2008/04/29(火)04:05
◆江利チエミ
先週、た○しの誰でもピカソで江利チエミを2週に亘り特集していましたね。。。
お宝映像を期待し見られたファンもまだまだ多いことでしょう。
アメリカに渡りデュークやエラとの競演にはビックリしました。
戦後の昭和ジャズを語るうえで欠かせない存在です。
Eri Chiemi - Swanee - Fuji TV 1967
東京・世田谷区瀬田にある法徳寺。江利チエミはここに眠っている。
亡くなってから早25年が過ぎたが、今も線香の香りが絶えることがない。
江利チエミの最期、それはあまりにも突然で、寂しいものだった。
昭和12年 江利チエミは軽演劇の女優だった母と、バンドマスターの父の末っ子として
生まれた。母は病気がちの上に父は人間関係のいざこざから失業し、
一家はたちまち貧困のどん底に陥った。家計を助けようと、
まだ小学生だったチエミは進駐軍の前で歌うことに…。
チエミの歌う姿に米兵たちの間から喝采が起こった。
こうして進駐軍歌手「エリー」は誕生した。
ところが母親が46の若さで他界、わずか14歳だったチエミにとって、
あまりに過酷な出来事だった。
昭和27年、進駐軍のアイドル、エリーこと久保智恵美は、
母が名付けてくれた江利チエミとしてレコードデビューを果たす。
若干15歳が歌うテネシーワルツは40万枚の爆発的な大ヒットとなった。
江利チエミ/KING RE-JAZZ SWING
そして昭和31年。チエミは生涯の当たり役「サザエさん」に出会う。
「サザエさん」にはチエミの憧れていた家庭の風景があった。
そんなころ、チエミの運命の男性、高倉健と出会うことになる。
昭和34年、高倉の誕生日、2月16日に結婚。チエミは22歳だった。
チエミは間もなくして子供を身ごもるが、激しいつわりに襲われる。
診断の結果は妊娠中毒症、中絶を余儀なくされた。
芸能界に復帰したチエミは昭和38年紅白の司会にも選ばれ、押しも押されもせぬ
大歌手になっていた。しかし、次々と不運がチエミに襲いかかる。
昭和44年の紅白落選にはじまって、新居の全焼、さらに親がわりであった兄の急死。
さらに衝撃的な事件が彼女を襲った。チエミが信じて任せていた財産を姉が横領したのだ。
そして高倉との離婚…。
それからのチエミは、多額の借金を返済するために仕事を選ばずに働き続けた。
昭和50年「酒場にて」が大ヒット。その曲は、当時のチエミの心境を映し出していた。
借金を返済し、「ひとりの女として生き直してみたい」と明日への希望に満ちていた。
しかし、昭和57年2月13日午前7時。誰もいない部屋で彼女はたったひとりで逝った…。
3日後の2月16日、実家で密葬が営まれた。この日は生涯愛した高倉の誕生日であり、
2人の結婚記念日でもあった。奇しくもそんな運命の日に、チエミは柩にに入れられ、
天国へと旅立ったのだ。。。
美空ひばりにjazzの影響あたえた程、
彼女は戦後初のJazzを理解したNo 1シンガーであったというこである!
江利チエミ/SP盤再録による江利チエミヒットアルバム Vol.1
☆楽しめた人は!☆