを得ない。
はっきりと、ある種の「安倍総理擁護論」ではないことを最初に示しておくべきである。
マスコミ野党に対して「隙」を与えたこと自体は、やはり批判すべきなのである。
「もっと大切なことがあるだろう」私も同じ気持ちである。
だが、これまで「安倍総理に指示を与えて」という印象を持つ方々が、正しいことを言っても、大衆は「隠そうとしている」との印象を与えてしまう。
このことにも配慮しなければならないのである。
このように書くと「日和見的」と批判されることにもなろう。
だが、そのような批判は承知の上で「政治」に真剣に向き合うべきであると私は思う。
民主主義政体における「政治」とは国民を説得する。ことである。感情を煽ったり、「国民はやはり判っていない」などと嘆くのは大衆社会における「政治」がわかっていない8.あるいは、そんな面倒なことをしたくない。という「怠惰」である。
私は、そのような作業をする地震などない。だから「政治家には向かない」そう考えている。
大衆社会における政治家の資質とは
・国民を説得し続ける粘り強さ
・粗を探すマスコミ等に対して「隙」を見せないこと
であろう。
我こそはと考える方々は、ぜひ立候補していただきたい。これは与野党あるいは、考え方の違いを超えてである。
このように書くと、共産党はよくやっている、などという勘違いをする人がおられる。しかし、共産党の実態とは、一部の政策立案を行う。というより解釈をする人、それに従う人の分割でしかない。
そう「俺に従え」「馬鹿な国民は我々に従ってさえいればよいのだ」という集団なのである。
彼らに国民を説得するという気はないのである。
だからこそ姑息な手段を用いる。「姑息な手段」は、説得力を欠く人が陥る悪弊である。「説得力」を持たない「非現実的」な主張にこの傾向は顕著なのである。
「国民がいる」「大衆がいる」ということを。。。
忘れてはならない。
ここまで書かせていただいて、櫻井氏のコラムを引用したい。
いつまで「森友」なのか 憲法改正や安全保障問題の矮小化は国民への背信だ
国際情勢が激変する中で、日本の政治家、政党はいつまで森友問題なのか。財務省の文書改竄(かいざん)は確かに重要だが、国家としての日本の在り方を問う憲法改正や安全保障問題を政局絡みで矮小化することは国民への背信である。
金正恩朝鮮労働党委員長の3月下旬の電撃訪中とその後の平和攻勢が、朝鮮半島情勢を過去の不毛な構図へと、一気に引き戻しかねない。日米韓の結束に中国も加わって形成した北朝鮮包囲態勢が突き崩され、日米韓VS中朝の二分構造に戻った感がある。
これで、北朝鮮の非核化が実現できるのか、見通しはつきにくい。日米の主張する非核化は北朝鮮の保有する全核物質、核関連施設、核兵器開発計画そのものを「完全かつ検証可能で不可逆的に解体(CVID)」することだ。
一方、正恩氏は「金日成主席と金正日総書記の遺訓に従い、朝鮮半島の非核化実現に努力する」と述べたと中国政府は発表した。また「(米国が)段階的で同時並行的な措置を取れば(核問題は)解決する」とも述べたそうだ。これでは従来の時間稼ぎと同じであり、日米には全く受け入れられない。
何の新味もない提案だが、正恩氏は韓国、中国、米国を相手に派手派手しい平和攻勢をかけ続ける。わが国の安倍晋三首相だけが取り残されたとの指摘があるが、皮相な見方であろう。北朝鮮が平和攻勢に転じたのは日本の攻めの姿勢ゆえだ。北朝鮮の過去の行動を分析し、一致団結して圧力をかけることが唯一の方法だという日本の説得に、米国も国連安全保障理事会も制裁措置を全会一致で決議した。
トランプ米大統領は国務長官にポンペオ中央情報局長官を、安全保障問題担当補佐官にボルトン元国連大使を指名し、対北朝鮮強硬派を並べた。正恩氏が米国の斬首作戦を真に恐れ、平和攻勢に転じた可能性は少なくないだろう。究極の圧力作戦が正恩氏を動かしたのである。
