二本目 都議選投票に行くまでに考えてほしいこと 1
少なからぬ都民は「小池都政」の10ヶ月間の功績として「知事報酬の削減、議員報酬の削減」をあげるのではないだろうか???小池都知事は、人々の話題の中で、「議員報酬」の話が出ることが、「都政への関心の高さ」を示している例として挙げている。私も報酬と仕事量にギャップがあると考えるが、その解消法として、報酬削減は最適な手法ではないと考える。報酬と仕事量のギャップの解消には二つの手法がある。一つは、報酬を削減することである。極めて、わかりやすい手法ではあるが、その手法は、知事・議員に対する軽視につながりかねず、有権者の「嫉妬心」にターゲットを合わせたポピュリズムの色彩が強い。東京都知事などは、短い選挙期間、島嶼部を含めれば広大な選挙区、1000万人を優に超える有権者。自由選挙が有権者とのコミュニケーションを考えれば、東京都知事選というものは公平性が担保されない選挙といってもよい。圧倒的な「知名度」がなければ、勝敗ラインにたどり着くことすらほとんど不可能である。圧倒的な知名度を得ているということは、それなりに財産を築き上げている可能性がきわめて高い。だから、知事報酬削減は、機会の平等、公平性に大きな影響を与えないだろう。しかし、それを圧力として議員の報酬を引き下げさせることに対しては、私はかなりの違和感がある。自由選挙には、かなりのコストがかかる。あ(数百万プラス供託金)そのコストを負担できるものだけが有利になることは不公平である。若く志ある方々にとっては、これはかなりの負担である。立候補前から「政治活動」をする必要があり、これらは当然無報酬である。ここに、選挙費用がのしかかるのである。借金をしても、報酬削減はその返済を難しくする。これは結局、このような人々の「入口」を閉ざす。機会すら奪うことになりかねない。またそのような方々が当選したとしても、議員報酬の削減がなされると、返済までンの時間がかかり、二期、三期と当選することが目的化する政治屋の生産につながる可能性がある。志の高い人よりも、ブームに乗っかろうとする、程度の低い人が優先されることにもなる。有権者にとって「都議」とは「何をしているのかわからない人」というのが圧倒的だろう。だからこそ、「安ければ安いほうがよい」と報酬削減に拍手喝采するのである。仕事量と報酬のギャップを解消するもう一つの手段。それは議員に、その名に、その報酬に値する仕事をしてもらうことである。これは、議員にとっても面倒なことであり、有権者にとっても関心の低いことを聞かされるのだから、それほど熱が入らない。しかし、私は、こちらのほうにこそ、英知を傾ける必要があるものと思う。私は、議員諸氏が「我々は、このような仕事をしているのだ。このような成果も挙げている。のだから報酬は妥当である」こう主張しなかったことに大いに不満を持っている。現在選挙中に「私たちはこんなことをやりました」と必死でアピールしているにもかかわらず、ほとんどの有権者が耳を傾けないのは当然だと思う。そのような機械は、議員報酬削減の際にすれば良かったものである。これは議員の自負心の崩落とすら言えるだろうし、議員として言ってもどうせ有権者は聞く耳を持ってくれないという「不信」でもある、しかしこのことは有権者の議員に対する「不信」を高まらせる。この不信の連鎖ともいえる減少を招きかねないのが、議員報酬の削減であり、それは為政者による「衆愚」の生産に他ならない。「政治とカネ」に配意していれば、政治が綺麗になるわけでも、統治の機能が強化されるわけでもない。舛添前都知事が示した醜態を記憶されている方もかなりいるだろう。そのことが示すのは政治資金さえ抑制すれば政治が綺麗になるという幻想によって生じたのは、我々が呆れ果てるほど「セコく」「姑息」な小さな腐敗の連鎖だったということである。この手の話をするならば、まず「民主主義が衆愚に陥らぬため」に統治する側、統治される側双方に最低限どのような自覚、心構え、覚悟を持つべきかを話す必要がある。そのためにはまともな統治をおこない、有権者に知らせるには、どのくらいのコストがかかるのか、選挙ではどのくらいの費用が必要なのか、日々議員はどのような活動をしているのか、これを居優しなければならない。そのような努力は何もせずに、有権者の「嫉妬心」に委ねたり、阿ったりすることは忌避すべきことなのである。このようなことが続けば、有権者はまるで皇帝になったかのような勘違いをしでかすし、政治課題なるものは現在及び目先の欲望の充足が優先されることになり、過去からの歴史的集積は顧みられることがなくなる。「改革音頭」を囃し立てる人々は、例外なく、「戦後日本」を盲信し、「大衆民主主義」そのものが抱え込む問題に対する感受性が鈍い。大事小事の分別が不得手である。事の軽重を弁えぬ人々の構想は、その場しのぎの弥縫策でしかない。「政治改革」とは、戦後の呪縛を断つための政治面における改革しか、本来価値はない。「改革」が戦後日本を疑わず、その呪縛を解こうとせぬまま進められるものであるとすれば、無意味どころか有害なのである。多数意思(世論と言ってしまってよい)とはエゴイズムの集積であり、それがたまたま正しい判断となる場合も稀にはあるが、ほとんどの場合、情緒的で枝葉末節に拘泥する。私欲の集積が倫理を消滅させ、秩序を破壊する。私欲の集積が「公」にならない。のである。ならば、民主主義が衆愚に陥らぬためにはどうすればよいのか?「国民・都民の意思なるものを素のままに政策に反映させない」という統治する側の自覚、心構えが必要なのである。このように振舞う以上、統治する側が「私」を優先させてはならないのは当然なのである。小池都知事を、立派な統治者であると考えたり、その成長を見守りたいという方々にはお願いがある。真に強い指導者は、有権者や議会に対する説得と、それを経たうえでの多数派の形成を回避してはならないということである。現状の国会などのように野党は、聞く耳を持たず、反対のための反対を繰り返すばかりでは、説得など不可能であり、野党の側にこそ変わってもらわなければならないのである。私には、小池都知事が、面倒な議会への説得をする気力も能力をも持ち合わせぬために「イエスマン」ばかりを議会に集めたいかにしか見えない。これまた政治家による「衆愚」の生産でしかない。文責 上田 和哉