昭和 PLAYBOYS

2008/04/29(火)04:05

◆江利チエミ

MUSIC(96)

先週、た○しの誰でもピカソで江利チエミを2週に亘り特集していましたね。。。 お宝映像を期待し見られたファンもまだまだ多いことでしょう。 アメリカに渡りデュークやエラとの競演にはビックリしました。 戦後の昭和ジャズを語るうえで欠かせない存在です。 Eri Chiemi - Swanee - Fuji TV 1967 東京・世田谷区瀬田にある法徳寺。江利チエミはここに眠っている。 亡くなってから早25年が過ぎたが、今も線香の香りが絶えることがない。  江利チエミの最期、それはあまりにも突然で、寂しいものだった。  昭和12年 江利チエミは軽演劇の女優だった母と、バンドマスターの父の末っ子として 生まれた。母は病気がちの上に父は人間関係のいざこざから失業し、 一家はたちまち貧困のどん底に陥った。家計を助けようと、 まだ小学生だったチエミは進駐軍の前で歌うことに…。 チエミの歌う姿に米兵たちの間から喝采が起こった。 こうして進駐軍歌手「エリー」は誕生した。  ところが母親が46の若さで他界、わずか14歳だったチエミにとって、 あまりに過酷な出来事だった。  昭和27年、進駐軍のアイドル、エリーこと久保智恵美は、 母が名付けてくれた江利チエミとしてレコードデビューを果たす。 若干15歳が歌うテネシーワルツは40万枚の爆発的な大ヒットとなった。 江利チエミ/KING RE-JAZZ SWING  そして昭和31年。チエミは生涯の当たり役「サザエさん」に出会う。 「サザエさん」にはチエミの憧れていた家庭の風景があった。 そんなころ、チエミの運命の男性、高倉健と出会うことになる。  昭和34年、高倉の誕生日、2月16日に結婚。チエミは22歳だった。 チエミは間もなくして子供を身ごもるが、激しいつわりに襲われる。 診断の結果は妊娠中毒症、中絶を余儀なくされた。  芸能界に復帰したチエミは昭和38年紅白の司会にも選ばれ、押しも押されもせぬ 大歌手になっていた。しかし、次々と不運がチエミに襲いかかる。 昭和44年の紅白落選にはじまって、新居の全焼、さらに親がわりであった兄の急死。 さらに衝撃的な事件が彼女を襲った。チエミが信じて任せていた財産を姉が横領したのだ。 そして高倉との離婚…。  それからのチエミは、多額の借金を返済するために仕事を選ばずに働き続けた。 昭和50年「酒場にて」が大ヒット。その曲は、当時のチエミの心境を映し出していた。 借金を返済し、「ひとりの女として生き直してみたい」と明日への希望に満ちていた。  しかし、昭和57年2月13日午前7時。誰もいない部屋で彼女はたったひとりで逝った…。  3日後の2月16日、実家で密葬が営まれた。この日は生涯愛した高倉の誕生日であり、 2人の結婚記念日でもあった。奇しくもそんな運命の日に、チエミは柩にに入れられ、 天国へと旅立ったのだ。。。 美空ひばりにjazzの影響あたえた程、 彼女は戦後初のJazzを理解したNo 1シンガーであったというこである! 江利チエミ/SP盤再録による江利チエミヒットアルバム Vol.1 ☆楽しめた人は!☆

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