突然重要なプレーヤーとなった中国の動きを楽観するのには慎重でありたい。彼らは金日成、金正日の時代から、北朝鮮の核開発に苦言を呈しながらも事実上黙認を貫いた。国連による制裁にはおよそいつも反対し北朝鮮をかばった。直近のように中国が厳しい制裁に同意し実行したのは、核やミサイル実験というより、北朝鮮が中国の意向を無視し続けたからだろう。
だが、いまや正恩氏は習近平国家主席の言葉を真剣にメモし、あらゆる事案に関して「遅滞なく習同志に状況を報告する」と語る。正恩氏が従順であり続ける限り、中国が正恩氏の核保有に目をつぶる可能性は否定できない。北朝鮮の非核化と共に拉致問題も解決したい日本にとっては最悪の状況である。
米中は際どいせめぎ合いの中でも水面下の交渉を続けている。トランプ氏は3月16日、台湾旅行法に署名し、米台間の閣僚や政府高官の相互訪問の活発化を可能にした。同月22日には中国による知的財産権の侵害に最大で600億ドル(約6・6兆円)の制裁関税を課す大統領令に署名した。23日には米駆逐艦が南シナ海で中国の人工島の「領海」を航行する自由作戦を行った。台湾への関与強化は中国の最も警戒する点である。
トランプ氏が、それぞれのカードにどれだけの深い意味を込め、長期的視点に立っているのかは明確ではない。氏の得手とする眼前のディールのための強硬手段だとすると、米国にとって現実的に最も取り分が多くとも、短期的勝利でしかない解決策に落ち着く可能性がある。その中で、中国がコントロールするという合意の下で北朝鮮の核を事実上許容する危険性も否定できない。
韓国情勢にも多くの懸念がついて回る。文在寅大統領が目指すのは、金日成時代から北朝鮮が考えてきた韓国併合策としての連邦政府の樹立である。連邦政府は南北朝鮮統一への第一歩であり、実現すれば北朝鮮の脅威から韓国を守るという位置づけの米韓同盟は存在理由を失う。
文大統領の統一外交安保特別補佐官、文正仁(ジョンイン)氏が3月31日、東京都内で講演し、北朝鮮の非核化には時間がかかる、従って「段階ごとに北朝鮮に見返りを提供することが必要」だと、対北宥和策を説いた。氏は今年2月27日、米ワシントンで次のようにも語った。
・韓国大統領が在韓米軍に出ていけと言えば米軍は撤退しなければならない
・米国の軍事行動を阻止する最善の方法は米朝国交正常化だ
文大統領の連邦政府構想の根底に、米軍排除の思想があるのは明らかだ。仮に韓国側から米軍撤退を促す動きが表面化すればトランプ氏はどう対応するだろうか。それを米軍撤退の絶好の口実とする可能性も、北朝鮮を中国に任せる発想に傾く可能性も、日本は考えておかなければならない。
米韓同盟解消を願う南北朝鮮と中国の思惑、北朝鮮への中国支配、文大統領の対北宥和策。日本の眼前でこれらがないまぜになって同時進行中だ。こんな重大で深刻な危機に日本はどう対応できるのか。日本国民と日本を守るのは日本国でしかあり得ないのである。にもかかわらず、わが国は国民の命も国家の安全も、「平和を愛する」国際社会の「公正と信義」にすがり続けている。気概なき他力頼みと一国平和主義を70年も続けている。
今こそ、全政治家に問いたい。日米安保体制を強化するとともに、なぜ、日本国の自力を高めるべく憲法改正に真剣に向き合わないのか、と。憲法改正で日本国の歴史に名を刻む栄誉を担うのが真の政治家だ。
以上産経ニュースより引用
政治家には、その職責を果たしてもらいたい。
これは与野党ともになのである。
「自分に従ってさえいればよい」このような政治家は、いらない。
共に考え、ともに行動する。ことが重要であろう。
「評論」としてはありだとしても。。。
めまぐるしく映る国際情勢は、「強行論」などを一瞬勢いづけるかのように錯覚するかもしれない。
だが、それは「わかりやすさ」でしかなく、「感情論」と同じであることを心に刻んだ上で、「政策」とそて練り上げていく。「どうすれば国民に納得してもらえるのか」考慮しなければならないのである。
しかし、やはりマスコミや大衆の標的となるような「隙」を与えないことが重要である。
なぜなら往々にして我々は「正論」だけではなく「つまらぬこと」が政治の焦点になったりするからである。
文責 上田 和哉