劇評:期間限定Saccharin 『楽屋』
現在形の批評 #91(舞台)・期間限定Saccharin 『楽屋』12月28日 ウイングフィールド ソワレ 演劇を生の場と捉える舞台-2008年を回顧する 私の今年最後の観劇が、12月28日ウイングフィールドで上演された期間限定Saccharin『楽屋』で締めくくられた。これは、関西に拠点を置いて劇作・演出家として活動する樋口美友喜(劇団Ugly duckling)・棚瀬美幸(南船北馬)・芳崎洋子(糾~あざない~)・なかた茜(トランスパンダ)の4人が女優を努め、、1977年に執筆された清水邦夫の『楽屋』を上演するという試みである。舞台女優として華やかに名作古典劇の主役を務める一握りの者の背後には、数え切れない多くの夢破れた女性達がいる。この作品は、日々年老いてゆく主演女優と、年は取らないが主演女優をいつまでも待ち続ける亡霊による、演劇にかける想い、あるいは女としての生き方の矜持と憎悪が激しく渦巻く濃密なドラマである。この作品を取り上げた彼女達の意図が、そして自らが舞台に立って演じるということが、なぜ演劇に拘るのかという自分達を再確認することにあるのは間違いないだろう。一定の知名度と業績を上げ、その労力に比例してそれなりに年齢を重ねもう後戻りできない者が、この先も演劇と心中するかのように自らを追い込む覚悟と決意が込められているはずだ。特に、芳崎はこの舞台が初めての女優体験なのだという。冒頭『かもめ』のニーナの台詞を大きくはずしはしたが、あらゆるものを捨て、身を滅ぼしながら舞台に立たねばならない主演女優の懊悩や、亡霊に役を返せと迫られ、激しく抵抗・逆上する演技には台詞の的確な捉えと、そこに声と身体をうまく合致させることに成功していた。戯曲を生み出す際は作家の問題意識が自然、なんらかの形で反映されるに違いないが、その言葉を受け取る俳優や規正戯曲を上演する際にもそれは必須条件である。それはつまり、なぜ演劇をしなければならないのかという個々の生き方の根拠に照応させるということだろう。役や戯曲との距離を埋めるために、自ら擦り寄って合わせるのではなく、鷲掴みにし、引き寄せることで生じる自己との親和性や差異というもののバイアスことが重要なのだ。そこから思考を始める事で確固たる自己の模索の第一歩が始まるのであり、そのプロセスによる現在形の検証が舞台での演技や、既製戯曲を上演することの批評的な提示となるのだ。役・戯曲がすでにあるものではなく、可変的有機体であるのはその限りにおいてなのである。女優Dは「よく考えてみると、女優って、報われるものの少ない職業ですものねぇ、なにもかも犠牲にしちゃって・・・・・・しかも日に日にみずみずしさを失ってゆく肉体にムチ打って、ひたすら求めるのは絵空ごとの愛ばかり・・・・・・だからあたし思うんです、こんなつらい仕事は長くやるべきじゃない、こんな残酷な仕事に耐えられるのは若い時だけだって・・・・・・」と言って、若い自分に役を渡す様にせまる。それに対して女優Cは老いてゆく過程で得たあらゆる物こそが老いを凌駕すると主張する。「(前略)蓄積が必要なの、いろんな蓄積・・・・・・ある意味であなたのいう孤独だって蓄積のひとつよ。」そして、「(前略)あたしは残酷な仕事であることは、百も承知で、女優をやってるの、女優という職業をえらんだの。選んだからには、そこに残酷な部分が山とあったって、かまいやしない、だったらその残酷さを味わってやるだけよ、(後略)」と言い切る。このようなやり取りによる、女優への執着の強さが舞台空間に終始張り詰める。先述したように、役を演じることが、自己存在の模索の果てしのない思索行動なのであるから、それは生への執着の強さとイコールであろう。私達は普段、それほど生の実感を得ながら生活しているだろうか。毎日の仕事への奉仕を義務付けられた者は、日々肉体と精神を搾取された機械的労働を余技なくされ、幻想であることは承知の上で、世間体や常識という名の近代の残滓に押し潰されている。あるいは、派遣切りの憂き目にあった者は、年越しの不安を抱き、明日は路上生活かもしれないと汲々としながら街をさ迷い歩いている。どちらにせよ、一個の肉体が成せる事のあまりの瑣末さを突きつけられた結果、充実とは程遠い毎日を送らねばならないのだ。いや、女優達も「報われるものの少ない職業」で「みずみずしさを失ってゆく肉体」に絶望するはずだ。表舞台に対する楽屋の悲惨さがそれを物語る。幾つかの巨大な姿見は大きく割れている。砕けたガラスが床一面に散乱し、椅子にはワイヤーがぐるぐる巻きにされている。激しく女達が矜持を賭けた主張をする度、テーブルの上の物が投げられ、舞台が進むにつれ、ティッシュやビューラー等の小物で床はさらに残骸が増えてゆく(美術・サカイヒロト)。表舞台の華やかさと対照的に生々しい楽屋の光景は、唐十郎の『少女仮面』の主題でもある、観客の前に自身をさらけ出すことによって生を奪われ、人形化してゆく悲劇を想起させる。演劇をすることが生身の身体を切り捨てることになるのだ。自身の存在を思想することと、奪われる生との両義的な間でゆらめく残酷な場所に立たざるを得ないのが演劇を志向する者の宿命である。その上で尚且つ、生への執着を見せる彼らの原動力を見せるのは、「残酷さを味わ」うという選択を自らが下す点にあると言える。そもそも演劇という芸術は不合理さで溢れている。それの中に飛び込むこと自体、その不合理さを引き受ける意志がなければならない。だからこそ、「選んだからには、そこに残酷な部分が山とあったって、かまいやしない」という台詞が一等の響きを持つのであり、物の残骸で溢れる凄惨な楽屋空間と、その中で展開される我欲のうめきという、舞台裏の現実原則を主舞台として見せるこの舞台が、生への執着の強さへと転換したものとなるのだ。今年、全95本の観劇の中で、悪い芝居『東京はアイドル』地点『話セバ解カル』七味まゆ味一人芝居『いきなりベッドシーン』維新派『呼吸機械』モダンスイマーズ『夜行ホテル~スイートルームバージョン~』といった作品が、このような意志を持ったものとして強く印象に残る。『楽屋』での、残骸と肉体の欠損感で溢れる舞台空間は、我々が生きる現実に等しいものだ。それを一瞬の甘美に賭けようとし、自らが選択して投企しようとする者達による覚悟と意志は、芸術が娯楽ではなく、真剣な生の場であることを知覚させる。演劇という場が己が生きる一切の存在を賭した場ということは、そこで生活することに限りなく近似である。人生は裏切りと挫折の連続である。その痛みはデジタル化した身体にはもはや無意識に素通りし、擬似自己のような記号の羅列を介してネット空間に放り投げ解消することが処世術のようになっている今、衆目に晒され、台詞の洪水によって身体を痛付けられ、ある部分では無残に捨てられざるを得ない状況を招くのが舞台というものである。その地点から生への充実した一瞬を掴み取るスタートが始まることを自覚し、あえて演劇を選択し向き合う姿勢を貫く舞台から、残骸と肉体の欠損感でどうしようもない浮遊感を抱かざるを得ないこの世界をどのように引き受け、生きようとしているのかを私は常に目撃しようとしてきた。そのような真摯に生の場として演劇を捉える活動を「演劇労働」とでも呼んでみよう。労働は苦痛を伴う。労働がそれに見合う対価を得ることだとすれば、そんなものほとんどないに等しい。そしてその一点において演劇を志向することが、程度の低い生き方のように見なされもする。だが、身体の実感を回復し、地上に立つ根拠を探る事は生きる事そのものの模索と同義である。労働がその事の充実のためにあることもまた然りである以上、演劇を労働と捉えてもいいはずだ。そして私が、あちこち周遊し観客席に座るという時に苦痛を伴う行為を続け、誰に頼まれたのでもなく勝手に劇評を書き、このように自らのブログでその報告をすることは、彼らの労働に対する私なりの生き方の応答の意味合いのつもりなのである。今年は、ウイングフィールドの閉館の報と、その後のシンポジウムを通して支配人の福本氏が再び継続を模索するという一連の経緯により、演劇状況を巡る危機が取りざたされた。それは今年だけではなく、昨年頃から府や市の方針によって劇場の閉館が相次いで決定していることに関連した動きなのだろう。ただ、危機には違いないが、私はウイングの経緯から改めて民間の強さというものも感じた。行政による支援をあえて断っているウイングの体現するものは、まさに演劇と生が一体となった「演劇労働」の実践ではないだろうか。それは行政による切り捨てからは免れ、全て自らが決定を下せるという生き方の選択を可能にする。誰もが信じ召し抱く生き方の幻想でしかない方程式がいよいよ崩壊しようとする今、演劇を真剣な生の場と捉える生き方は何者からも否定されるいわれはない。来年も演劇を真剣に生きる場と捉え格闘する事象に伴走することで、私自身の生の燃焼の仕方を探る作業を続けるだろう。